第5話 袋小路
ゴールデン街の狭い路地裏。古い木造建築が密集し、迷路のように入り組んだ一角に、ネズミが手配した新たな隠れ家はあった。二階建ての小さなバーの、今は使われていない二階部分。窓は板で塞がれ、埃っぽい空気が淀んでいる。ネズミからの連絡を受け、桐生と佐々木は追手を振り切りながら、息を切らしてそこに転がり込んだのだった。
「ハァ…ハァ…ま、撒いたのか…?」佐々木は壁に手をつき、荒い息を繰り返している。体力も精神も、もはや限界に近いようだった。
桐生は返事をせず、唯一の窓の隙間から外の様子を窺った。狭い路地には人影はない。だが、油断はできなかった。ネズミが言っていた。「隠れ家がバレた可能性がある」。それがこの場所のことなのか、それとも別の場所なのか。どちらにせよ、状況は最悪だった。
「少し休む。だが、いつでも動けるようにしておけ」桐生は短く告げ、部屋の中央にあった古びたソファに腰を下ろした。神経は張り詰め、わずかな物音にも反応できるように感覚を研ぎ澄ませる。
部屋には、カビ臭さと古い酒の匂いが混じり合ったような、独特の空気が漂っていた。壁には色褪せたポスターが貼られ、床には空き瓶がいくつか転がっている。かつては、ここで誰かが酒を飲み、語らい、笑っていたのだろうか。そんな過去の残り香が、今の絶望的な状況と奇妙なコントラストを描いていた。
佐々木は床に座り込み、膝を抱えて俯いていた。時折、ポケットの中のスマートフォンを気にしているような素振りを見せる。桐生はその様子を横目で見ながら、先ほどの逃走劇の最中に垣間見た佐々木の表情を思い出していた。恐怖だけではない、何か別の、もっと切羽詰まった感情。母親の治療費…それが彼の行動原理なのか? だとしたら、なぜ桐生にそれを隠す必要がある?
考え込んでいる桐生の耳が、階下からの微かな物音を捉えた。ギシッ、という床板の軋む音。そして、複数の人間の気配。
「…来たか」桐生は低く呟き、立ち上がった。ソファの下に隠していた特殊警棒を手に取る。
佐々木もその気配に気づき、顔面蒼白になって桐生を見た。「き、桐生さん…!」
「静かにしろ。奥の部屋に隠れてろ」
桐生は佐々木を促し、部屋の奥、物置のようになっている小部屋へと押し込んだ。そして、部屋の入り口であるドアの前に立ち、息を潜めて階下からの気配を探る。
階段を上ってくる足音が聞こえる。複数だ。慎重だが、迷いのない足取り。プロのそれか、あるいは場慣れした暴力団員か。ドアノブがゆっくりと回される。鍵はかかっていない。ネズミがそう指示していた。いざという時に逃げやすいように、と。だが、それは侵入者にとっても同じことだ。
ドアが静かに開いた。現れたのは、黒いスーツを着た男たち。三人。その顔には見覚えがあった。バー「リグレット」を襲撃してきた錦龍会の連中だ。やはり、執拗に追ってきていた。
「…いたな」先頭の男が、桐生を認め、獰猛な笑みを浮かべた。手には、鈍く光るナイフが握られている。
「懲りない連中だ」桐生は警棒を構え、冷たく言い放った。
「佐々木はどこだ? そいつを渡せば、楽に殺してやるよ」
「生憎だが、客は渡せん主義でな」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、男たちが襲いかかってきた。狭い室内での乱戦。先頭のナイフを持った男が突きかかってくる。桐生は身をかわし、警棒で男の手首を強打した。ナイフが床に落ちる音。しかし、男は怯まず、拳を繰り出してくる。桐生はそれを受け止め、カウンター気味に肘を叩き込む。
その隙に、別の男が背後に回り込もうとする。桐生は壁を蹴って体勢を変え、回り込もうとした男の腹部に強烈な蹴りを入れた。男は「ぐえっ」という呻き声を上げて後退する。
だが、三人目が桐生の死角から飛びかかってきた。避けきれない。桐生は腕でガードするが、男の重い拳が脇腹にめり込む。鈍い痛み。体勢がわずかに崩れる。
「死ねぇ!」
最初にナイフを落とした男が、床に落ちていた空き瓶を拾い上げ、砕けた先端を桐生に向け突進してくる。鋭利なガラスの切っ先が迫る。
その時だった。
「うわぁぁぁ!」
奥の小部屋に隠れていたはずの佐々木が、恐怖のあまり飛び出してきたのだ。完全にパニックに陥っている。そして、あろうことか、桐生に突進してくる男の足元にもつれかかるように転倒した。
「なっ!?」
