3
夜の部屋は、静かすぎた。
何も流れていないテレビ。
通話も音楽もないスマホ。
カーテンの隙間から差す街灯の光だけが、部屋の空気を切り裂いていた。
ひとつ、ため息をつく。
奈央の香りが、まだ部屋のどこかに残っている気がして、俺は枕を裏返した。
◇
別れを告げられてから、三日が経った。
ろくに飯も食っていない。大学にも顔を出していない。
家にいても、奈央からの最後の言葉ばかりがリフレインして、気が狂いそうになる。
スマホの通知はない。
LINEを開くのが怖い。
未読のまま、俺を拒絶しているアイコンを見たくなかった。
……あんなこと、しなければ。
後悔と自己嫌悪が波のように押し寄せては、消えていかない。
それでも、どうしようもなかった。俺は最低な選択をして、最低の結果を選んだ。
◇
その夜、突然インターホンが鳴った。
こんな時間に誰かなんて――と思いながらドアを開けると、そこに立っていたのは美月だった。
「……どしたの、光希くん。顔色やば」
「あ、いや……なんで来たんだよ」
「なんで、はひどくない? 一応、彼女でしょ?」
にこっと笑う彼女の手には、コンビニの袋。
中には、飲み物とお菓子。アイスまで入っていた。
「……付き合ってるって、俺、言ったっけ?」
「言ってないけど、あの夜からずっと既成事実でしょ」
当然、みたいな顔で入ってくる。
拒む力は、今の俺にはなかった。
◇
「これ、好きでしょ?」
美月が買ってきたグレープソーダを渡してくる。
俺が以前、飲み会で一口だけ飲んだやつだった。
「……覚えてたんだ」
「うん。意外と見てるんだよ?」
そう言って、彼女は俺の隣にぴたっとくっついた。
脚が触れる。香水の匂いが、近い。
「なぁ、美月……俺、正直――」
「わかってるよ、まだ引きずってるんでしょ? 元カノのこと」
俺が言葉を続ける前に、彼女は遮った。
「でも、光希くんが“いま”ここにいるのは、あたしとでしょ?」
指先が、俺の手の甲を撫でる。
そのまま、肩に寄りかかってきた。
「だから、もう、忘れてよ。嫌なこと、全部」
「無理だよ、そんなの……」
呟いた声は、まるで子どものようだった。
「じゃあ、あたしが忘れさせてあげる」
彼女は俺の頬に手を添えて、軽く口づけた。
「……美月」
「光希くんが欲しいもの、全部あげる」
そのまま、唇が重なった。
何も言わずに、ただ流されるように、ベッドに沈んでいった。
◇
それは、優しさでも愛情でもなかった。
ただ、空虚を埋めるだけのキス。
声も、肌も、何一つ響かない。
それでも俺は、彼女の首に腕をまわし、見つめ返していた。
まるで、求められることが“罪の免除”になるような錯覚。
――でも違う。これは、ただの逃げだった。
◇
終わった後、美月は俺の胸に頬を寄せた。
「ねえ……あたし、ちゃんと彼女だよね?」
その問いに、答えられなかった。
「セフレじゃ、ないよね?」
笑っていた。
でも、その笑顔は、少しだけ歪んで見えた。
◇
翌朝、目が覚めても、心は何ひとつ変わっていなかった。
ベッドの横で寝息を立てる美月。
俺は、ふとスマホを開いた。
そこには――
駅前のホームで、誰かと話している奈央の姿。
偶然通りすがった友人が、SNSに載せていた“たまたま映った人影”だった。
立ち止まる足。
強くなった鼓動。
思考よりも早く、指が画面をスクロールしていた。
まだ――終わってない気がした。
もう一度、会いたい。
もう一度、ちゃんと謝りたい。
そう、思ってしまった。