第62話 賢律院議会、老魔法士の誓い
荘厳な宮廷の奥深く——王宮の最上階、賢律院の会議室は、静寂と緊張に包まれていた。
室内に設えられた長大な円卓を囲むのは、アルセイア王国の最高意思決定機関である"賢律院"十三名の要人"十三賢人"たち。
その中には、アルセイア十三世、王国魔法士団の筆頭であるロドリゲス・ヴァルディオス、そして貴族派の代表格であるダリウス・ヴェルトール公爵とバルコス・リシュトン侯爵の姿もあった。
卓上には蝋燭の炎が揺れ、豪奢な金細工のシャンデリアがかすかな光を投げかける。
だが、今この場には、光の温もりとは対照的な、鋭く冷たい議論が飛び交っていた。
「——勇者・九条迅について、意見を交わす必要がある。」
開口一番、厳粛な声が響く。
この場を統べる男——アルセイア十三世が、静かに口を開いた。
「魔王軍の高位幹部”黒の賢者”アーク・ゲオルグを退けたという点において、彼の力が王国にとって有益であることは疑いようがない。しかし——」
国王の言葉を遮るように、ダリウス・ヴェルトールが低い声で言った。
「しかし、陛下……あの勇者の力は、果たして”神の御業”と言えるのでしょうか?」
卓上の空気が、ピンと張り詰める。
貴族派の筆頭にして、異端排斥を掲げるヴェルトール家の当主は、鋭い視線で国王を見据えていた。
「我々が信仰する”神聖魔法”は、詠唱をもってして発動するもの。それこそが神が人々に与えた理。その理を、勇者は自らの手で勝手に改変しているのです。」
「……。」
ロドリゲスは口を挟まず、ただ静かにダリウスを見つめた。
「詠唱を短縮し、あるいは完全に破棄し、魔力を自在に操るなど……これはもはや”神の理”に従った魔法ではなく、“異端の技術”と言えるのではありませんか?」
「異端……と?」
穏やかだった国王の声が、わずかに低くなる。
その変化に気づいた者は、席の周りにいる数名の貴族だけだった。
「ヴェルトール公、それは勇者を王国の敵と見なすということか?」
「まさか陛下。そのような意図はございません。ただ……」
ダリウスはわざとらしく、ため息をついてみせる。
「危険なのです。勇者は”神聖なる魔法”ではなく、“未知の魔法”を操っている。」
「未知の魔法、か。」
ロドリゲスが低く呟いた。
その声は、小さくとも鋭さを帯びていた。
「我が王国が数百年にわたり、魔法の発展を重ねてきたことをお忘れか?魔法とは、ただ与えられるものではない。人々が学び、試し、研鑽し、進化させてきたものだ。」
「その通りですな。」
突然、隣席に座るバルコス・リシュトン侯爵が口を開いた。
彼の笑みは、どこか冷たい。
「しかし、ロドリゲス殿。“進化”とは言えど、それが魔王軍の技術と同じ方向性を持っているとしたら、果たしてどうでしょう?」
「……何が言いたい?」
ロドリゲスは眉をひそめた。
「勇者の魔法と”黒の賢者”アーク・ゲオルグの魔法は、本質的に似通っているように思えますな……。論理的な解析と、魔力の理論的応用。まるで鏡写しのように。」
「……!」
「それが、どのような結末をもたらすのか……慎重に考えねばなりませんな。」
その言葉に、議場の空気が一変した。
貴族の何名かが、互いに不安げな視線を交わす。
「バルコス侯、その言葉はさすがに言い過ぎではないか?」
穏やかだった国王の声に、わずかな鋭さが加わる。
だが、バルコスは余裕の笑みを崩さなかった。
「失礼を承知の上で申し上げております。ですが、実際問題として、勇者の技術が魔王軍のそれと酷似しているのもまた事実。」
バルコスは目を細め、言葉を続ける。