男は予期せぬ障害物に足を取られ、バランスを崩す。桐生はその一瞬を見逃さなかった。体勢を立て直し、男の顎に渾身のアッパーカットを叩き込む。強烈な一撃に、男は天井を仰ぐようにして倒れ込んだ。
桐生はすぐに次の相手に向き直る。腹部に蹴りを受けた男が、体勢を立て直して向かってくる。桐生は警棒を素早く振り、男の膝を砕いた。悲鳴と共に男が崩れ落ちる。
残るは一人。脇腹に一撃を入れた男だ。男は仲間たちが次々と倒されるのを見て、一瞬怯んだが、すぐに逆上し、近くにあった木製の椅子を掴んで振り上げてきた。
桐生はそれを冷静に見据え、男が椅子を振り下ろすタイミングに合わせて踏み込み、警棒で椅子の脚を叩き折った。バランスを崩した男の首筋に、警棒の先端を突き入れる。的確な一撃に、男は声もなく床に崩れ落ちた。
再び、静寂が訪れた。部屋には、倒れた男たちの呻き声と、床に座り込んだまま震えている佐々木の荒い息遣いだけが響いている。桐生は脇腹の痛みを堪えながら、ゆっくりと息を整えた。佐々木の予期せぬ行動が、結果的に桐生を助けた形になったが、それは単なる偶然に過ぎない。
「…立て、佐々木。行くぞ」
桐生は床に転がった男たちを一瞥し、佐々木に声をかけた。まだ意識はあるようだが、しばらくは動けないだろう。
佐々木は震えながら立ち上がろうとした。その時、彼のズボンのポケットから、何か小さなものが滑り落ちた。折り畳まれたメモ用紙のようなものだ。佐々木は慌ててそれを拾おうとしたが、それより早く、彼の持っていたスマートフォンが床に落ち、画面が点灯した。
桐生の目に、その画面に表示されたメッセージ通知の一部が飛び込んできた。『母さんの容態が…』
佐々木は悲鳴に近い声を上げ、慌ててスマートフォンとメモを拾い上げ、ポケットにねじ込んだ。そして、桐生の視線から逃れるように顔を伏せる。
桐生は何も言わなかった。だが、彼の頭の中では、断片的な情報が繋がり始めていた。佐々木の異常なまでの怯え、母親の容態を知らせるメッセージ、そして隠し持っていたメモ。こいつは、ただ錦龍会の金を横取りしようとしただけではない。何か、もっと個人的で、切羽詰まった理由がある。そして、それを桐生に隠している。
その時だった。
外から、けたたましいサイレンの音が聞こえてきた。パトカーだ。複数台。この隠れ家に向かってきている。
「チッ…!」桐生は舌打ちした。「警察か…!」
錦龍会の連中が通報したのか? あるいは、ハイエナか? いや、タイミングが良すぎる。まるで、この戦闘が終わるのを待っていたかのようだ。
窓の隙間から見ると、路地の入り口をパトカーが塞ぎ、警官たちが降りてくるのが見えた。しかし、彼らの動きはどこか緩慢に見えた。突入してくる気配はない。ただ、現場を包囲しているだけのように見える。
そして、さらに不可解なことが起きた。階下で呻いていた錦龍会の連中が、サイレンの音を聞くと、互いに目配せし、まだ動ける者が仲間を引きずるようにして、桐生たちが使った裏口とは別の方向へと、慌てて姿を消したのだ。まるで、警察が来ることを知っていて、その前に逃げる手筈になっていたかのように。
「…どういうことだ?」桐生は眉をひそめた。
警察は、まるで追手を追い払うためだけに来たかのようだ。そして、錦龍会の連中は、それを知っていたかのように撤退した。これは、偶然か? それとも…田所の言っていた「上の力」が働いているのか?
「桐生さん!警察が…!」佐々木がパニックを起こしている。
「落ち着け。奴らは、俺たちを捕まえに来たわけじゃないかもしれん」桐生は冷静に状況を分析した。「だが、長居は無用だ。裏から出るぞ」
桐生は再び佐々木の腕を掴み、裏口へと向かった。幸い、裏口側にはまだ警察の気配はない。二人は音を立てないように建物を抜け出し、再びゴールデン街の迷路のような路地へと身を隠した。
背後では、パトカーの回転灯が不気味に光り、サイレンの音が遠ざかっていく。桐生は、先ほど佐々木が落としたメモのこと、そして彼のスマートフォンの画面に表示されたメッセージを思い出していた。
「こいつ、一体何を隠してる…? 何のために…?」
桐生の疑念は、確信に近いものへと変わりつつあった。佐々木守という男は、単なるトラブルメーカーではない。彼が抱える秘密は、この事件の核心に繋がっているのかもしれない。そして、その秘密は、桐生自身をも、さらに深い闇へと引きずり込む可能性を秘めていた。