違和感の織り込まれた遺言
「…それでは連絡事項は以上だ。斡旋書を希望するものは、明日の正午に執務室へ集まるように。クラリスは今後の方針を後で話し合おう」
「「「はい」」」
遺言状を閉じたクロイツさんから解散の命を受け、皆思い思いの表情で持ち場に戻って行く。
でもそれは不安げだったり泣いていたりして、一様に暗い。
私も一度片付けた箒を取り出しに行こうと踵を返した瞬間、大きな手に肩を掴まれて動きを止められた。
普段は手加減して強く掴まないくせに、こんな時ばかり肩口に指先が食い込んでくる。
「…何」
「何じゃねぇ。お前自分でどんな無茶言ったか解ってんのか」
「解ってるよ」
悔しそうに奥歯を噛み締めるシャルルの気配を察して「痛いよ」と肩を揺り動かすと、意外にあっさりと離れていった。
けれど彼の溜飲は下がってくれなくて。
「解ってねぇからそんな平気な顔してんだろ!もしバレたらお前にお嬢様殺しの嫌疑が掛かることも考えらんねぇのかッ」
「ッ!」
そんな事最初から解ってる!
…珍しく声を荒らげた彼に、真っ向から言い返せなかった。
睨むに留めることしか出来なかった。
面と向かって口に出してしまえば、もっとシャルルは怒る気がして。
私が一番、私自身を大切に出来ていない事を解ってるから。
「あぁクラリス、シャルル。まだ此処に居たのか」
2人を取り巻くヒリついた空気を裂いたのは、どちらの声でもなかった。
「2人ともさっさと出て行く素振りしてたから、おじさん外まで探しに行っちゃったじゃないの。もう」
「執事長…」
ぶーぶーと不満を漏らす様は初老の男性ながら可愛らしい。
私達が口論していた事なんて分かっている筈なのに緩やかな歩幅で歩いてきた革靴は、私達と三角形を描くように止まった。
「でも2人とも見つかって良かった。これを渡したくてね」
懐に白い手袋が差し込まれるのを見て、またあの封書を見せられるのかと硬くなる。
けれど姿を現したのは金箔で、シャルルと共に首を傾げた。
「ん…?」
「それは、」
さっき嫌と言うほど目に灼きついた筈の白地の封筒の淵には、明らかに異なる滑らかな金の模様が刻まれていた。
それがクロイツさんの手の中に2通。
「お嬢様から2人への、私信だ」
「…!」
先程まであれだけ荒れていた空気が止まり、息を呑んで冷えた気管が徐々に温くなっていく。
震える指を差し出せば、軽くて重たいそれが乗せられた。
「…手紙なんか書くガラじゃねぇだろ」
シャルルには珍しく、口の中で飴玉を転がすような声だった。
予想だにしなかった紙をポケットへ仕舞って良いものかと逡巡しているようで。
「もしかしたら、パーティで渡そうとしてたのかも。お嬢様の誕生日、もうすぐだったから」
「………そうかもな」
腑に落ちないような低めた声に、脳内がチリリと痛みを叫ぶ。
じゃあ何だってのよ。
少しも綻びを見せないその口角に噛み付いてやろうかと頬を力ませた時、皮膚と皮膚を打ち付ける音がパンと響いた。
「ほらほら、もう此処は閉めるよ」
呆然とする私達を余所にぽんぽんと背中を推してくるクロイツさんに、あっさりと応接室から放り出されてしまって。
「2人とも今日の仕事は終わったろう?使用人部屋の掃除でもすると良い」
「ぁ…はい、」
カチャリと軽い調子で鍵を掛けた背広はあっという間に遠ざかってしまう。
窓の外は、まだオレンジ色の日が少し地平線から覗く時間で。
"誰が入ってくるか分からない応接室より、自室でゆっくり読みなさい"という事なのだろう。
「…頭が上がらないな」
「そうだね…明日は早起きして手伝おうか」
シャルルと並び立って廊下を歩くのなんていつぶりだろう。
私はお嬢様専属の侍女、シャルルは公爵家お抱えの情報屋として、いつしか執務室では向かい合って彼の報告を聴く形が常になっていた。
そんな郷愁が、手元の紙の質感を余計鋭敏にする。
「…一緒に読む?」
「…いや、部屋に戻ろう。お嬢様が個別に書いたって事はそういう事だろ」
「んー…」
まぁ、そうだよね。
そう思うけれど、1人でこの封筒を開く躊躇いと好奇心を天秤に掛ければ容易に前者へ傾いてしまいそうで。
「…そうだね、じゃあ、また明日」
「おう」
不安を無理やり押し込んで微笑めば、シャルルは何て事ないように頷いてくれた。
微かな安堵が胸の内に広がる。
いっそこんな胸騒ぎなんて私さえも気付かない方が楽だったから。
~~~~~~~
「ふー…」
身体が折れ曲がらないようにしっかりと腹筋に力を入れ、深く息を吐き出す。
折角クロイツさんが早く上がらせてくれたのだ。ルームメイトの居ない今しかない。
そう腹を括って取り出した便箋は、封筒と同じように優美な金の細工が施されていた。
_________私の大切な友人、クラリスへ
"思えばもう9年の付き合いか。クラリスは長いと言うかもしれないが、私は短く感じるな。出来る事なら、もっと一緒に居たかった。
私の行く末に思う所はあるだろうが、どうかあまり無茶はしないでくれ。そろそろシャルルの胃に穴が開いてしまいそうだ。
クラリスが気付いているかは分からないが、少なくともシャルルはお前が無鉄砲に動く度に真っ青な顔をしていたぞ。昨年の建国記念パーティーで私がヴァロワ侯爵に追われたのを覚えているか?お前が身を挺して応接間に匿ってくれて、侯爵と押し問答した時なんて今にも死ぬんじゃないかという顔色だった…。今度無謀な賭けに出る時は隣を見てみると良い。"
お嬢様の字だ。
流麗で、訓練されたように精緻な筆跡。
其処に綴られる思い出はどれも温かくて、言葉遣いは芯の通った声を思い出す。
…でも、なんだろう。この違和感。
"これからクラリスはどんな道に進むんだろうな。
ずっと公爵家で雇えれば良かったのだが、私が居なくなってしまってはお前も辛いかもしれない。昔よく遊びに来たコルベール家は分かるか?彼処の専属手品師を斡旋してある。
それともう一つ、隣国の奇術団にも渡りを付けておいた。特別待遇だから他の使用人には内緒だぞ?
