第1話 雨の訪問者
アスファルトを叩く雨音が、古いビルの隙間を縫って執拗に響いていた。梅雨時の新宿三丁目は、湿った空気とネオンの滲んだ光が混じり合い、独特の倦怠感を漂わせている。ゴールデン街の喧騒も、この路地裏までは鈍い残響としてしか届かない。そんな一角に、バー「リグレット」は息を潜めるように存在していた。看板らしい看板はなく、重い木製のドアに真鍮のプレートで店名が刻まれているだけ。知る人ぞ知る、というよりは、迷い込んだ者だけが辿り着くような場所だった。
店主の桐生徹は、カウンターの内側で一人、グラスを磨いていた。三十六歳。痩身だが、安物のシャツ越しにも鍛えられた体の芯が見て取れる。短く刈り揃えられた髪、鋭い光を宿す切れ長の目。表情筋は死んでいるかのように動かず、彼が何を考えているのか窺い知ることは難しい。店内は薄暗く、古びた木材とウイスキー、そして微かな煙草の匂いが染みついている。客はいない。この時間帯、この天気ではいつものことだった。桐生にとっても、それは望むところだ。孤独は、彼にとって空気のようなものだった。
磨き上げられたグラスに、カウンター裏のボトル棚が歪んで映る。スコッチ、バーボン、ジン…種類は多くないが、どれも桐生が選び抜いたものだ。彼はグラスの縁を指でなぞり、完璧な透明度を確認すると、静かに棚に戻した。その時、カウンターの端に置かれた黒い固定電話が、空気を切り裂くように鳴り響いた。
桐生は一瞬眉をひそめたが、すぐに無表情に戻り、受話器を取った。
「……ああ」
短い相槌。相手の声は漏れてこないが、電話口の桐生の言葉はさらに短く、温度がない。
「期限は昨日だと言ったはずだ。……言い訳は聞かん。……明日、正午。いつもの場所に、利息分と延滞金を合わせた額を持ってこい。……ああ、そうだ。間違っても逃げようなんて考えるな。新宿は狭いぞ」
それだけ言うと、桐生は相手の返事を待たずに電話を切った。ガチャン、という無機質な音が、静寂を取り戻した店内に小さく響いた。法外な金利で金を貸し、どんな手段を使ってでも回収する。それがバーテンダーという表の顔の裏にある、桐生徹のもう一つの貌――闇金としての貌だった。彼にとって、貸した金は単なる数字であり、債務者はその数字を回収するための駒に過ぎない。そこに感情が入り込む余地はなかった。少なくとも、彼はそう努めていた。
再びグラスを手に取り、磨き始めた時だった。
店の重いドアが、内側から蹴破られんばかりの勢いで激しく叩かれた。ドンドン!ドンドン!金属的な衝撃音が、静かな空間を暴力的に揺さぶる。桐生の動きが止まる。こんな時間に、こんな訪れ方をする客はいない。トラブルの匂い。面倒事の予感。
「開けてくれ!桐生さん!頼む!」
切羽詰まった若い男の声。雨音に混じって、悲鳴に近い響きを帯びている。桐生はその声に聞き覚えがあった。佐々木守。半年ほど前に、店の常連の紹介で金を借りに来た男だ。確か、半グレのような連中とつるんでいたはずだ。桐生は債務者を決して逃さない。佐々木も例外ではなく、返済が滞るたびに桐生から別の借金をさせられ、いわゆるジャンプを繰り返して、かろうじて首の皮一枚繋がっている状態だったはずだ。
「開けてくれ!頼む!殺される!」
ドアを叩く音はさらに激しくなる。桐生は舌打ちし、磨いていたグラスをカウンターに置いた。面倒事はごめんだ。特に、ヤクザや半グレが絡むような厄介事は。しかし、ドアの向こうの気配は尋常ではない。複数の荒い息遣いと、低い恫喝するような声も聞こえる。
「おい、佐々木!どこに隠れた!」
「さっさと出てこい、コラァ!」
桐生はゆっくりとカウンターから出た。ドアスコープを覗く。雨に濡れた路地裏。ドアのすぐ前で、ずぶ濡れになった佐々木が必死にドアノブを回そうとしている。その後ろには、黒いスーツを着た男たちが三人。傘も差さずに立っており、その目つきは獲物を追う獣のそれだ。チンピラ風情だが、その立ち姿には慣れた暴力の匂いがした。錦龍会の下っ端か、あるいは…。
「桐生さん!頼む!中に…!」
佐々木が再び叫ぶ。その顔は恐怖と苦痛に歪み、額からは血が流れていた。
桐生は一瞬ためらった。こいつを中に入れれば、確実に面倒に巻き込まれる。この店は、桐生にとって唯一の聖域であり、仕事場だ。それを荒らされるのは我慢ならない。だが、目の前で見殺しにするのも、後味が悪い。何より、自分の縄張りで騒ぎを起こされること自体が気に食わなかった。
「チッ…」
短く舌打ちすると、桐生は素早くドアの鍵を開け、重いドアをわずかに引いた。
「入れ!」
低い声で命じると、佐々木は転がり込むように店の中に飛び込んできた。床に水たまりと、点々とした血痕が広がる。桐生がすぐさまドアを閉め、内側から閂と複数の鍵をかけ終えるのと、ドアが外から激しく蹴りつけられるのは、ほぼ同時だった。
ガンッ!ガンッ!ガンッ!
