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最終話

 夕焼けが、街を少しだけ赤く染めていた。


 奈央のアパートは、以前と何も変わっていない。


 エントランスのドア、少し軋む階段、二階の角部屋。

 手すりに触れる手が、微かに震えていた。


 インターホンを押す指も、心許ない。

 でも、もう逃げない。

 何も言われなくても、今度こそ、真正面から向き合うと決めていた。


 ピンポン。

 数秒の沈黙。


 ……返事はない。


 もう一度、押す。


 また、数秒。


 そして――ガチャ、と扉がゆっくり開いた。


 


 「……光希」


 そこにいたのは、Tシャツにジャージ姿の奈央だった。

 髪は束ねていなくて、目元に薄くクマがある。


 でも、その目は、はっきりと俺を見ていた。


 


 「話、したい」


 言葉にすると同時に、頭が自然に下がっていた。


 「ごめん。……あの日、あんなことになって、奈央を傷つけて……謝っても許されないって分かってる。だけど、ずっと、後悔してた」


 頭を上げると、奈央は無言で、扉を少しだけ開いてくれた。


 「中、入って」


 



 


 部屋に入ると、洗濯物の匂いと、柔らかな生活感が漂っていた。


 俺は玄関で靴を脱ぎながら、深く息を吸い込む。


 奈央は台所から水を持ってきて、俺の前に置いた。


 何も言わず、ソファに腰を下ろす。


 俺も、その斜め向かいに座る。


 


 「反省、してる?」


 奈央がふいに言った。


 声は穏やかだったが、どこか試すような響きもあった。


 俺は、小さく頷く。


 「……後悔しかない。あの日以来、何しても満たされなかった。……誰といても、笑っても、全部、空っぽだった」


 奈央はグラスの水を一口飲んだ。


 「……でも、美月ちゃんと付き合ってたよね?」


 「……あれは、付き合ってたっていうか……ただ、流されてただけで」


 「身体だけの関係ってやつ?」


 真正面から、えぐってくる。


 けれど、俺は否定しなかった。


 「そうだ。最低だと思ってる。……でも、ずっと、奈央が忘れられなかった。今でも、好きなんだ」


 


 しばらく、沈黙が落ちた。


 冷蔵庫のモーター音だけが響く中、奈央は長いまつげを伏せて言った。


 


 「……じゃあ、やり直そ?」


 


 俺は、顔を上げた。


 彼女は、ほんの少しだけ笑っていた。


 怒っても、泣いてもいない。

 ただ、その目に残っていたのは、“まだ少しだけ信じたい”という微かな光だった。


 「ほんとに、いいのか?」


 「まだ反省してる顔してるし。……すぐには無理だけど」


 奈央は立ち上がり、台所の方に歩きながら言った。


 「これから少しずつ、取り戻してよ。ちゃんと、全部」


 その背中が、懐かしくて、愛しかった。


 


 俺は立ち上がって、後ろからそっと奈央の手を握った。


 もう、二度と離さないように。


 


 


 ――その数日後。


 


 大学の構内で、俺と奈央が歩いていると、後ろから声が飛んできた。


 「……ふざけんなよ」

 


 振り返ると、そこには美月がいた。


 唇を噛み締め、肩を震わせていた。


 「なんで……なんで、あたしじゃダメなの?」


 その声は、泣きそうだった。


 「こんなに好きって伝えてるのに、身体だってわがままだって全部許したのに……なんで、この女に戻るの?」


 俺は、言葉が出なかった。


 でも、代わりに奈央が前に出た。


 彼女は、少しも表情を崩さずに、美月をまっすぐに見つめて言った。


 「……彼が、私を選んだのよ」


 「……は?」


 「というか元々、私のものだったから」


 静かな、けれど冷たく突き放すような声だった。


 その瞬間、美月の顔が真っ赤になり、何かを言いかけたけれど――

 奈央はもう、俺の手を取っていた。


 「行こっか」


 そう言って、俺の手を握るその温度が、あまりにも懐かしくて。




 


 電車のホーム、二人並んで立ちながら。


 「……さっきのほんとに、いいのか?」


 「まだ反省してる顔してるね」


 奈央は笑った。


 「これから少しずつ取り戻してよ。ちゃんと、全部」


 その手を、もう二度と離さないように。

 俺は、強く握り返した。

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