もし外つ国に渡る事になったら、あの手品で私の墓標に薔薇を供えてくれ。"
指先に力が入り、白い便箋に微かな皺が寄る。
「…何だろ、なんか、気持ち悪い」
_________まるで自分の死を悟っていた、みたいだ
ぞわりと二の腕が粟立つ。
お嬢様はなんでこんな文章を書いたのだろうか。
そもそも使用人全員分の斡旋を済ませていたのも、見透かしたように遺言を書いてあったのもタイミングが良すぎる。
…ずっと思っていた。思い込んでいた。
お嬢様は不運にも病死されたのだと。
"身体が弱いのに強気な私をいつも庇ってくれた愛しいクラリス。どうかお前は、安全な場所で伸び伸びと過ごしてくれ。"
_________ルイーズ・ド・シュヴァリエは、誰かに謀殺されたのではないか?
「っは…、」
嫌な事を考えてしまった。
息が詰まる。
胃が引き絞られて苦しくて、どうしても上半身を伸ばしていられなくて。
「ぅ、シャルル…ッ」
とにかく一番頼れる人の元へと酸欠で痺れる足で扉の前まで辿り着くと、ひとりでに目の前の木の板が開いた。
「は?おい!しっかりしろ…!」
少し癖のついた黒髪が迫り、長い腕が慌てたように脇の下に差し入れられて支えてくれる。
そのまま部屋の中へ逆戻りして、呼吸が落ち着くまで温かい掌が背中を撫で続けてくれた。
まるで、3人でカロリーヌさんに怖い話を強請った幼き日の夜のように。
「ふ…はぁ…」
「落ち着いたか?」
「…、うん」
「何があった」
そういうシャルルの視線は真っ直ぐに便箋へ向いていて。
机の上で折り畳まれていても、勘が鋭い人にはお見通しらしいと緩く息を吐いた。
「私の様子、見に来てくれたの?」
「別に、どうせ泣いてるだろうと思ってたからな」
「意地悪だなぁ」
疲れて力の入らない笑い声をあげれば、早く話せと言わんばかりの胡乱な目が向けられる。
もう少し落ち着かせてくれても良いのにと思いつつ、冷静にならないうちに吐き出させてくれるシャルルの優しさも何となく感じてはいた。
だからそっと、息を吸う。
「…ねぇシャルル。お嬢様って…もしかして、」
その瞬間、コンコンと閉じられた扉が来客を告げる。
反射的にビクついてしまった私の代わりにシャルルが立ち上がって、キィと軋んだ音が部屋に流れ込んだ。
「あら此処に居たの。早上がりだったのね」
「カロリーヌさん…?」
「失礼するわね」と足音も立てずに近寄ってくるふくよかな侍女長の目的は、此処にきた時点で私だと分かる。
柔く弧を描いていた口元が、目の前にくるなり陰った。
「顔色が悪いわ…。今日はお休みにしようかしら」
「ぇ…お休みって、何をですか?」
温い手が頬を滑り撫でていく。
その柔らかさで落ち着いて、漸く真面な声が出た。
少し普段の私に戻ったのが見て取れたからか、柔和な笑みが白い頬に立ち戻る。
ただの侍女にも気を配ってくれる流石の観察眼と慈愛に淡い憧憬を抱いた瞬間。
「マナー講座よ。パーティーに列席するなら目一杯叩き込まなくちゃ」
「え゛」
…そんな女神像は完膚なきまでに粉々にされた。
「今日の分は明日に回そうかしら。朝は起きられそう?」
「ぁ、や、やります!今日も出来ます!」
「え、無理しなくて良いのよ?」
「やらせてください」
「なら…テーブルマナーにしましょうか。それならクラリスも座って出来るし」
「お心遣い感謝いたします…!」
「なら、食堂で待っているわね」
自分のペースでいらっしゃい、と甘く優しい言葉を残して扉が閉まる。
突然訪れた静寂に顔を顰めたのはシャルルだった。
「…今日くらい休んで良いだろ」
「ダメ」
「何で」
「カロリーヌさんは教育だけには厳しいから…!明日に皺寄せが行ったら未来の私が倒れちゃう」
だから何も言わず、見守ってて。
あまりの私の形相に何かを察してくれたのか、半ば青褪めた顔でシャルルは頷いてくれる。
なんだかんだ食堂まで着いてきてくれた彼に、結局お嬢様の件は訊けなかった。
「遅くなりまして申し訳ございません」
「あら…流石、礼は完璧ね」
自分自身に言い聞かせる。
…私はお嬢様。目の前の銀食器に集中すれば良いの。