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第4話 23億の価値


新宿御苑近くの隠れ家マンション。遮光カーテンが引かれた部屋は、昼間だというのに薄暗く、空気は淀んでいた。壁際の椅子に座ったまま目を閉じていた桐生は、田所からの不吉な警告を頭の中で反芻していた。検察の影、そして「潰される」という言葉。ハイエナだけでなく、さらに巨大な力がこの件に関与している可能性。事態は、もはや桐生一人の手に負える範囲を超えつつあった。


部屋の隅では、佐々木が膝を抱えて縮こまっている。時折、桐生の様子を怯えたように窺っているが、口を開くことはない。彼もまた、自分が持ち込んだ厄介事の大きさに、ようやく気づき始めたのかもしれない。


沈黙を破ったのは、テーブルの上のラップトップに向かっていたネズミの声だった。


「…桐生さん、ちょっとヤバい情報が出てきたぜ」


ネズミは、いつもの軽薄な口調とは裏腹に、険しい表情で画面を睨みつけていた。桐生はゆっくりと目を開け、ネズミを見た。


「例のウォレットだがな…ただの錦龍会の裏金ってだけじゃねえ。こいつの原資、調べれば調べるほど、とんでもないモンが芋づる式に出てきやがる」


ネズミはキーボードを叩き、画面にいくつかのデータウィンドウを表示させた。そこには、銀行口座の取引履歴、暗号資産取引所のログ、ダークウェブ上のフォーラムの書き込みらしきものなどが、複雑に絡み合った図として表示されていた。


「まず、額面だ。昨日のレートで換算したら、きっちり23億飛んで7千万。だが、こいつはビットコインだ。相場は常に変動する。錦龍会がいつ換金するつもりだったか…」ネズミは一旦言葉を切り、桐生を見た。「問題は、この大金がどうやって作られたかだ」


桐生は黙って先を促した。


「振り込め詐欺、還付金詐欺、闇バイトを使った強盗…ここ数年で都内、いや全国で起きたデカいヤマの被害金が、かなりの額、このウォレットに流れ込んでる形跡がある。複数のダミー会社、海外のサーバーを経由した複雑なマネーロンダリング…錦龍会も相当手の込んだことをやってやがるぜ」


ネズミはさらに続けた。「それだけじゃねえ。どうやら、薬物の密売ルートの収益も一部含まれてる可能性がある。しかも、そのルートには…」ネズミは声を潜めた。「サツ…つまり警察関係者が関与してるって噂もある。あくまで噂だがな。だが、もしそれが本当なら、ハイエナどもが必死になる理由も分かるだろ?」


23億円という莫大な価値。そして、その背後にある凶悪犯罪の数々。さらに、警察内部の汚職の可能性。このUSBメモリ一つに、どれだけの悪意と欲望が凝縮されているのか。桐生は改めて、自分が足を踏み入れた泥沼の深さを思い知らされた。


「こりゃ、錦龍会にとっても、ハイエナにとっても、絶対に手放せない代物だ。存在が明るみに出れば、組織がひっくり返るどころの騒ぎじゃ済まねえからな」ネズミは結論づけた。「つまり、桐生さん。あんたとそこの坊主は、とんでもない爆弾を抱えちまったってわけだ。奴らは、どんな手を使ってもこれを取り返しに来る。あるいは、証拠ごと消しに来るか…」


その言葉が終わらないうちに、ネズミのラップトップが警告音を発した。画面に赤いアラートが表示される。


「チッ…!」ネズミは素早くキーを操作した。「まずいな。このマンションのセキュリティシステムに、外部からアクセスしようとした痕跡がある。おそらく、ハイエナどもだ。奴ら、もう場所を特定しやがったか…!」


桐生は即座に立ち上がった。「行くぞ!」


佐々木の腕を掴み、再び裏口へと向かう。ネズミもラップトップを閉じ、素早く機材をバッグに詰め込んだ。


「裏から出て、靖国通り方面へ向かえ!俺が時間を稼ぐ!」ネズミはそう言うと、部屋に残された別の機材を操作し始めた。「追跡用の発信機でも仕掛けられてたか…クソッ!」


桐生はネズミを一瞥し、無言で頷くと、佐々木を引きずるようにして裏口から飛び出した。昼下がりの新宿。人通りは多い。だが、追手が迫っている状況では、その人混みも隠れ蓑にはならないかもしれない。


