第8話 後悔(リグレット)
決戦の場所と時間は指定された。明日の夜、十時、バー「リグレット」。桐生徹の聖域であり、全ての始まりとなった場所。ハイエナのリーダー、溝口は、桐生の大切な酒と、佐々木の母親の命を盾に、ウォレットを持って一人で来るように要求してきた。卑劣で、悪辣なやり方だ。だが、桐生に選択の余地はなかった。
ラブホテルの仮眠室の空気は、決戦前夜の重苦しさに満ちていた。桐生は壁に背を預け、目を閉じている。しかし、その意識は覚醒し、研ぎ澄まされていた。脳裏に浮かぶのは、溝口のにやついた顔、人質に取られたウイスキーのボトル、そして、怯えながらも桐生を見上げる佐々木の顔。それらが、過去の忌まわしい記憶の断片と重なり合う。
守れなかったもの。失ったもの。あの雨の夜、自分の無力さ故に、目の前で奪われていった温もり。その時の後悔が、桐生の心を今もなお縛り付けていた。だからこそ、彼は非情な仮面を被り、他人を遠ざけ、金という絶対的な力だけを信じようとしてきた。自分のテリトリーを、自分のルールを、何者にも侵させないために。
溝口は、その桐生の最も触れられたくない部分に土足で踏み込んできた。バー「リグレット」は、桐生にとって単なる仕事場ではない。過去の残骸の上に築き上げた、最後の砦のような場所だ。そして、あのウイスキーは、失われた時間と、わずかに残った人間性の象徴のようなものだった。それを人質に取られたことは、桐生の存在そのものを否定されたに等しい侮辱だった。
ケリをつけなければならない。錦龍会、ハイエナ、そして、この忌々しいウォレットを巡る全ての因縁に。たとえ、その先に何が待っていようとも。桐生の胸の奥底で、冷たく硬い決意が固まっていた。それは正義感からではない。怒り、屈辱、そして、二度と後悔はしないという、歪んだ矜持から来るものだった。
桐生はゆっくりと目を開け、スマートフォンを取り出した。まず、ネズミに短いメッセージを送る。『明日の夜、十時、リグレット。準備を頼む』
すぐに返信があった。『了解。だが、無茶はするなよ、桐生さん。奴らはサツだ。何をしてくるか分からん』
ネズミらしい、軽口の中に本気の心配が滲むメッセージだった。桐生は返信せず、次の番号を呼び出した。田所だ。
「…俺だ」
『桐生か…どうした? まさか、溝口の誘いに乗るつもりじゃないだろうな?』田所の声は硬かった。
「他に選択肢はない」
『馬鹿なことを言うな! 罠に決まってる! お前一人で行って、どうにかなる相手じゃないぞ!』
「分かっている。一つだけ、頼みがある」桐生は田所の言葉を遮った。「明日の夜、十時前後、リグレット周辺の警察の動きに注意してほしい。もし、何か不審な動きがあれば、ネズミに知らせてくれ。それだけでいい」
電話の向こうで、田所が深くため息をつくのが聞こえた。『…お前は、昔からそういう奴だったな。一度決めたら、テコでも動かん』しばしの沈黙の後、田所は諦めたように言った。『…分かった。できる限りのことはしよう。だが、これだけは言っておく。溝口の背後には、やはり何か大きな力がいる。奴ら、ハイエナごときを潰すためなら、お前や佐々木、場合によっちゃ俺やネズミだって、平気で駒として使い潰すだろう。絶対に、油断するな』
「感謝する」
桐生はそれだけ言って電話を切った。田所の協力は限定的だが、それでも心強い。警察内部の動きを知ることは、大きなアドバンテージになる可能性がある。
次に、桐生は武器の調達に取り掛かった。ネズミを通じて、裏社会の武器商人から、いくつかの「品物」を仕入れる手筈になっていた。もちろん、足のつかない、使い捨てのものだ。特殊警棒だけでは、武装した複数の相手には分が悪い。桐生は、受け渡し場所として指定された、深夜のコインランドリーへと向かった。
その時、背後からか細い声がかかった。
「き、桐生さん…!」
振り返ると、佐々木が不安げな顔で立っていた。その目には、恐怖と、そして何かを決意したような光が混じっていた。
「俺も…俺も行きます!」佐々木は震える声で言った。「俺のせいで…桐生さんや、母ちゃんまで危険な目に…! 役に立てるか分からないけど…いや、せめて、母さんのために…! 俺にできることがあるなら…!」
桐生は佐々木を無言で見つめた。その必死の形相は、滑稽なほどに痛々しかった。母親のため、という動機は分かる。だが、こいつは一度、その母親のために桐生を裏切った男だ。信用できるはずがない。足手まといになるだけだろう。
「…来るな」桐生は冷たく言い放った。「お前は足手まといだ。それに、俺はお前を信用していない」
「そ、それは…分かってます…! でも…!」佐々木は食い下がった。「このまま、何もせずに隠れてるだけなんて…耐えられない! 連れてってください! 何でもしますから!」
佐々木は床に膝をつき、桐生に頭を下げた。その姿に、桐生は再び、過去の自分の姿を重ねていたのかもしれない。守りたいもののために、プライドも何もかも捨てて、ただ必死だった自分。
