22 覚悟して?
「エルヴィーラ殿下がバルク殿下の婚約者候補に内定するとは思いませんでした」
馬車に乗り込んだ途端思わずつぶやくと、サイラス様がすぐさま「そうだね」と答える。
でもなんか、そこはかとなく、笑っている気がする。面白がっている、というか。
「バルク殿下はすんなり承知されたのでしょうか?」
「うーん、どうだろう。この縁談はバルク殿下の意志とは関係ないからね。むしろ国同士のやり取りで決まったことだから」
「でもバルク殿下って、エルヴィーラ殿下のことを毛嫌いしていた雰囲気も……」
「まあ、だとしても、バルク殿下はこの国に対してもう強くは出られないからさ」
そう言って、ちょっと勝ち誇ったような顔をするサイラス様。
今日、エルヴィーラ殿下は学園に登校されなかった。
珍しいこともあるのね、と思っていたら、午後になってエルヴィーラ殿下がバルク殿下の婚約者候補に内定したという公式発表があったのだ。
ほとんどの生徒にとっては寝耳に水の話で、午後はもうその話題でもちきりだった。だってバルク殿下といえば、私を見初めて帝国に連れ帰ると準備していたのに、いつの間にか一人で帰国してしまったお騒がせ皇太子。
その後サイラス様と私の婚約が元通りになったこともあって、バルク殿下は大人しく身を引いて帰国したのだろう、なんて噂されていた。
もちろん、私たちは真実を公にしていない。
そんな中での、婚約者候補内定の発表である。ただし、一部の生徒は事前に知っていたらしい。例えばサイラス様とか。イザーク様とか。
「帝国の後宮制度のことは知ってるだろう?」
「はい。現皇帝の後宮には皇后と三人の皇妃、それと十数人の側妃がいらっしゃるのですよね?」
「そう。現状、バルク殿下にも婚約者候補が複数いる。エルヴィーラが婚約者候補に内定したといっても婚約者に決まるかどうかはまだわからないし、ほかの婚約者候補たちとしのぎを削ることになるわけだけど」
「……それ、エルヴィーラ殿下に勝ち目あります?」
「どうだろうね。エルヴィーラのしたたかさがあればのし上がっていけるかもしれないし、どこかでやらかして取り返しのつかないことになる可能性もあるし。まあ、エルヴィーラ次第ってとこじゃないか?」
バルク殿下は私を「婚約者候補」ではなく「婚約者」として連れ帰ろうとしていたけれど、エルヴィーラ殿下はあくまで婚約者候補。
これからエルヴィーラ殿下は帝国に渡り、バルク殿下に選ばれるために、ほかの婚約者候補の方々と火花を散らすことになる。
国の上層部としては、そのねじ曲がった根性を他国に行って鍛え直せ、的な思惑があるのかもしれないけど。
でもエルヴィーラ殿下自身が、そうした状況をどこまで正確に把握できているのかはわからない。もしかしたら、バルク殿下と婚約できるなんてラッキー、なんて能天気に喜んでいたらどうしよう。いや、すごくあり得る。だいぶ心配になってきた。
この国で、なんだかんだ言って甘やかされて、傲慢不遜な王女に育ったエルヴィーラ殿下が果たしてどこまでやれるのか。魑魅魍魎が跋扈する帝国で、したたかに生き延びのし上がることができるのか。
まあ、前途多難であることは、間違いない。
「そんなことよりさ」
隣に座るサイラス様は私の右手をぎゅっと握ったかと思うと、体ごと私のほうに向き直る。
「フレイア嬢が許してくれたよ」
少し上目遣いになって、私の顔を覗き込むサイラス様。
今日の帰り際、フレイアは唐突につかつかとサイラス様に近づいて、こう言ったのだ。
『サイラス様、もういいですよ』
『え?』
『リリエルに近づくななんて無茶苦茶なことを言って困らせて、本当にすみませんでした』
神妙な顔つきで頭を下げるフレイアに、サイラス様も姿勢を正して首を振った。
『謝らなくていいよ。フレイア嬢の言ったことは、何も間違ってないんだから』
『でも……』
『君がああやって直接言ってくれなければ、俺は大事なことに気づけなかった。だから、むしろ感謝してるんだ。これからも何かあったら、遠慮なく言ってほしい』
