第7話 三つ巴の街
歌舞伎町の外れにあるラブホテルの仮眠室。狭く、埃っぽいその空間には、重苦しい沈黙が支配していた。桐生徹と佐々木守。裏切りという決定的な亀裂が入った二人の間に、もはや言葉はなかった。桐生は壁に背を預け、目を閉じて思考を巡らせている。佐々木は二段ベッドの下段に縮こまり、桐生の顔色を窺うように、時折びくりと肩を震わせた。彼のポケットの中のスマートフォンが、時折短く振動する。おそらく、入院中の母親からのメッセージだろう。佐々木はそれを確認するたびに、苦痛に顔を歪め、そしてすぐに画面を伏せる。桐生はその様子を、感情の読めない冷たい目で見つめていたが、何も言わなかった。
ネズミからの情報は、断片的かつ錯綜していた。
『錦龍会が動いてる。鬼塚が相当焦ってるらしい。ウォレットの在り処を探して、関係ありそうな奴らを片っ端から締め上げてるって話だ』
『ハイエナ…溝口の方も動きが活発化してる。どうやら、錦龍会とは別に、独自にウォレットを追ってるみてえだ。奴ら、ヤクザとサツの両方の情報網を使えるから厄介だぜ』
『妙な噂も流れてる。錦龍会とハイエナが、水面下で接触してるって話だ。協力するのか、それとも互いに出し抜こうとしてるのか…』
情報は錯綜し、何が真実なのか見極めるのは困難だった。錦龍会、ハイエナ、そして背後にいるかもしれない巨大な力。三つの影が、新宿の街で複雑に絡み合い、ウォレットという一点を目指して蠢いている。桐生と佐々木は、その渦の中心で、いつ飲み込まれてもおかしくない状況にいた。
「…動くぞ」
数時間の沈黙の後、桐生は短く告げた。ネズミが次の潜伏先を用意してくれたのだ。新宿中央公園に近い、古いオフィスビルの空きテナント。ここも長くは持たないだろうが、じっとしていても状況は悪化するだけだ。
夜の帳が完全に下りた新宿の街を、二人は再び移動した。人目を避け、裏通りを選んで歩く。ネオンの光が、湿ったアスファルトを不気味に照らし出す。佐々木は終始桐生の背後におびえたように付き従い、時折、母親からのメッセージを確認しては、暗い表情をさらに曇らせていた。
オフィスビルに辿り着き、ネズミから指示された方法でテナントの鍵を開け、中に入る。がらんとした空間。窓にはブラインドが下ろされている。桐生が警戒しながら窓の隙間から外を窺うと、通りの向かいに、一台の不審なワゴン車が停まっているのが見えた。
「…ネズミか?」桐生はスマートフォンを取り出し、ネズミに短いメッセージを送った。『ワゴン車が見える。お前の手配か?』
すぐに返信があった。『いや、俺じゃない。まずいな…そこもバレてるかもしれん!』
桐生が舌打ちした瞬間、ビルの階下から複数の足音が響いてきた。同時に、外のワゴン車からも数人の男たちが降りてくるのが見えた。服装はバラバラだが、その目つきは明らかにカタギではない。錦龍会の連中だ。そして、階段を上がってくる足音は、革靴の硬い音。ハイエナか。
「挟まれたか…!」
桐生は即座に状況を判断した。このビルには裏口がない。逃げ道は正面入り口だけ。だが、そこには錦龍会の連中が待ち構えている。
「桐生さん!」佐々木が悲鳴を上げる。
「黙ってついてこい!」
桐生は佐々木の腕を掴み、階段とは逆方向、窓へと向かった。三階だ。飛び降りるのは危険すぎる。だが、窓の外には、隣のビルへと続く配管や室外機が設置されているのが見えた。
「ここから隣のビルに移るぞ!」
桐生はブラインドを引きちぎり、窓の鍵を壊して開け放った。夜風が吹き込んでくる。眼下には、ネオンが瞬く新宿の街。高所恐怖症なら、足がすくむ高さだ。
「む、無理だ!こんなところ…!」佐々木が尻込みする。
「死にたくなければ跳べ!」
桐生は有無を言わさず、まず自分が窓枠に足をかけ、慎重に、しかし素早く配管へと足を伸ばした。錆びついた金属が軋む。桐生はバランスを取りながら隣のビルの室外機へと飛び移った。そして、振り返り、佐々木を睨みつける。
「早くしろ!」
背後からは、ドアを蹴破る音と怒号が聞こえてくる。佐々木は涙目で眼下を見下ろし、震えていたが、桐生の射殺すような視線と、背後から迫る脅威に、意を決したように窓枠を乗り越えた。
「うわぁぁ!」
短い悲鳴と共に、佐々木は配管にしがみつき、なんとか隣のビルへと渡った。桐生はその襟首を掴み、ビルの屋上へと引きずり上げる。
「追ってきてるぞ!」
屋上から階下を見ると、錦龍会の連中が、同じように窓から隣のビルへ移ろうとしているのが見えた。ハイエナたちも、ビルの入り口で状況を確認し、別のルートで追跡を開始しようとしている。
「屋上を伝って逃げる!」
