お嬢様の名誉は私がお守りします
お嬢様が亡くなった。
お食事中の、一瞬の出来事だった。
縁を白金で彩った椅子から崩れていく華奢なお身体。
白い指が引っ掛けて倒れるワイングラスと、テーブルクロスから滴る赤い雫。一瞬騒ぎ立てるカトラリーの音。
あの光景を忘れる筈もない。
「…お嬢様!!」
「…っ、」
息も絶え絶えにドレスで締め付けられた胸元を上下させるお嬢様の唇から垂れているのは、ワインだと思いたかった。
そう、あれは、ワインだったのだ…。
瞼を開ければ執務室の天井が目に入る。
…こうして誰も居なくなってしまった部屋を掃除する今も、いつか年老いて箒すら持てなくなったとしても。
あの光景を、生涯夢に見続けるのだろう。
"クラリス、お願い…私が死んだ事は、誰にも知らせないで"
途切れ途切れのお嬢様の声が、未だに頭の中へ響く。
ごふっと咳き込む声まで反芻しないうちに、洗剤で荒れた指先で眉間を揉み込んだ。
「また頭痛がするのか」
「シャルル…ううん、大丈夫」
「顔色が悪いクセによく言う」
「あっ、」
紫がかった黒髪を捉える間もなく箒を取られてしまえば、侍女の矜持が奪われてしまったも同然。
なんとか取り返そうとしたものの、結局長い腕に遠ざけられてしまえば成す術なんてなくて。
いつも気配なく近付いてくる彼に掃き掃除を任せ、床にお尻を付かないようにしゃがみ込む。
「座ってろ」
「これはお嬢様の椅子だもん」
「頑固だな」
「…シャルルが順応しすぎなだけだよ」
使用人だけでひっそりとお嬢様の葬儀を終えて3日。
私はまだ、お嬢様がこの執務室に帰ってくるのを待っている。
「自分でも分かってんだろ」
「…うるさい」
葬儀屋さんは先代御当主様の頃から懇意にしていた方々で、「公爵家が経営層の税を引き下げてくれたから今がある」と口留め料を返金してきたらしい。
涙ぐむやら、どうやって恩を返すやらで執事長のクロイツさんが頭を抱えていたのをさっき見たばかりなのに、まだ実感が湧かずにいるのだ。
「お前が身体を壊したら一番悲しむのはお嬢様だぞ」
「…。座る」
すとんと椅子に腰掛ければ、満足げに見遣ったシャルルがせっせと箒を動かす。
淡々とした横顔から視線を伏せ、袖口に仕込んだハンカチをズルズルと引き摺り出した。
「最近やんないな。手品」
「もう見せる人が居ないもん」
結んで繋がれたハンカチを不貞腐れたように引き出すのを止め、くるくると弄ぶ。
父だったら柔らかい糸目を吊り上げて怒る所だ。
…でも仕方ないじゃないか。
手品師として名を馳せ公爵家へ出入りしていた父が荼毘に付された時、途方に暮れた私を拾い上げてくれたあの温かい手の持ち主はもう、誰も居なくなってしまったのだ。
「俺は好きだったけど。そのハンカチの先から薔薇が出てくるやつ」
「もうネタ暴露てるじゃない」
これだからシャルルは狡い。
10歳の時公爵家に引き取られてから、お嬢様と私は立場が違えど幼馴染のように傍らで過ごしてきた。
それを知らない人は公爵家に居ないし、シャルルも勿論解っているからこその慰め方。
…彼だって、若い年代が他に居ない公爵家で私達と並び立っていてくれたのに。
そう思うと眼球の裏が熱くなって、浅く腰掛けたままの膝に頬杖を付き、物思いに耽るように瞼を閉じた。
侍女長のカロリーヌさんに見つかったら大目玉を喰らってしまうと解っていながら。
「ねぇ、シャルル」
「ん?」
「寂しいよ」
「……俺もだよ」
いつの間にか、長い毛足のラグと箒の擦れる音は止んでいた。
~~~~~~~
「皆に話がある」
執務室の窓を拭き終えた頃、クロイツさんから使用人全員に召集が掛かった。
全員集まるなら玄関ホールでも良いのではと思ったけれど、今私達が鮨詰めにされているのは応接室で。
「…此処が一番、密閉度が高いからな」
「ん…?」