桐生はしばらくの間、黙って佐々木を見下ろしていた。そして、何も言わずに踵を返し、コインランドリーへと向かうべく部屋を出た。
佐々木は、その場に呆然と立ち尽くしていた。拒絶された、と思ったのだろう。しかし、桐生がドアを閉める直前、低い声が聞こえた。
「…ついてくるなら、勝手にしろ。だが、俺の指示には絶対に従え。そして、死ぬな」
佐々木の顔に、驚きと、そしてわずかな希望の色が浮かんだ。彼は慌てて立ち上がり、桐生の後を追った。
***
深夜のコインランドリー。蛍光灯の白い光が、回転する洗濯ドラムを無機質に照らしている。桐生は指定された洗濯機にコインを投入し、待つこと数分。洗濯が終了したブザーと共に、中から取り出したのは、洗濯物に見せかけたスポーツバッグだった。中には、いくつかの硬く冷たい感触のものが入っている。拳銃、予備のマガジン、そして小型の爆発物。違法な品々だが、背に腹は代えられない。
隠れ家に戻ると、ネズミがラップトップを広げ、何やら複雑な画面を表示させていた。
「よう、桐生さん。ブツは手に入ったか?」
桐生は無言で頷き、バッグをテーブルに置いた。
「さて、と。それじゃあ、明日の作戦会議と行こうか」ネズミは眼鏡の位置を直し、画面を指し示した。「これがリグレット周辺の見取り図と、予測される敵の配置だ」
画面には、バー「リグレット」とその周辺の路地、建物の構造などが詳細に表示されていた。ネズミは、考えられる侵入経路、ハイエナたちの予想される待ち伏せポイント、そして錦龍会が介入してくる可能性などを、冷静かつ的確に説明していく。
「溝口の狙いは、あくまでウォレットだ。だが、奴はお前さんを確実に始末するつもりだろう。おそらく、店の正面と裏口、両方に手勢を配置してくるはずだ」ネズミは続けた。「錦龍会の鬼塚も、この情報を掴んでいないはずがない。奴らも、漁夫の利を狙って周辺に潜んでいる可能性が高い」
まさに、袋のネズミ。正面から行けば、蜂の巣にされるのは目に見えている。
「…何か手はあるのか?」桐生が尋ねた。
「まあ、いくつかプランはある」ネズミは不敵な笑みを浮かべた。「一つは、陽動だ。俺が別の場所で騒ぎを起こし、奴らの注意を引きつけている隙に、お前さんが裏から潜入する」
「リスクが高いな。お前が捕まる可能性がある」
「心配ご無用。ネズミは穴掘りが得意なんでね」ネズミは肩をすくめた。「もう一つは、奴らを同士討ちさせるやり方だ。ハイエナと錦龍会が接触してるって噂がある。その情報を逆手に取って、偽情報を流し、奴らをぶつける」
「…それも確実じゃない」
「ああ。だから、最終手段だ」ネズミは画面を切り替え、リグレットの内部構造図を表示させた。「この店には、お前さんしか知らない『秘密の通路』があるはずだ。それを使えば、奴らの裏をかけるかもしれん」
桐生は驚いてネズミを見た。なぜ、ネズミがそれを知っているのか。
「まあ、情報屋なんでね。客の秘密くらい、多少は知ってるさ」ネズミは悪戯っぽく笑った。「問題は、その通路が今でも使えるか、そして、そこからどうやって溝口の懐に潜り込むかだ」
桐生とネズミは、その後も深夜まで、様々な可能性を検討し、作戦を練り上げていった。潜入ルート、戦闘シミュレーション、脱出経路、そして、最悪の事態に備えたコンティンジェンシープラン。佐々木は、その間、口を挟むこともできず、ただ固唾を飲んで二人のやり取りを見守っていた。
やがて、窓の外が白み始めてきた頃、作戦の骨子は固まった。成功の保証はない。むしろ、失敗する可能性の方が高いだろう。だが、やるしかなかった。
「…じゃあ、俺は準備にかかる」ネズミは機材をまとめながら言った。「桐生さん、死ぬなよ。ツケはきっちり払ってもらうからな」
ネズミはそう言い残し、いつものように音もなく部屋から出ていった。
部屋には、再び桐生と佐々木だけが残された。決戦の夜まで、あと十数時間。桐生はソファに深く腰掛け、目を閉じた。過去の後悔と、未来への不安。そして、腹の底で燃える冷たい怒り。それらが、彼の内で静かに交錯していた。
外では、いつの間にか雨が降り始めていた。梅雨時の、冷たい雨。それは、まるでこれから始まる血生臭い出来事を予告しているかのようだった。
夜が更け、指定された時刻が近づいてくる。桐生はコートを羽織り、調達した武器を慎重に身につけた。そして、無言で部屋を出る。雨は、勢いを増していた。新宿のネオンが、雨粒に滲んで不気味に揺れている。
桐生は、雨の中を一人、決戦の場所であるバー「リグレット」へと向かった。その背中は、孤独で、どこか悲壮な覚悟を漂わせていた。
そして、その数メートル後ろを、傘も差さずに、震えながらも必死の形相で、佐々木が続いていた。彼もまた、覚悟を決めたのだろうか。あるいは、ただ恐怖に突き動かされているだけなのか。その答えは、まだ誰にも分からなかった。雨音だけが、二人の足音をかき消すように、激しく降り注いでいた。