『サイラス様……』
フレイアは、とても複雑な表情をしていた。申し訳ないと、うれしいと、よかった、がごちゃまぜになったような表情だった。
「リリ」
真っすぐに私を見据えて、サイラス様はいつも以上に険しい顔つきになる。
「改めて、ほんとに悪かった」
「もういいですよ。何度も謝ってくれたじゃないですか」
「それでもさ。自分が正しいと思ってしていたことがとんでもない見当違いだったんだなって、つくづく痛感したから」
「でもサイラス様はサイラス様なりに、私を守ろうとしてくれていたわけでしょう? 私だって、みんなに嫌がらせを受けて困ってるって素直に言えばよかったんですよ」
「それを言うなら、俺だってリリに直接聞けばよかったんだよ」
「いえ、私が――」
「違う、俺が――」
しばらく不毛な押し問答を続けて埒が明かないことに気づいて、二人で顔を見合わせながら笑ってしまう。
「……実は、俺さ」
サイラス様は一瞬言い淀み、それから決心したように言葉を続ける。
「バルク殿下に言われたんだよ。俺のしていたことは、『独りよがりの自己犠牲でしかない』って」
「……え?」
驚いてサイラス様の顔を見返すと、バツが悪そうにぎこちなく笑う。
「それと、リリのことを守っているつもりだろうけど、大事なものを失ったことに気づいてないって」
「……大事なもの、ですか?」
「うん。それが何なのか、ずっと考えてて」
握った私の手に目を遣って、サイラス様は優しくすりすりとなでる。
そのまま視線を動かすことなく、ゆっくりと口を開く。
「リリの俺に対する信頼とか、ひょっとしたら淡い恋情とか、そういうものかなと思ってたんだけどさ。でも、気づいたんだよ」
サイラス様は、すっと顔を上げた。
濃藍色の瞳の奥に、温かな光が灯る。
「……リリの笑顔だった」
「……私の、笑顔……?」
「学園に入ってから、リリはだんだん、俺に愛想笑いしかしなくなった。そのことに、俺は全然気づいてなかった」
「あ……」
「笑顔を見せてくれているから、それで安心してたんだ。でもバルク殿下が来て、リリとまたいつも一緒にいるようになって、俺はリリの心からの笑顔をずっと見ていなかったことに気がついた」
サイラス様は切なげな目をして、じっと私を見つめていた。
「ごめん」と言っているようで、私も切なくなる。
「俺はリリの笑顔を守りたかったのに、俺のせいでリリは素直に笑うことができなくなってたなんてな。ほんとに不甲斐ないし、情けない」
「そんな……」
「でももう、同じ失敗は二度と繰り返さないから。リリを悲しませるようなことも、傷つけるようなことも、絶対にしない。俺のこと、信じてくれるか?」
微動だにせず、息を凝らして私の答えを待つサイラス様の濃藍色の瞳が、揺れている。
私は小さく「はい」と言って頷いた。
その瞬間、するりと伸びてきた腕にあっさり閉じ込められる。
苦しいくらいに強く抱きしめられて、呼吸もままならない。
「……もう絶対放さないし、大事にするし、幸せにするから」
低く艶めいた声が耳元をかすめる。
「だから、覚悟して?」
「……え? 覚悟?」
「言っただろう? ほかのことなんかどうでもいいと思うくらい、リリのことが好きなんだって」
「……あ」
そういえばそんなことを言われたような、なんて思い出したときには、サイラス様の端正な顔がすぐ目の前にあって――――
あっという間に、ちゅ、とキスされていた。
「……え?」
「ごめん、リリが可愛すぎて」
「え?」
「もう一回する?」
「い、いえいえいえ!」
「もしかして、嫌だった……?」
「そ、そういうわけでは……!」
「……じゃあさ」
そう言って近づいてきたサイラス様の顔はうっとりするほど妖艶で、目をつぶる暇もなかったのでした。
無事、完結です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました!




