第3話 ハイエナの牙
雑居ビルの一室に、重い沈黙が支配していた。窓の外の雨はいつの間にか上がっていたが、部屋の中の空気は依然として湿っぽく、よどんでいる。ネズミが叩くキーボードの音だけが、不規則に響いていた。壁に寄りかかったままの桐生は、ネズミが放った「ハイエナ」という言葉の不吉な響きを反芻していた。錦龍会だけでも厄介なのに、さらに警察内部の得体の知れない敵。事態は桐生が想像していた以上に、複雑で危険な領域に足を踏み入れていた。
「ハイエナ、か…」桐生が低く呟いた。
「ああ。新宿署の組織犯罪対策課に巣食ってる連中だ。ヤクザの抗争やデカいヤマがあると、どこからともなく嗅ぎつけてきて、証拠品をくすねたり、情報をヤクザに流して見返りを得たり…ハイエナって名前がぴったりだろ?」ネズミは画面から目を離さずに言った。「今回の錦龍会のウォレット騒ぎ、奴らが黙って見過ごすはずがねえ。特に、リーダー格の男はな…」
ネズミはキーボードを叩く手を止め、画面に表示された一枚の顔写真にカーソルを合わせた。中肉中背、一見温厚そうな中年男の顔。だが、その目の奥には、底知れない狡猾さと冷酷さが宿っているように見えた。
「溝口。新宿署組対課の警部補だ。表向きは有能で正義感のある刑事で通ってるが、裏じゃ錦龍会とも繋がってて、汚い汁を吸い続けてる。今回の件、奴が中心になって動いてる可能性が高いぜ」
桐生はその顔を黙って見つめた。溝口…聞き覚えのない名前だ。だが、その顔つきには、裏社会の人間が持つ独特の匂いとはまた違う、権力に飼い慣らされた者の持つ、別の種類の危険性が感じられた。
「…俺の店にも来るか?」
「間違いなくな。バーでの騒ぎは、奴らにとっちゃ格好の口実だ。お前さんを容疑者かなんかに仕立て上げて、揺さぶりをかけてくるかもしれん。奴らは警察手帳を最高の武器だと思ってるタイプだからな」
ネズミの予測通り、その日の昼前、バー「リグレット」の前に数台の覆面パトカーが停まった。現場検証という名目で、溝口警部補率いる捜査員たちが、荒らされた店内に入っていく。溝口は、部下たちに指示を出しながら、鋭い目で店内を見回していた。床の血痕、散乱したガラス片、破壊されたドア…。
「ふむ…こりゃまた、派手にやったもんだな」溝口はわざとらしく呟き、近くにいた若い刑事に尋ねた。「店主は? 桐生徹とか言ったか。まだ連絡は取れんのか?」
「はい、携帯も繋がりませんし、立ち回り先にも…」
「そうか…」溝口は顎に手を当て、考え込むふりをした。「まあ、被害者かもしれんしな。だが、これだけの騒ぎだ。何らかの事情を知っている可能性は高い。引き続き行方を追え。それと、鑑識、例のUSBメモリのようなものは落ちていなかったか、徹底的に調べろ」
その目は、現場の証拠よりも、むしろ存在しないはずの「獲物」を探しているかのようだった。部下の一人が、カウンターの下から何か小さな金属片を見つけ、証拠袋に入れる。溝口はそれを横目で確認したが、特に興味を示さない。彼の狙いは、もっと大きなものだ。23億という、目が眩むような額のビットコイン。それを手に入れるためなら、多少のルール違反など厭わない。それがハイエナと呼ばれる所以だった。
