第8話 リディアの悩み。
王宮の一角、魔法研究室。
整然と並べられた魔道書の山。その隙間を縫うように、陽の光が差し込む静謐な空間。
長机の上には、開かれた魔道書がいくつも並べられていたが——その主は、その内容に集中できていなかった。
「……はぁ」
深い溜息をつき、額に手を当てる少女。
銀髪が静かに揺れる。紫紺の瞳は迷いの色を宿していた。
リディア・アークライトは、手元の書物ではなく——頭の中でぐるぐると回り続ける“昨日の出来事”に囚われていた。
(どうして、あんな戦い方ができるの……?)
目を閉じれば、脳裏に蘇る光景。
模擬戦。
“異世界の勇者”九条迅との戦い——そして、その結末。
迅は風の流れを読んで彼女の魔法をかわし、炎の魔法の特性を利用して、彼女の懐に飛び込んできた。
——「女の子を殴るわけねぇだろ」
そう言って、不敵な笑みを浮かべながら、力尽きるように倒れた少年。
(……! ち、違うわよ!)
リディアはハッとして首を横に振る。
彼の理論について考えていたはずなのに、なぜかその場面ばかりが繰り返し脳裏に浮かぶ。
少しでもその顔が思い出されるたび、心の奥が妙にざわつく。
「何よ、別に……。変なこと言っただけじゃない……」
自分に言い聞かせるように呟くが、逆効果だった。
むしろ、昨夜からずっと落ち着かなかった理由がはっきりしてしまった。
(……私は今まで、こんな男の子に出会ったことがなかった)
今まで彼女が接してきたのは、王国の騎士や魔法士たち、それに学者たちばかり。
どれも「伝統ある魔法理論」を頑なに信じて疑わない者たちだった。
そんな中、迅は異世界の知識を持ち込み、常識を軽々と覆していった。
——詠唱は命令コード。
——魔法の軌道は風の流れで読める。
——炎の魔法は熱エネルギーを利用して応用できる。
どれも彼女の知識にはなかった、新しい発想だった。
でも、それだけなら「面白い人」程度で済んだ。
彼女の心をここまで乱しているのは——彼の表情だ。
魔法士たちが驚愕する中、迅はまるで「当然だろ?」と言わんばかりの余裕の笑みを浮かべていた。
まるで、すべてを見通しているかのような顔。
(あの自信……どこからくるのかしら?)
そんなことを考えていると、また心臓が小さく跳ねるのが分かった。
(……違う違う違う! 私が考えるべきは理論の方! なんでアイツの顔を思い出してるのよ!)
ガタンッ!
無意識のうちに、リディアは机を両手で叩いていた。
「……お、お嬢?」
声の主は、魔道書を整理していた宮廷魔法士ロドリゲスだった。
目を丸くして彼女を見つめている。
「ど、どうしたんじゃ? いきなり大きな音を立てて」
「……なんでもないわ」
咳払いして取り繕うが、誤魔化しきれていない。
ロドリゲスはニヤニヤと微笑む。
「ほほう……さては、勇者殿のことを考えていたのでは?」
「はぁ!? ち、違うわよ!」
ロドリゲスの言葉に、リディアの顔が一瞬で赤く染まる。
「なっ、なんでそうなるのよ!? 私はただ、彼の理論のことを……」
「ああ、なるほどのう。おぬし、あやつの研究に興味があるのか?」
「そ、それは……」
言葉に詰まる。
興味があるのか?と聞かれれば——それは否定できなかった。
ロドリゲスは彼女の様子を見て、静かに頷く。
「うむ……まあ無理もない。わしも、勇者殿の考え方には驚かされることばかりじゃ」
「……」
「詠唱短縮、魔力操作の最適化……まるで魔法を新たな学問として再構築しようとしておる。まさに革新じゃな」
リディアは静かに目を伏せる。
彼の言うことは、確かに正しい。
魔法というものは、古くから「神の力」として扱われ、体系としては確立されてきた。
しかし、その本質を解析しようという発想は、これまで誰も持たなかった。
もし、迅の理論が正しければ——魔法の進化が起こる。
「お嬢よ、おぬしも勇者殿の研究に協力してみてはどうじゃ?」
ロドリゲスの提案に、リディアは驚いたように顔を上げた。
「え……」
「おぬしほどの才を持つ者なら、勇者殿の考えを深く理解できるじゃろう」
「……簡単に言わないでよ」
リディアは複雑な表情を浮かべた。
魔法士としてのプライドがある。
自分の信じてきた魔法の伝統を、いきなり捨てることはできない。
だけど——
「……彼のやり方が間違っているかどうか、確かめるくらいなら……いいかもしれないわね」
静かに、そう呟く。
そして、心の中でそっと決意する。
(私は、このまま何もしないでいるより、直接彼の考えを見極めたい。)
その時、リディアはまだ気づいていなかった。
この決断が、彼女自身の運命をも大きく変えることになると——。