桐生は再び走り出した。隣接するビルの屋上へ次々と飛び移っていく。新宿の夜景が、目まぐるしく移り変わる。追手の怒号と、街の喧騒が、奇妙に混ざり合って聞こえる。
いくつかのビルを飛び移ったところで、桐生は足を止めた。眼下に、大通りが見える。そして、その通りを、一台の黒いセダン――溝口たちが乗っていたハイエナの車――が猛スピードで走っていくのが見えた。おそらく、桐生たちの逃走経路を予測し、先回りしようとしているのだろう。
「チッ…しつこい蠅だ」
桐生は地上へ降りるルートを探した。非常階段を見つけ、駆け下りる。途中階の窓から外を見ると、先ほどのセダンがビルの前で停車し、中から溝口らしき男が降りてくるのが見えた。
「まずい…!」
桐生は再び駆け出した。ビルの一階まで降り、裏口から飛び出す。そこは、歌舞伎町の猥雑なネオンが煌めく一角だった。人混みに紛れれば、追跡を躱せるかもしれない。
「こっちだ!」
桐生は佐々木の手を引き、雑踏の中へと飛び込んだ。酔っ払い、観光客、呼び込み…様々な人々が行き交う中を、二人は縫うようにして進む。しかし、背後からは錦龍会の追手が迫り、前方からはハイエナが回り込もうとしている気配がする。まさに、三つ巴の鬼ごっこだった。
息を切らし、路地裏へと逃げ込んだ時、桐生のスマートフォンが鳴った。非通知。溝口からだった。
「…何の用だ」桐生は荒い息を整えながら応答した。
『ハハッ、元気そうだねえ、桐生くん。鬼ごっこは楽しんでるか?』溝口の嘲るような声が響く。『まあ、そろそろ終わりにしようじゃないか。お前さんにとって、大事なものを預かっているんでね』
「何のことだ?」
『お前の店だよ、リグレット。少しお邪魔させてもらった。いやあ、いい酒が揃ってるじゃないか。特に、カウンターの後ろに隠してあった、年代物のスコッチ…こいつは最高だ』
桐生の眉がピクリと動いた。リグレットのカウンター裏には、彼が個人的にコレクションしている、数本の貴重なウイスキーが隠してある。それは、彼にとって数少ない、心を慰めるための嗜好品だった。
スマートフォンの画面に、一枚の写真が送られてきた。それは紛れもなく、桐生が大切にしていた最高級スコッチウイスキーのボトルだった。そして、そのボトルを持っているのは、にやついた笑みを浮かべる溝口本人だった。
「…それがどうした。ただの酒だろ」桐生は平静を装って言った。
『まあ、そう言うなよ。こいつがどうなってもいいのか? 例えば、便所に流しちまうとか? ハハハ!』溝口は下劣な笑い声を立てた。『それだけじゃないぞ。お連れの佐々木くんにも伝えておいてくれ』
溝口の声のトーンが、一瞬で冷たくなった。
『彼のお母さんが入院している病院だがね…調べさせてもらったよ。もし、佐々木くんが我々の言うことを聞かないようなら、病院に連絡して、彼が凶悪事件に関与している危険人物だと説明することもできる。そうなれば、病院も強制的に退院させるしかなくなるだろうなあ? ステージ4の癌患者が、治療も受けられずに放り出される…実に、気の毒だ』
その言葉を聞いた瞬間、隣にいた佐々木の顔が、恐怖と絶望で真っ白になった。自分の裏切りが、母親の命まで危険に晒すことになったのだ。
「…卑劣な真似を…」桐生の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
『褒め言葉と受け取っておこう』溝口はせせら笑った。『さて、本題だ。明日の夜、十時。お前の店、リグレットに来い。もちろん、一人でだ。例のウォレットを持ってな。そうすれば、このボトルも、佐々木くんのお母さんのことも、穏便に済ませてやろう』
「…もし、行かなかったら?」
『その時は…まあ、お楽しみだ。ボトルがどうなるか、お母さんがどうなるか…それにお前さんたち自身もな』
一方的に言って、溝口は電話を切った。桐生はスマートフォンを握りしめ、怒りで肩を震わせていた。自分の聖域であるバーを荒らされ、大切な酒を人質に取られたこと。そして、佐々木の母親の命まで利用する、ハイエナの卑劣なやり口。許しがたい侮辱だった。
隣では、佐々木がわなわなと震え、今にも泣き出しそうな顔で桐生を見上げていた。「き、桐生さん…俺のせいで…母ちゃんが…」
桐生は佐々木を一瞥したが、何も言わなかった。ただ、スマートフォンの画面に表示された、溝口が送ってきたウイスキーの写真と、指定された時間と場所――『明日の夜、十時。リグレット』――を、冷たく見つめていた。決戦の場所は、皮肉にも、全てが始まったあの場所になった。桐生は、腹の底から湧き上がる怒りと、そして、この泥沼のような状況を終わらせるための、冷徹な決意を固めていた。