裏道を抜け、靖国通りに出る手前で、桐生は足を止めた。前方、通りの向かい側に、見覚えのある黒いセダンが停まっている。ハイエナだ。そして、後方からも複数の男たちがこちらに向かってくる気配がする。錦龍会の連中か。挟み撃ちにされかけている。


「こっちだ!」


桐生は咄嗟に判断し、靖国通りを渡らずに、歌舞伎町方面へと続く脇道へと駆け込んだ。昼間の歌舞伎町は、夜の猥雑さとは違う、どこか気の抜けたような、それでいて油断ならない空気が漂っている。観光客、呼び込み、酔っ払い、そして、その隙間に紛れ込むように存在する裏社会の人間たち。


「桐生さん!ど、どうするんだよ!」佐々木が悲鳴に近い声を上げる。


「黙って走れ!」


桐生は人波をかき分けながら、歌舞伎町の迷路のような路地へと突き進む。背後からは、複数の足音が確実に迫ってきていた。錦龍会のチンピラたちだろう。ハイエナは、おそらく車で回り込もうとしているはずだ。


セントラルロードの喧騒に飛び出す。観光客の集団にぶつかりそうになりながら、桐生は巧みに体をかわし、速度を落とさずに駆け抜ける。ゲームセンターのけたたましい電子音、飲食店の呼び込みの声、様々な言語の話し声が渾然一体となって耳に叩きつけられる。


ふと、桐生の脳裏に、別の喧騒の記憶がフラッシュバックした。雨の夜、サイレンの音、そして、守るべきだった誰かの、力なく横たわる姿…。


『…徹…逃げて…』


幻聴のように響く声。桐生は歯を食いしばり、その記憶を振り払った。今は感傷に浸っている場合ではない。あの時のような過ちは、もう繰り返さない。いや、繰り返すわけにはいかない。彼が非情な仮面を被り、闇金として生きるようになった理由は、その過去の出来事と無関係ではなかった。守れなかった後悔、そして二度と何も失わないための、歪んだ決意。


「こっちだ!」


桐生は佐々木の手を引き、ゴジラロードからさらに細い路地へと逃げ込んだ。風林会館の脇を抜け、ゴールデン街方面へ。古い木造の飲み屋が密集するエリア。道は狭く、入り組んでいる。ここなら、車は入ってこれない。


しかし、錦龍会の追手はしつこかった。数人の男たちが、息を切らせながらも後を追ってくる。その中には、見覚えのある顔もいた。バー「リグレット」を襲撃してきた連中の生き残りか。


「待て、コラァ!」


怒声が背後から飛んでくる。ゴールデン街の狭い路地で、追いつかれそうになる。桐生は振り返りざま、ゴミ箱として置かれていた古いビールケースを蹴り飛ばした。追手の足元に転がり、一人が派手に転倒する。その隙に、さらに奥へと逃げる。


だが、完全に振り切ることはできない。体力も消耗してきている。佐々木はもはや限界に近い様子で、ぜえぜえと肩で息をしている。


その時、桐生のスマートフォンが鳴った。ネズミからだ。


「もしもし!」


『桐生さん!今どこだ!?』ネズミの声は焦っていた。『まずいことになった!今いる隠れ家、どうやら完全にバレた!さっきのアクセスだけじゃねえ、物理的に嗅ぎつけられた可能性がある!』


桐生は息を呑んだ。マンションの部屋か? いや、おそらく今いるこのゴールデン街のどこかに、別の隠れ家を用意してくれていたのだろう。それがバレた、ということか。


『錦龍会か、ハイエナか…分からん!だが、このままじゃ袋のネズミだ!すぐにそこから離れろ!』


ネズミの切迫した声が、耳元で響く。追手はすぐ後ろに迫っている。そして、今いる場所も安全ではない。桐生は舌打ちし、周囲を見回した。狭い路地、密集した建物、そして、じりじりと狭まってくる包囲網。逃げ場は、どこにもないように思えた。

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