***
その頃、桐生と佐々木は、ネズミの手引きで新たな隠れ家へと移動していた。新宿御苑に近い、古いマンションの一室。ネズミが「しばらくは大丈夫だろうが、長居は禁物だ」と用意してくれた場所だ。昼間の移動は目立つため、人通りの少なくなる時間帯を選び、裏道を縫うようにして移動した。
「…あの、桐生さん」
移動中、佐々木が怯えた声で話しかけてきた。
「なんだ」
「俺…どうなるんでしょうか…? 錦龍会だけじゃなく、警察まで…」
「知らん」桐生は冷たく言い放った。「お前が蒔いた種だ。自分で刈り取るしかない」
佐々木はそれ以上何も言えず、俯いて桐生の後ろをついて歩いた。彼の顔には、恐怖と共に、わずかな後悔の色も浮かんでいるように見えた。
マンションに着き、ネズミから渡された鍵で部屋に入る。ここも生活感のない、殺風景な部屋だった。最低限の家具と、窓には遮光カーテン。桐生はすぐに窓から外の様子を窺った。大通りから一本入った、比較的静かな通りだ。だが、油断はできない。
「ここで待機だ。ネズミからの連絡を待つ」
桐生は佐々木にそう告げ、自分は壁際の椅子に深く腰掛け、目を閉じた。神経は張り詰めている。錦龍会、そしてハイエナ。二つの敵に追われる状況は、明らかに分が悪かった。
数時間が経過しただろうか。夕暮れが迫り、部屋の中が薄暗くなってきた頃、桐生のスマートフォンが短く振動した。ネズミからのメッセージだ。『警戒しろ。ハイエナが動いた。お前たちの近くにいるかもしれん』
桐生はすぐに立ち上がり、カーテンの隙間から再び外を見た。マンションの前の通りに、一台の黒いセダンが停まっているのが見えた。何の変哲もない国産車だが、中に乗っている男たちの雰囲気は、明らかに一般人ではなかった。鋭い目つきで周囲を窺っている。ハイエナだ。どうやってこの場所を嗅ぎつけたのか?
「…来たぞ」桐生は低く言った。
部屋の隅で縮こまっていた佐々木が、びくりと肩を震わせる。
「裏口から出る。急げ」
桐生は佐々木の腕を掴み、部屋の奥にある小さな勝手口へと向かった。古いマンションで、裏には狭い通路があるはずだ。ネズミが事前に調べてくれていた。
勝手口の鍵を開け、息を殺して外に出る。狭く薄暗い通路を、壁伝いに進む。大通りに出る手前で、桐生は慎重に様子を窺った。黒いセダンはまだマンションの前に停まっている。中の男たちは、マンションの入り口を注視しているようだ。まだ、裏口からの脱出には気づいていない。
「こっちだ」
桐生は佐々木を促し、大通りとは逆方向の、さらに細い路地へと駆け込んだ。人通りはほとんどない。どこかで別の車を拾うか、あるいは人混みに紛れるか…。
その時だった。背後から車のエンジン音が急速に近づいてくるのが聞こえた。振り返ると、先ほどの黒いセダンが、猛スピードで路地に入ってきた。気づかれた!
「走れ!」
桐生は叫び、佐々木の手を引いて全速力で走り出した。狭い路地を、二つの影が逃げる。背後からは、タイヤの軋む音と、クラクションの音が迫ってくる。セダンは路地の幅ギリギリで、壁を擦りながら追いかけてくる。逃げ場はない。このままでは追いつかれる!
