第9話 リグレット・コイン(前編)
降りしきる雨が、新宿のネオンを歪ませ、アスファルトに叩きつけられていた。夜十時。バー「リグレット」が佇む路地裏は、普段の喧騒が嘘のように静まり返り、ただ雨音だけが響いていた。しかし、その静寂は、嵐の前の不気味な静けさだった。路地の入り口や周辺のビルの影には、複数の人影が息を潜めているのが、桐生徹の研ぎ澄まされた感覚には分かっていた。錦龍会、そしてハイエナ。彼らは、それぞれの思惑を胸に、獲物が現れるのを待ち構えている。
桐生は、リグレットの向かいにあるビルの屋上にいた。雨に打たれながら、コートの下に隠した武器の感触を確かめる。隣には、恐怖で顔面蒼白になりながらも、必死に桐生の指示に従おうとしている佐々木守がいる。
『…桐生さん、聞こえるか?』
耳に装着した小型のインカムから、ネズミの声が聞こえてきた。彼は少し離れた場所にある別のビルから、ハッキングした監視カメラの映像や通信傍受によって、状況を監視し、桐生に情報を送っている。
「ああ、聞こえる」桐生は低く答えた。
『予定通り、店の正面と裏口、両方にハイエナの手勢がいる。数は正面に四人、裏に二人。全員、武装してる可能性が高い。それと、周辺の路地にも数人、見張りがいるな。錦龍会の連中も、少し離れた場所に潜んでる。数は…十人以上か。鬼塚の姿も見えるぜ。奴ら、ハイエナと桐生さんをまとめて潰すつもりかもしれん』
まさに、袋のネズミ。正面突破も裏からの奇襲も、リスクが高すぎる。
「予定通り、プランCでいく」桐生は決断した。「秘密の通路は使えるか?」
『ああ、確認済みだ。リグレットの裏、ゴミ置き場の奥にある古いマンホール。そこから地下の管理用通路に入れる。通路は店の真下を通ってるはずだ。問題は、そこからどうやって店内に侵入するかだが…』
「心当たりはある」桐生は短く答えた。バーの床下には、昔、改装した際に塞いだ古い貯蔵庫への入り口があるはずだ。そこを使えば、カウンターの内側、奴らの死角に出られるかもしれない。
『了解。じゃあ、こっちは陽動の準備に入る。タイミングは任せるぜ』
「ああ」
桐生はインカムを切り、佐々木に向き直った。「行くぞ。俺の後に続け。物音一つ立てるな」
佐々木はこくこくと頷いた。その顔には恐怖が張り付いているが、わずかに、母親を救うのだという、悲壮な決意のようなものも見て取れた。
二人はビルの非常階段を使い、音を立てずに地上へと降りた。雨音に紛れて、リグレットの裏手へと回り込む。ゴミが散乱し、悪臭が漂う狭い路地。その一番奥に、ネズミが言っていた古いマンホールの蓋があった。桐生は周囲を警戒しながら、特殊な工具を使って音を立てずに蓋を開ける。湿った、カビ臭い空気が吹き上げてきた。
「先に行け」桐生は佐々木を促した。佐々木は一瞬ためらったが、意を決してマンホールの中へと降りていく。桐生もすぐに後を続いた。蓋を静かに閉めると、完全な暗闇と静寂が二人を包んだ。桐生は小型のペンライトを取り出し、足元を照らす。狭く、じめじめした通路が、暗闇の奥へと続いている。
「こっちだ」
桐生は記憶を頼りに、通路を進んでいく。壁からは水が染み出し、足元には水たまりができている。ネズミの鳴き声のような音が、時折暗闇から聞こえてくる。佐々木は桐生の背中にぴったりとくっつき、恐怖に耐えているようだった。
数分ほど歩いただろうか。桐生は立ち止まり、ペンライトで通路の天井を照らした。そこには、古びた金属製の点検口のようなものがあった。ここが、バーの床下にある旧貯蔵庫への入り口のはずだ。
「ここから上に上がる。静かにしろ」
桐生は佐々木に合図し、点検口の留め具を慎重に外した。ギギ、という錆びた金属音が小さく響く。上に押し上げると、埃っぽい木の匂いがした。バーの床下の空間だ。
桐生はまず自分が音を立てずに這い上がり、床下の狭い空間に身を潜めた。ペンライトで周囲を照らす。思った通り、カウンターの真下あたりだ。床板の隙間から、店内の様子がわずかに窺える。
カウンター席には誰もいない。だが、テーブル席の方に、複数の人影が見える。ハイエナたちだ。リーダーの溝口らしき男が、ふんぞり返って椅子に座り、葉巻をくゆらせている。その周りに、屈強そうな部下が三人。そして、カウンターの上には、見覚えのあるウイスキーのボトルが置かれていた。人質だ。
『…桐生さん、準備はいいか?』インカムからネズミの声。
「ああ」
『よし、じゃあ、花火を打ち上げるぜ! 3、2、1…!』
ネズミのカウントダウンが終わると同時に、店の外から、けたたましい爆発音と、車のクラクション、人々の悲鳴が響き渡った。ネズミが仕掛けた陽動だ。おそらく、近くに停めてあった車を爆破でもしたのだろう。
