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氷の入ったグラスが、テーブルの上でカランと音を立てた。
口に含んだアルコールが、喉を焼くように下っていく。
「ほらほら、顔赤いよ? 光希くん、案外お酒弱い系?」
笑いながら俺の腕にぴったりくっついてきたのは、美月だった。
さっきから何杯目かも、もうわからない。
「そろそろ、帰ろうかな……」
「えー、つまんない。もうちょっと飲もうよ。ね? こっちこっち」
彼女は俺の手を引いて、席を離れた。
二次会。薄暗い、音楽の鳴るバーの片隅。
グラスの中の琥珀色が揺れていた。
「ねえ、キス……したことある?」
耳元で囁かれたとき、俺の意識はすでに半分溶けていた。
「……っ」
唇が触れ合い、呼吸が重なった瞬間。
奈央の顔が、脳裏に浮かんだ。
――ダメだ。
そう思った。
でも、止められなかった。
世界が、アルコールの膜で曇っていた。
◇
目が覚めたのは、見覚えのない天井の下だった。
身体が重くて、息が詰まりそうだった。
視界の隅に、裸の肩が見えた。
「……は?」
隣で寝ていたのは、美月だった。
彼女は、薄く笑いながら俺に気づき、シーツを引き寄せる。
「おはよ。昨日……ちゃんと、覚えてる?」
頭の奥がズキズキと痛む。
覚えていない。
いや、ところどころ、途切れ途切れの断片だけはあった。
――キス。
――服が脱がされる音。
――肌の温度。
「……違う、俺……」
「酔ってたんだよね? わかってる。でもさ、私、嬉しかったよ。光希くんが選んでくれて」
「選んでなんか、ない」
声が震えていた。
俺は急いでスマホを探す。
床に落ちた画面には、奈央からの未読LINEがいくつも届いていた。
【どこにいるの?】
【何かあった?】
【連絡して】
【もしかして、浮気……?】
【嘘だよね】
【電話出て】
【なんで黙ってるの?】
【最低】
喉の奥が締めつけられた。
昨日、自分が何をしたか、ようやく現実味を帯びてのしかかってくる。
「……行かなきゃ」
立ち上がろうとする俺の腕を、美月がまた掴んだ。
「ねえ、責任……とってくれるんでしょ?」
「責任?」
「昨日、あんなにしておいて……なかったことにはできないよね?」
その目は、真剣で、だけどどこか“演技”にも見えた。
俺は言葉を返さなかった。
吐きそうだった。
背中を向けて、そのまま服を掴んで出ていった。
◇
夕方。奈央の家の前。
何度チャイムを押しても、反応はなかった。
LINEも未読のまま。
俺は、深呼吸して、扉の前にしゃがみこんだ。
「……奈央……ごめん。ほんと、ごめん……」
何度も、何度も、呟いた。
ようやく、ガチャ、と扉が開いた。
奈央がそこにいた。
髪は乱れていて、ノーメイクの顔は少し浮腫んでいた。
目元は赤く、泣きはらした痕があった。
でも、声は落ち着いていた。
「……来ると思った」
「……ごめん。謝って済むことじゃないのはわかってる。でも、ちゃんと伝えたくて……」
俺は、土下座した。
奈央の足元に、額が触れるくらいまで頭を下げた。
「俺……酔ってて、ほんとに、自分が信じられなくて、でも奈央のことは、好きで……」
「やめて」
静かな声だった。
それだけで、呼吸が止まった。
奈央は俺を見下ろしていた。
怒っているわけじゃない。
ただ、何かが――完全に、冷めていた。
「光希のこと、すごく好きだった。優しいとこも、甘えてくれるとこも、全部。……でも、信じてた」
「……っ」
「たった一晩でも、裏切られたことは、消えないんだよ」
彼女の手が、俺の腕にそっと触れた。
優しい触れ方だった。
まるで、“最後の別れ”みたいに。
「さようなら、光希」
そのまま、奈央は扉を閉じた。
静かに、けれど確実に。
――音もなく、俺の“居場所”が消えた。