2 この婚約が謎でしかない
「リリ、行こう」
その日の授業が終わったと思った瞬間、サイラス様は私の机の脇に立っていた。
ちなみに、私とサイラス様は同じクラスである。
「え、は、早っ……!」
慌てて机の上の教材を片づけ始める。ちらりとサイラス様の机のほうを盗み見たら、跡形もなくきれいになっていた。いったいどういう手品?
急かされるように立ち上がると、すかさず後ろのほうから鋭い声が飛んでくる。
「サイラス!」
振り返るまでもない。この気高い金切り声は、エルヴィーラ殿下のものである。何の因果か、殿下も同じクラスなのである。
「何をそんなに急いでいるのよ?」
「ちょっと用事があって」
「用事? いったいなに――――」
「ああ、ごめん。急いでるから。じゃあ」
サイラス様は一切表情を変えず、聞こえているのかいないのか殿下の言葉をいとも簡単に遮ってしまう。ちょっと不敬すぎない? いとこだからいいの?
そして私の手を取ったかと思うと、「行こう」と言って颯爽と歩き出す。
「あの、いいんですか? 殿下もサイラス様に用事があったのでは?」
「ないよ、多分」
自信ありげに断言するサイラス様は、立ち止まる気配がない。
ちょっとだけ振り返ると、何か言いたそうに不満げな顔をするエルヴィーラ殿下と目が合ってしまう。
そして、睨まれる。
こ、怖いんですけど……!!
幼い頃からずっと、サイラス様に片想いをしていたというエルヴィーラ殿下。なぜそんなことを知っているのかと言えば、殿下自身が自分を悲劇のヒロインとして吹聴していたからである。
大好きなサイラス様が気づいたときにはすでに私と婚約していたことがショックすぎて、殿下は三日三晩泣き続けたという。本当かどうかは知らないけど。どうしても諦めきれず、父親である陛下に自分がサイラス様と婚約したいと願い出たりレイシアン公爵家に直訴したりしたけれど、結局この婚約が覆ることはなかったらしい。
そもそもエルヴィーラ殿下は唯一の王女だから、ゆくゆくは他国の王族か高位貴族に輿入れするだろうと言われている。
三つ年上の兄殿下ライオネル様はすでに立太子しているし、少し年の離れた弟のレオナルド殿下はまだ十歳と幼い。となれば、他国との同盟強化のためにもエルヴィーラ殿下の輿入れは必要不可欠になってくる。
王族である以上、好きな相手じゃなきゃ嫌だ、なんてわがままはあいにく通用しない。さすがにそれはわかっているらしく、サイラス様への恋心はすっぱりと捨て去ってただの「いとこ」として仲良くしている、ということになっているエルヴィーラ殿下。
でも、そんなわけはない。そんな話、誰も信じていない。
もしそれが本当だというなら私はあんなふうに睨まれたりしないだろうし、エルヴィーラ殿下のねちっこい嫌がらせの的にされることもなかったと思う。
だって、学園に入学した当初は本当にひどかったのだ。
殿下が「サイラス様を私に奪われ泣く泣く諦めた」なんてとんでもない作り話をして回ったせいで、私は学園中の生徒から敵意を向けられる羽目になった。
麗しい姫君が目に涙を浮かべながら訴える話を、疑う生徒なんているわけがない。
いやいや、婚約は公爵家が言い出した話だし、私だってこの婚約にはちょっと困惑してるんです、なんて言い分には誰も耳を傾けてくれない。
しかも私は、貴族社会では見くびられ侮られているシリンド伯爵家の人間である。
そんな人間が完璧貴公子と婚約だなんて身の程知らずもいいところだ、分を弁えろ、なんて直接罵倒されることもあったし、すれ違いざまに「ブス」だの「地味」だの「メガネ」だの、悪意ある言葉を投げつけられることもたびたびあった。
ちなみに入学当初、私は眼鏡をかけていた。学者気質のシリンド家だもの、幼い頃から本を読むのが好きだった私は当然のように書物漬けの毎日を送っていた。
結果として、必然的に目は悪くなった。そりゃそうだ。お父様もお兄様も、眼鏡だし。関係ないか。
それに今更言うまでもなく、私の見た目は地味である。残念ながら、それは厳然たる事実である。何の変哲もない茶色の髪に、パッとしない灰青色の瞳の私は百人いれば百人が「地味」と断言するだろう。そのへんは遺伝だから、どうしようもない。もはやどうこうしようなんて気すら起きない。
でも悪口を言われるのはやっぱり嫌だったから、せめてもの思いで学園では眼鏡をかけないようにした。おかげで席はいつも一番前だし、遠くが見えづらくて顔をしかめていると「睨んでる」「怒ってる」なんて誤解されてしまう。
どっちに転んでも結局は悪口を言われるという、理不尽な状況ではある。
それでも、半年もたつと罵倒や悪口は徐々に減っていった。恐らく、私を標的にすることにみんな飽きたのだろう。エルヴィーラ殿下自身も気が済んだのか、出鱈目を吹聴して歩くことがなくなったし。おかげで私に関する悪評は次第に鎮静化していき、私もなんとか平穏な学園生活を送れるようになった。
そうこうしているうちに、気づいたらサイラス様はエルヴィーラ殿下と行動をともにすることが多くなっていた。
多分、エルヴィーラ殿下がずっと自分に片想いをしていたという話をどこかで耳にして、心が動いたのだろう。
学園にいる間中、サイラス様はエルヴィーラ殿下から片時も離れることはない。だからといって私を蔑ろにするということはないけれど、普段の学園生活を考えればサイラス様が私と殿下のどちらを優先しているかなど一目瞭然である。
サイラス様は、私が悪口を言われたり直接罵倒されたりしていたことを知らない。恥ずかしくて情けなくて言いたくなかったし、そういうことは決まってサイラス様がいないときに行われていたから知る由もない。
「リリ?」
呼ばれて顔を上げると、訝しげな濃藍色の瞳と視線がぶつかる。
「どうかした?」
「え? あ、その、オフィーリア様の誕生日プレゼントは、何がいいかなって……」
「あー、うん。去年はブックカバーだったっけ?」
「それは一昨年ですよ。去年はサシェの詰め合わせセットです」
「……そうだった。どっちも母上は大喜びだったな」
「気に入ってもらえて、よかったですよね」
そう言って、私は中途半端な笑みを浮かべる。
サイラス様の態度は、出会った五歳の頃からずっと変わらない。
一見無愛想で素っ気ない塩対応ながらも、意外に親切丁寧。時折辛辣な物言いになるのは、裏表のない正直な人だから。婚約が決まってからは完璧な婚約者として、常に優しく穏やかに接してくれている。
でもそこに、愛はない。
いや、いわゆる友愛とか、家族愛とか、そういう愛情、もしくは信頼感はあると思う。さすがに、嫌われてはいないはず。
でもなんというか、そこに「熱」を感じないのだ。
狂おしいほどの恋情とか恋い焦がれる衝動とか、そういった類いの「熱」は一切感じられない。そこにあるのは、優しい陽だまりのような暖かさのみ。
きっとそういう「熱」は、エルヴィーラ殿下にだけ向けられているのだろう。
だから一層、この婚約が謎でしかない。
百歩譲って、サイラス様が私のことを好きだからというなら理解もできるのだけど。でもそんなわけはない。間違ってもそんな妄想はしない。
……私なんかと婚約したって、なんのメリットもないのに。
馬車に揺られてぼんやりと窓の外を眺めながら、私は小さくため息をついた。