店内にいたハイエナたちが、一斉に警戒態勢に入った。
「何事だ!?」溝口が怒鳴る。「外の様子を見てこい!」
部下のうち二人が、慌てて店の正面ドアへと向かう。残るは溝口と、その傍に立つ部下一人。
「今だ」桐生はインカムに囁き、床板の一部を静かに持ち上げた。そして、音もなくカウンターの内側へと滑り込む。佐々木も後から続こうとしたが、桐生は手で制した。「お前はここにいろ。絶対に動くな」
佐々木は怯えた目で頷き、床下の暗闇に再び身を潜めた。
桐生はカウンターに身を隠しながら、状況を窺う。溝口ともう一人の部下は、外の騒ぎに気を取られている。背後には、裏口を見張っているはずのハイエナが二人いるはずだ。
桐生は息を殺し、カウンターの影から音もなく移動した。狙うは、溝口の傍に立つ部下。背後から忍び寄り、調達した拳銃のグリップで、男の後頭部を強かに殴りつけた。男は声もなくその場に崩れ落ちる。
「なっ!?」
溝口が異変に気づき、驚愕の表情で振り返った。その手には、すでに拳銃が握られている。
「桐生…!貴様、どこから…!?」
しかし、桐生の方が早かった。カウンターを盾にしながら、溝口に向けて発砲する。銃声が店内に轟く。溝口は咄嗟にテーブルを盾にして身を隠した。
「クソッ! 裏口の奴ら! 何をやっている!」溝口が怒鳴る。
裏口から、二人のハイエナが慌てて飛び込んできた。彼らも拳銃を構えている。これで、敵は溝口を含めて三人。桐生は一人。圧倒的に不利な状況だ。
激しい銃撃戦が始まった。桐生はカウンターやテーブルを遮蔽物にしながら、的確な射撃で応戦する。ハイエナたちも、容赦なく弾丸を撃ち込んでくる。ボトルが砕け、グラスが飛び散り、バーの壁や調度品に次々と弾痕が刻まれていく。桐生の聖域が、硝煙と暴力によって蹂躙されていく。
桐生は、一瞬の隙をついて、裏口から入ってきたハイエナの一人の足を撃ち抜いた。男が悲鳴を上げて倒れる。残るは溝口と、もう一人のハイエナ。
「回り込め!」溝口が叫ぶ。
もう一人のハイエナが、桐生の側面を取ろうと移動を開始した。桐生はそれを阻止しようとするが、溝口の牽制射撃に阻まれる。
絶体絶命かと思われた、その時。
店の正面ドアが、外から蹴破られた。そして、雪崩れ込んできたのは、黒いスーツに身を包んだ男たち。錦龍会の連中だ! その先頭には、若頭補佐の鬼塚の姿があった。
「見つけたぞ、ハイエナども! そして、桐生!」鬼塚の目が、狂気に満ちた光を放つ。
状況は一変した。ハイエナ vs 錦龍会 vs 桐生。三つ巴の戦場が、狭いバー「リグレット」の中で現出したのだ。
「撃て! 邪魔者は皆殺しだ!」鬼塚が号令する。
錦龍会の組員たちが、ハイエナと桐生、双方に向けて発砲を開始した。店内は、まさに地獄絵図と化した。銃声、怒号、悲鳴が入り乱れ、硝煙と血の匂いが立ち込める。
桐生はこの混乱を利用した。錦龍会とハイエナが撃ち合っている隙に、遮蔽物から遮蔽物へと移動し、敵の数を減らしていく。彼の動きは、無駄がなく、冷徹だった。まるで、この修羅場のために生まれてきたかのように。
床下の暗闇では、佐々木が銃声と悲鳴に怯え、ただただ体を丸めて震えていた。時折、桐生の指示で、空き瓶を投げて敵の注意を引いたりしたが、戦闘そのものには全く貢献できていない。
やがて、銃声が少しずつ減ってきた。錦龍会の組員の多くが倒れ、ハイエナも数を減らしていた。鬼塚は、手負いの獣のような形相で、なおも桐生を探している。
そして、桐生はついに、混乱の中で孤立した溝口の姿を捉えた。溝口もまた、桐生を探していた。二人の視線が、硝煙の中で交錯する。
「桐生…!」溝口の顔が、怒りと憎悪に歪む。「ウォレットはどこだ! さっさと渡せ!」
桐生は、手にしていた拳銃を静かに床に置いた。弾はもう尽きかけていた。そして、溝口もまた、拳銃を構えながらも、桐生との距離を詰めてくる。おそらく、桐生を生け捕りにして、ウォレットのありかを聞き出すつもりなのだろう。
「貴様さえいなければ…!」溝口が吐き捨てるように言った。
桐生は答えなかった。ただ、静かにファイティングポーズを取る。ここからは、原始的な、剥き出しの暴力による決着だ。
溝口は拳銃を投げ捨て、拳を固めて桐生に飛びかかってきた。
「死ねぇぇぇ!」
桐生は冷静にそれを受け止め、カウンターを蹴って距離を取る。狭い店内で、二人の男の、激しい肉弾戦の火蓋が切って落とされた。雨音と、遠くでまだ鳴り響くサイレンの音だけが、その死闘のBGMとなっていた。