「な、何しやがる!」
「開けろ、コラァ!」
ドアの外から怒声が飛んでくる。まるでタイミングを見計らったかのような襲撃だった。
「…何の騒ぎだ、佐々木」
桐生は冷ややかに、床に蹲る男を見下ろした。佐々木は二十代半ばだろうか。濡れた派手なシャツは破れ、顔や腕には殴られたような痣と切り傷がある。息は荒く、恐怖で全身が小刻みに震えていた。
「き、桐生さん…あ、ありがとう…助かった…」
「質問に答えろ。なぜ追われている?」
桐生の低い声には、有無を言わせぬ響きがあった。佐々木は震える手で懐を探り、何か小さなものを取り出した。それはUSBメモリのように見えた。
「こ、これだ…これのせいだ…! き、錦龍会の…ヤバいカネ…! ビットコインの…コールドウォレット…に、23億だ!」
佐々木の言葉は途切れ途切れで、呂律も怪しい。だが、「錦龍会」「23億」「ビットコイン」という単語は、桐生の耳に嫌でも突き刺さった。状況が一気にきな臭くなる。ただのチンピラのいざこざではない。
「…それをどうした?」
「ぬ、盗んだ…いや、横取りしようとして…仲間と…でも、バレて…俺だけが…!」
しどろもどろの説明。桐生の眉間の皺が深くなる。やはり、こいつ自身の問題だ。自業自得。だが、今さら外に放り出すわけにもいかない。
ガンッ!ガンッ!ドアを蹴る音は、もはや破壊しようという意思を感じさせるほど激しくなっていた。古い木製のドアがミシミシと軋む。
「おい、佐々木!そこにいるのは分かってんだぞ!」
「その金貸し!てめえもグルか!まとめてぶっ殺してやる!」
下品な怒声が響く。桐生はドアを一瞥し、それから再び佐々木に目を向けた。この男と、彼が持ち込んだ23億という数字が、今、確実に桐生を厄介事の中心に引きずり込もうとしている。
「…立て」
桐生は短く命じた。
「え…?」
「立てと言っている。カウンターの奥に隠れてろ。物音一つ立てるな」
佐々木は怯えた目で桐生を見上げたが、その有無を言わせぬ迫力に逆らえず、震えながら立ち上がり、カウンターの奥へと這うように移動した。
桐生は店の中を見回した。カウンター、重厚なテーブル、椅子。武器になりそうなものは…いくらでもある。彼はまず、入り口近くにあった重いオーク材の丸テーブルを掴むと、ドアの前に引きずり、バリケードのように押し付けた。さらに椅子を数脚重ねる。
ガンッ! ドゴォン!
ドアの一部が砕け、木片が飛び散った。隙間から、外の男たちの凶暴な目が見える。
「手間かけさせやがって…!」
桐生は静かに息を吐いた。カウンターの下に手を伸ばし、硬く冷たい感触のものを握りしめる。それは、護身用という名目で購入した、ずしりと重い特殊警棒だった。
「面倒な夜になりそうだ…」
独りごちると、桐生はバリケードの向こう、破壊されつつあるドアを睨みつけた。雨音と怒号、そしてドアが破壊される音が、狭い店内に不協和音となって響き渡る。桐生はゆっくりと警棒を構え、静かにその時を待った。彼の目は、暗闇に慣れた獣のように、冷たく光っていた。