12 崇高な目的があるんだよ
バルク殿下は悠々とソファに座り、私たちは蛇に睨まれた蛙のように小さく縮こまる。
「さて、どういうことなのか説明してもらおうか」
帝国皇太子の圧に逆らえるはずもなく、お父様は渋々といった様子ですべてを話し始めた。
シリンド家に時々生まれる『精霊の申し子』という存在、古代語がわかるという能力、そしてその事実が長きに渡って秘匿され、門外不出とされてきた歴史。
話を聞き終わったバルク殿下は、どこか満足そうに口角を上げた。
「……なるほどな」
その目に、澱んだ鈍い光が走る。
「何かあるとは思っていたけど、そういうことだったのか」
「え……?」
項垂れていたお父様が、弾かれたように顔を上げる。
「それは、どういう……?」
「考えてもみろ。古代語はいまだ謎が多く、すべてが解読されているとは言い難い。にもかかわらず、お前は見つかった古文書や発掘された遺跡に残された古代語をやすやすと解読してしまうだろう? 何かと理由をつけてうまく誤魔化していたつもりだろうけど、僕は以前からおかしいと思っていたんだよ」
「え……」
「そこにどういうからくりがあるのかを探る目的で、僕はお前に近づいたんだ。考古学に興味があってお前を心から崇拝し、師と仰いでいるふりをしてね。まあ、古代史に興味があったのは嘘ではないけど」
殿下は言いながら、なぜか私を凝視する。
「そんなとき、発掘調査のために帝国を訪れていたキルスをもてなす機会があったんだ。僕が勧める酒を浴びるほど飲んだキルスは、酩酊状態になってこう言った。『私の研究は、リリの存在があってこそです』と」
お父様が、目を見開く。
その様を見て、殿下はますます饒舌になる。
「はじめは単に、可愛い娘の自慢かと思ったよ。でもよくよく考えてみたら、違和感を覚えたんだ。子どもの存在が自分の研究の原動力だというなら、なぜ長男の名前を出さない? なぜリリエルだけを殊更強調する?」
「そ、そんなつもりは……」
「それから僕は、ますますお前に張りついて事細かに言動を注視し続けた。リリエルに何か秘密があるのではという仮説のもとにね。お前にもそれとなくリリエルについて尋ねただろう? お前はなんの警戒心も持たず、聞かれたことにほいほい答えてくれたよな? そして話を聞いているうちに、リリエルが思った以上にお前の研究に関与し、また影響を与えていると知ったんだ。結論として、やはりリリエルがお前の研究の『鍵』なのではないかと考えた」
「え……」
「僕がこの国に留学することを決めたのは、リリエルに会うためだよ。会って直接この目で確かめて、真実を探ろうと思ってね。そして、僕の予想は見事に的中したというわけだ」
これ以上ないというほど得意げな表情で、バルク殿下は思わせぶりな視線を私に向ける。
そして、さらりと言った。
「リリエルが『精霊の申し子』と呼ばれる特別な存在だというなら、ぜひ僕の妃として迎えたい」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
あまりにも突然すぎるその言葉に、呆然とする。
「い、いや、殿下」
お父様がソファから腰を浮かせ、半ば前傾姿勢になって口を挟む。
「リ、リリエルはすでに婚約しておりますが」
「知ってるよ。サイラス・レイシアン公爵令息だろう? でもそんな婚約、僕の力をもってすればいくらでも握りつぶすことができるんだけど」
バルク殿下は大仰に腕を組み、居丈高な態度で言い放つ。
「たかが公爵家の令息と帝国の皇太子、どちらが上かなど聞くまでもない。力の差は歴然なことくらい、お前たちにもわかるだろう?」
「いや、しかし、殿下にはすでに複数の婚約者候補の方々がいらっしゃるはずでは……」