意味深な呟きはクロイツさんの傍に居た数人にしか聴こえなくて、こんな大勢相手に何か内密な話でもするのかと首を傾げるしかなかった。
全員…といっても20人と少しが集まった頃、誰より早く応接室に居ながらピシリと姿勢を正して立ち続けていたクロイツさんがやっと唇を開く。
「公爵家の、今後の話をしよう」
切り出された瞬間、柔和な人達しか居ない筈の空間がピリリと緊張感に包まれた。
「お嬢様の遺言が見つかったんだ」
「えっ…!」
「遺言…?」
「一体なんて、」
俄かにざわりと波立った応接室は、白い手袋に包まれた手がスッと上がるだけで制される。
誰かの息を呑む音さえ聴こえそうな中、クロイツさんは胸ポケットから質の良い便箋を取り出した。
「…"シュヴァリエ公爵家当主ルイーズ・ド・シュヴァリエの死後、公爵家の財産から使用人の給与を差し引くように。管理は執事長クロイツに任せる。執務室の金庫に各使用人が公爵家を辞した後の斡旋書類を用意しておいたので、必要な者は退職時の金子と共に使用するように"」
端的で書類のような文面に、お嬢様の声が聴こえるようで。
それでも最後に綴られた"今まで世話になった"という言葉に、年嵩の使用人達の鼻を啜る音が満ちる。
「これが一枚目の内容だ」
意味深な台詞と一枚目を畳んだ事で露見した2枚目が、一気に場を掻き立てる。
だって使用人の私達に必要な情報は終わって、今暇を出されたも同然だったのだから。
声を出さずとも読み取れる程らしくなく狼狽えるベテラン達に「分かるぞ」と言いたげな頷きが投げ掛けられ、白い口髭の覆う其処が容赦なく開いた。
「実はな…先代御当主様の亡き妹君に、ご子息がいらっしゃったそうだ。容姿こそ御当主様達とは似ても似つかぬが、公爵家の人間に遺伝する痣はあったらしい」
…一度、探してみてはどうだろうか。
その静かな声は一縷の望みに見えた。
この国を支える2つの公爵家のうちの一翼。
それが欠けては一大事なのだ。
…残っているかもしれない、公爵家の血筋。
経験を積んだ者ばかりの空間では、腹を括るのも速かった。
一方で、冷静になる人間も多いという事で。
「なら、捜索中の公爵家は何方が預かるのでしょう」
「再来週には王宮で建国記念パーティーが開かれるんですよ…?欠席というのも…」
「それは確かに…他家に探りを入れられても敵わん」
皆が希望を見出したが故に、一様に気が急いた表情を浮かべる。
クロイツさんも眉間に皺を寄せて黙り込んでしまった中、震える吐息を全て吐き出して。
入れ替えるように、冷たい空気を肺に満たした。
_________私に、身代わりをさせてください!
焦りの蠢く空間に、凛とした声を叩きつける。
「は、おい」と呼び止めるシャルルの声は、聴こえないフリをした。
先代御当主様と奥様が流行病で亡くなって以来、家名と公爵家の名誉は一人娘のお嬢様が守ってきた。
「後ろ盾の無い令嬢だとは言わせない」
「力を無くした名ばかりの公爵家だと侮らせない」
そう不敵に笑ってみせたお嬢様はもう居ない。
「専属の侍女として、一番近くでお嬢様を見てきました。変装術の得意な私なら、少しの間貴族達を欺くことくらいは出来る筈です」
「何無茶な事言ってんだ、」
「シャルル」
今度こそ身を乗り出して制止をかけるシャルルを呼び止めたのは私ではなく、クロイツさんだった。
「…一理あるな」
「クロイツさん…!」
「っありがとうございます、頑張ります!」
露見すれば縛り首の可能性だってある、危険な綱渡り。
けれど、やらねば。
遺言を果たすために。
お嬢様は多分、公爵家を守るために自身の死を隠匿したのだろうから。
「良いのか?クラリス」
私の身を案じて渋い顔をしてくれるクロイツさんに語り掛けられる。
力強く頷きそうな所を、踵を揃え、胸を張って微笑んだ。
使用人達の視線が変わる。
「…はい、私は只今から公爵家当主、ルイーズ・ド・シュヴァリエでございます」