13 好きなものを好きだと言えること
それからまもなく、私とサイラス様の婚約はあっさり解消になった。
帝国の圧力があったのだ。
いくらこの国の筆頭公爵家といえども、レイシアン家になす術などなかった。ずっと抵抗を示していたようだけれど、最終的に逆らうことはできなかったらしい。
私が帝国行きを承諾すると、バルク殿下の留学も突然打ち切りとなった。こんなところにいつまでもいる必要などないとばかりに、数日後には帰国することが決まっている。
『精霊の申し子』という存在や私の持つギフトについて、バルク殿下が世間に暴露することはなかった。
公には殿下が私を見初め、溺愛するあまり一刻も早く婚約の手続きを行いたくて帰国するという、ちょっとした美談になっている。
お父様はあれからずっと、保管庫に閉じこもって出てこない。
自分の油断と不注意のせいで、我が家の秘密がバレてしまったのだと激しい後悔に駆られている。私に申し訳ない、不甲斐ないと言って意気消沈していたお父様。私に会わせる顔がないとも言っていた。
私は無心で、旅立つ準備をしている。
何も、考えないようにしていた。
考えたら、手が止まってしまう。私が行かなければ、大切な人たちに害が及ぶことになる。
こうするしかないのだと、これでいいのだと、必死に自分に言い聞かせていた。
そうして、学園の登校最終日。
もうバルク殿下はいない。帰国の準備で忙しいらしい。
最後の授業を無事に終えた帰り際、私はフレイアにある頼みごとをした。
「……これを、サイラス様に返してほしいの」
私が差し出した細長い長方形の箱に目を向けて、フレイアは不機嫌そうに尋ねる。
「……なんなの、それ」
「サイラス様にもらったネックレスなんだけど」
「それくらいわかるわよ」
フレイアの尖った声には、少しだけ涙が滲んでいた。
フレイアはきっと、知っているのだ。
サイラス様との婚約解消が私の本意ではないことも、帝国皇太子に請われたら断るなんて不可能だということも、そしてバルク殿下が交渉の材料として、ラルセン伯爵家の名前を出したのだということも。
強大な力を持つ帝国が、バルク殿下が、本気を出せばこの国ごとなくすことなど赤子の手をひねるよりたやすいと、誰もが知っている。
聡いフレイアが、何も気づかないわけがなかった。
「……ごめんなさい」
フレイアの空色の目から、涙がこぼれる。
「ラルセン伯爵家のせいで、リリエルにこんなつらい決断をさせてしまうなんて……」
「ラルセン伯爵家のせいじゃないわよ」
「でも、うちが帝国との交易で利益を得ているのは事実だもの。それに、断ったら誰に何をするかわからないとでも言われたんでしょう?」
「それは……」
「考古学バカのハイテンション皇太子だとばかり思っていたけど、腹の中は信じられないくらい真っ黒だったのね。闇が深すぎるわよ」
……考古学バカのハイテンション皇太子。
こんなときだというのに、フレイアのネーミングセンスにくすりと笑ってしまう。
「でも私、悪いけど、それは引き受けないから」
フレイアはネックレスの箱に目を落としたまま、硬い表情で答える。
「自分で返すべきよ」
「そんなのわかってるけど……」
私は目を伏せる。
喉の奥がツンと痛みを増して、こらえていたものが全部溢れてしまいそうになる。
「……会って話したら、決心が鈍ってしまいそうだから……」
愛想笑いの出来損ないみたいな顔で笑うと、フレイアが私を優しく抱きしめる。
「……こんなの、おかしいわよ。間違ってる」
「フレイア……」
「だってそうでしょう? どうしてリリエルが犠牲にならないといけないの? どういう理由があるにせよ、権力に任せて横から奪うようなやり方が許されるはずないのに」
静かな怒りに、フレイアは小さく震えていた。
だから私も背中に手を回して、ぽんぽんとあやすようになでる。
「……ありがとう、怒ってくれて」
「やっぱりダメよ。行っちゃダメ。リリエルだって、ほんとは行きたくないんでしょう?」
まるで祈るように私の顔を窺う空色の瞳に、嘘などつけるわけもない。
でも私は何も答えず、ただ黙って視線を逸らす。
バルク殿下にすべてを知られてしまってから、サイラス様とはほとんど話せていなかった。
殿下の手前、サイラス様と二人きりになるのはもちろん、挨拶を交わすことすら憚られたから。
何か問いたげな視線を感じながらも、私はずっと、サイラス様と顔を合わせることを避けていた。
「リリエル。自分の気持ちに嘘をついてもろくなことにならないって、『ギデオン様』も言っていたでしょう?」
大真面目な顔で突然『推し』のセリフを引用するフレイアに、一瞬面食らう。
何度も言うけど、フレイアの最大の『推し』である『ギデオン様』は、『人形令嬢と年上の婚約者』という恋愛小説のサブキャラである。
彼は騎士団長家の嫡男でありながら剣術の素質のなさに悩み、剣術からも婚約者の『リーディア様』からも逃げてぽっと出の男爵令嬢にうつつを抜かしていた。
でも、とある出会いによって『ギデオン様』は改心し、常にそばにいて見守ってくれる『リーディア様』の存在に改めて気づいて、いつしか溺愛するようになるのだけど。
こういうときでも『ギデオン様』なのね、と思ったら、フレイアのブレなさがなんだかちょっと、うらやましい。いっそ、清々しい。
「あのね、リリエル。自分に嘘をついて、誤魔化したって幸せにはなれないのよ? 好きなものを好きだと言えることが大事だって、『ギデオン様』も言っていたでしょう?」
「……そうね」
「だから私は、まだ諦めたくないの。もしかしたら、何か手立てがあるかもしれないじゃない。好きなものを好きだと言えない場所に、リリエルを行かせたくないのよ」
最後のほうは涙まじりになって、フレイアが言い募る。
自分のために、こんなふうに泣いてくれる親友がいる幸せを、私は帝国で見つけることができるだろうか。
「……好きなものを好きだと言うことに関しては、フレイアが一番得意かもね」
涙をこらえてそう言うと、フレイアも泣き笑いのような表情になって応える。
「それはそうよ。そっち方面においては、私の右に出る者はいないと思うわよ」
「ふふ、そうね」
「私はこれからも、未来永劫『ギデオン様』とイザーク様を『推し』として崇拝しながら生きていくんだから。リリエルもちゃんとそれを見届けて――――」
「俺がなんだって?」
思いがけない声に、ぎょっとして振り返る。
そこにはなぜか、イザーク様本人とイザーク様に連れてこられたと思しきサイラス様が…………!
「イ、イザーク様、来るのが早いです!」
耳まで真っ赤になったフレイアが慌てて抗議すると、イザーク様は気安い調子で「ごめんごめん」とか言いながら近寄ってくる。
「じゃあ、俺たちは行くからさ。あとは二人でちゃんと話し合って」
「え?」
「フレイア、行くよ?」
いつのまにか、フレイアを呼び捨てにしているイザーク様。
この二人、なんだか妙に距離が近くない? いつからこうなった?
呆気にとられているうちに、真っ赤な顔で呼吸困難に陥っているフレイアはイザーク様に連行されてしまった。
「……リリ」
聞き慣れた低い声が耳をかすめただけで、涙が止まらなくなる。
私たちはたった二人、教室に残された。