「それは『婚約者候補』だろう? 僕はリリエルを『婚約者』として連れて帰りたいんだよ。いずれは帝国皇帝となる僕の正妃、つまり皇后になる身としてね」
「そ、それは……」
「僕にはね、崇高な目的があるんだよ」
殿下の纏う雰囲気が、急に変わった。
頬に挑むような笑みを浮かべる殿下に、言いようのない恐怖にも似た感情を覚える。
「僕はね、『精霊王の湖』を探しているんだよ」
「……え?」
唐突に、意外なワードが飛び出した。
いや、今日に限っては、すでに何度も飛び交っているワードではあるのだけれど。
困惑ぎみに次の言葉を待つ私たちの顔を上機嫌で眺めて、殿下はにやりとほくそ笑む。
「知っての通り、精霊王が浄化した『精霊王の湖』の水を飲めば、精霊の『秘めたる力』の片鱗を宿すことができると言われている。僕は『秘めたる力』と『精霊王の湖』について、ずっと調べていてね。帝国皇家にも門外不出の書物というものが数多く残されていて、それによれば『秘めたる力』には無限の可能性があり、その力を得た者は人としての存在を超えて神に近づく、と記されているんだよ」
「神、ですか……?」
「そうだ。素晴らしいとは思わないか? 精霊王の力を得て、神に近づく。僕はその崇高な目的のために、『精霊王の湖』を探しているんだよ」
バルク殿下の明らかに恍惚とした目は、もはやどこも見ていない。
やばいくらいの薄ら寒さすら感じていると、狂気をたたえた瞳が私を捉える。
「そのためには、どうしてもリリエルの力が必要なんだ。わかるだろう? 君のそのギフトで、『精霊王の湖』のありかを探し出してくれないか?」
「そ、その気持ちはまあ、わかりますけど、でもそれでしたら、殿下の妃になる必要は特にないのでは……?」
やっとの思いでどうにか反論すると、殿下は即座に首を横に振る。
「そのギフトを有するということは、君が精霊に祝福された存在だということだ。そんな存在を、僕が逃すと思う?」
「え……」
「最初から、君のことは帝国に連れて帰るつもりだったんだよ。君がなんらかの『鍵』を握っていることは、確信していたからね」
「で、でも……」
頭の中に浮かんだのは、サイラス様だった。
サイラス様の柔らかい笑顔。そっと触れる指先。どこまでも優しい、濃藍色の瞳。
バルク殿下のもとに行くということは、そのすべてを手放すということ。
私にそれが、できるのだろうか。
サイラス様から離れて、帝国に渡って、バルク殿下の婚約者として、そしていずれは妃として生きていくことが、私にできるの……?
「……バルク殿下」
私の声は、思いのほか硬く、掠れていた。
「恐れながら――」
「リリ?」
予想外に愛称で呼ばれて、背中がぞわりとする。
「断ろうなんて、思ってないよね?」
「え……?」
「もし君が僕の求婚を断ったら、どうなると思う?」
殿下の声はからりとしていながら、その目には不気味なほどの昏い影が宿っている。
「まさか殿下、武力行使に及ぶおつもりでは……?」
蒼ざめるお父様に、バルク殿下はおどけて答える。
「そんな野蛮なことはしないよ。でもそうだなあ、手始めにレイシアン公爵家は潰してしまおうかな」
「……え?」
「だって邪魔だろう? それと、リリの親友のフレイア嬢はラルセン伯爵家の令嬢だったよね? あそこは帝国との交易で莫大な利益を得ている貴族家だから、一切の取引が停止したらどうなるんだろうね?」
「……そ、それは……」
「あ、やっぱりこの国の王家に直接責任を取ってもらおうかなあ? そうすればこの国ごとなくなって、リリも余計な心配をせずに済むだろうし」
「殿下……」
「もちろん、シリンド伯爵家をなくすようなことはしないよ。大事な妻の生家だもの。でもシリンド家だけを助けたら、この国の人たちは、いやサイラスは君のことをどう思うんだろうね?」
その瞬間、私は『絶望』という言葉の意味を、知った。




