最終話
夕焼けが、街を少しだけ赤く染めていた。
奈央のアパートは、以前と何も変わっていない。
エントランスのドア、少し軋む階段、二階の角部屋。
手すりに触れる手が、微かに震えていた。
インターホンを押す指も、心許ない。
でも、もう逃げない。
何も言われなくても、今度こそ、真正面から向き合うと決めていた。
ピンポン。
数秒の沈黙。
……返事はない。
もう一度、押す。
また、数秒。
そして――ガチャ、と扉がゆっくり開いた。
「……光希」
そこにいたのは、Tシャツにジャージ姿の奈央だった。
髪は束ねていなくて、目元に薄くクマがある。
でも、その目は、はっきりと俺を見ていた。
「話、したい」
言葉にすると同時に、頭が自然に下がっていた。
「ごめん。……あの日、あんなことになって、奈央を傷つけて……謝っても許されないって分かってる。だけど、ずっと、後悔してた」
頭を上げると、奈央は無言で、扉を少しだけ開いてくれた。
「中、入って」
◇
部屋に入ると、洗濯物の匂いと、柔らかな生活感が漂っていた。
俺は玄関で靴を脱ぎながら、深く息を吸い込む。
奈央は台所から水を持ってきて、俺の前に置いた。
何も言わず、ソファに腰を下ろす。
俺も、その斜め向かいに座る。
「反省、してる?」
奈央がふいに言った。
声は穏やかだったが、どこか試すような響きもあった。
俺は、小さく頷く。
「……後悔しかない。あの日以来、何しても満たされなかった。……誰といても、笑っても、全部、空っぽだった」
奈央はグラスの水を一口飲んだ。
「……でも、美月ちゃんと付き合ってたよね?」
「……あれは、付き合ってたっていうか……ただ、流されてただけで」
「身体だけの関係ってやつ?」
真正面から、えぐってくる。
けれど、俺は否定しなかった。
「そうだ。最低だと思ってる。……でも、ずっと、奈央が忘れられなかった。今でも、好きなんだ」
しばらく、沈黙が落ちた。
冷蔵庫のモーター音だけが響く中、奈央は長いまつげを伏せて言った。
「……じゃあ、やり直そ?」
俺は、顔を上げた。
彼女は、ほんの少しだけ笑っていた。
怒っても、泣いてもいない。
ただ、その目に残っていたのは、“まだ少しだけ信じたい”という微かな光だった。
「ほんとに、いいのか?」
「まだ反省してる顔してるし。……すぐには無理だけど」
奈央は立ち上がり、台所の方に歩きながら言った。
「これから少しずつ、取り戻してよ。ちゃんと、全部」
その背中が、懐かしくて、愛しかった。
俺は立ち上がって、後ろからそっと奈央の手を握った。
もう、二度と離さないように。
――その数日後。
大学の構内で、俺と奈央が歩いていると、後ろから声が飛んできた。
「……ふざけんなよ」
振り返ると、そこには美月がいた。
唇を噛み締め、肩を震わせていた。
「なんで……なんで、あたしじゃダメなの?」
その声は、泣きそうだった。
「こんなに好きって伝えてるのに、身体だってわがままだって全部許したのに……なんで、この女に戻るの?」
俺は、言葉が出なかった。
でも、代わりに奈央が前に出た。
彼女は、少しも表情を崩さずに、美月をまっすぐに見つめて言った。
「……彼が、私を選んだのよ」
「……は?」
「というか元々、私のものだったから」
静かな、けれど冷たく突き放すような声だった。
その瞬間、美月の顔が真っ赤になり、何かを言いかけたけれど――
奈央はもう、俺の手を取っていた。
「行こっか」
そう言って、俺の手を握るその温度が、あまりにも懐かしくて。
◇
電車のホーム、二人並んで立ちながら。
「……さっきのほんとに、いいのか?」
「まだ反省してる顔してるね」
奈央は笑った。
「これから少しずつ取り戻してよ。ちゃんと、全部」
その手を、もう二度と離さないように。
俺は、強く握り返した。