絶体絶命かと思われた、その瞬間。
路地の先、大通りとの合流地点から、けたたましいサイレンと共にパトカーが現れた。そして、あろうことか、猛スピードで路地に突っ込んできた黒いセダンに対し、停止を命じるように進路を塞いだのだ。
「前の車、止まりなさい! スピード違反だ!」
拡声器からの声。黒いセダンは急ブレーキをかけ、パトカーの手前で停止した。乗っていた男たちが、慌てて窓を開け、何か叫んでいる。おそらく、自分たちが警察官だと主張しているのだろう。
桐生はその一瞬の隙を見逃さなかった。
「今だ!」
佐々木の手を引き、パトカーとセダンが塞いでいる合流地点とは逆方向の脇道へと飛び込む。背後では、パトカーの警官とセダンの男たちが言い争う声が聞こえていた。
「…運が良かった、のか?」
走りながら、桐生は呟いた。あまりにもタイミングが良すぎる。まるで、誰かが意図的に助けたかのようだ。だが、誰が? 何のために? 釈然としない思いが、桐生の胸に重くのしかかった。
***
人混みに紛れ、なんとか追跡を振り切った桐生は、佐々木を一時的にコインロッカーに隠れさせ(もちろん、佐々木は抵抗したが、桐生の有無を言わせぬ圧力に屈した)、自身は新宿駅近くの、今はもうほとんど見かけなくなった公衆電話ボックスに入った。テレホンカードを挿入し、記憶している番号をプッシュする。繋がるかどうか、確信はなかった。相手は、もう足を洗ったはずの男だ。
数回のコールの後、やや掠れた、しかし聞き覚えのある声が応答した。
「…もしもし」
「俺だ。桐生だ」
電話の向こうで、相手が息を呑む気配がした。
「…桐生か。久しぶりだな。何の用だ? 俺はもう、昔の人間じゃないぞ」
声の主は、田所。元新宿署の刑事で、桐生がまだ裏社会に足を踏み入れる前に、少しだけ関わりがあった男だ。今は探偵業のようなことをしていると風の噂で聞いたが、定かではない。
「分かっている。だが、少し聞きたいことがある。新宿署の溝口という男を知っているか?」
電話の向こうの空気が、一瞬で張り詰めたのが分かった。
「…溝口だと? なぜお前がその名前を…いや、聞かないでおこう。関わるな、桐生。あいつはハイエナだ。食らいつかれたら骨までしゃぶられるぞ」
田所の声には、本物の嫌悪と警告が滲んでいた。
「少し厄介事に巻き込まれてな。奴が俺を追っている可能性がある」
「…そうか。お前も、相変わらずだな…」田所はため息をついた。「分かった。少しだけなら調べてやろう。だが、深入りはできんぞ。俺ももう、危ない橋は渡りたくないんでな」
「それでいい。感謝する」
「礼などいらん。…とにかく、気をつけろ。溝口は手段を選ばん」
それだけ言うと、田所は電話を切った。桐生も受話器を置き、狭い電話ボックスの中で深く息を吐いた。田所が協力してくれるのは心強いが、彼の警告は重かった。
しばらくして、桐生のポケットの中のスマートフォンが再び振動した。ネズミか? いや、表示されたのは非通知の番号だった。警戒しながら応答する。
「…もしもし」
『俺だ、田所だ』先ほどよりも、さらに切迫した声だった。『言い忘れたことがある。急いで伝えなければならんと思ってな』
「なんだ?」
『溝口だけじゃないかもしれん。あいつらの動きに対して、上の動きが妙に鈍いんだ。まるで、何かを待っているかのように…』
田所の声が、確信を帯びて低くなる。
『これは俺の勘だが…検察が動いている可能性がある。ハイエナを一網打尽にするために、泳がせているのかもしれん。もしそうなら、お前たちは、その網にかかった邪魔な存在だ』
桐生は息を呑んだ。検察…? 事態は、もはや裏社会の抗争や悪徳警官の暴走というレベルを超えているのかもしれない。
『いいか、桐生。下手に動くな。奴らは、目的のためなら多少の犠牲は厭わん連中だ。お前も、佐々木とかいう奴も、潰されるぞ』
その言葉を最後に、電話は一方的に切れた。ツー、ツー、という無機質な音が、桐生の耳に突き刺さる。検察の影、そして「潰される」という田所の警告。桐生は受話器を握る手に、思わず力を込めていた。ハイエナの牙は、すぐそこまで迫っている。そして、その背後には、さらに巨大で冷徹な何かが潜んでいるのかもしれない。新宿の夜の闇は、どこまでも深く、危険だった。