「むしろ、それほどの技術を持つ者が、果たして”王国の味方”であり続ける保証など、どこにありますかな?」
「……!」
王国の貴族たちは、戸惑ったようにざわめいた。
確かに、アーク・ゲオルグの魔法は独自の”科学的思考”を基盤にしたものであり、勇者の魔法もまた、魔法の根本を理論的に解析し、科学的応用を施したものだった。
「バルコス……お前は勇者を信じぬというのか。」
低く響く声——それはロドリゲスのものだった。
「“信じる”とは感情的な話です。私が問うているのは、“論理的な危険性”のことです。」
バルコスは肩をすくめた。
「ロドリゲス殿、あなたは勇者を近くで見てきた。ならばお聞きします。」
彼は目を細め、ニヤリと笑った。
「勇者がこの先、王国の手に負えぬ存在になった時——あなたはどう責任を取るおつもりですか?」
「……。」
静寂が落ちる。
ロドリゲスは、じっとバルコスを見つめていた。
その老練な瞳は、何かを見据えるように揺るがず、確信に満ちていた。
「ならば、お前はこう考えたことはないのか?」
「……?」
ロドリゲスは、ゆっくりと語る。
「勇者の力がなければ、王国は”黒の賢者”に敗北していたのではないか、とな。」
「……!」
バルコスがわずかに口をつぐむ。
「勇者が魔王軍と戦い、我らを勝利へ導いているのは”事実”。であるならば、我らのすべきことは何か?」
ロドリゲスは、ゆっくりと卓上を見渡した。
「それは、勇者を支え、導くことだ。」
「……。」
バルコスは目を細め、何かを考えるように黙り込んだ。
国王は静かに頷くと、宣言を下した。
「本日の議論を踏まえ……勇者・九条迅を、王国の英雄として擁立する方針とする。」
賢律院の会議室に、再び張り詰めた空気が流れた。
国王の宣言——勇者・九条迅を王国の英雄として擁立する方針——により、議論の焦点は「異端排斥派がどこまで抵抗できるのか」に移っていた。
静寂のを破るように声を発したのはバルコス・リシュトン侯爵だった。
「陛下……。勇者を擁立する決定は、あまりにも拙速ではございませんか?」
冷静な口調だったが、その目は決して穏やかではなかった。
「拙速だと?」
国王はわずかに眉を寄せ、バルコスを見つめた。
「はい。確かに、勇者が”黒の賢者”を退けたのは偉業でしょう。しかし、それが即ち、彼が”王国のため”であると結論付けるのは尚早かと。」
「ならば問おう。」
国王はゆっくりと身を乗り出し、バルコスを鋭く見据えた。
「バルコス侯。そなたは、勇者の功績をどう評価する?」
「……。」
バルコスは、一瞬だけ沈黙する。
一方で、ダリウス・ヴェルトール公爵が隣から助け舟を出した。
「勇者が”黒の賢者”を退けたのは確かです。しかし、それは勇者一人の手柄ではないはず。王国軍の支援があり、あの"天魔"リディア・アークライトの補助があり、賢律院が一席であらせられるロドリゲス殿の戦略があったからこそ——」
「それはそうだ。」
ロドリゲスが、ヴェルトールの言葉を遮った。
「だが、逆もまた然り。勇者がいなければ、王国軍ではアーク・ゲオルグに勝てなかった可能性が高い。」
「……!」
ヴェルトールの表情がわずかに曇る。
ロドリゲスは続けた。
「王国軍の誰かが”あの場”で黒の賢者と戦い、勝利できた者はいたのか?」
「……。」
「確かに、勇者の力は未曾有のものだ。従来の魔法とは異なる。しかし、魔王軍の猛威に対抗できる”剣”を持ちながら、それを捨て去ることが、果たして正しい選択なのか?」
ロドリゲスの言葉に、貴族たちは顔を見合わせた。
その時——
「それならば!」
ヴェルトールが大きく声を張り上げた。
「それならば、勇者の力などなくとも、我が甥——カリム・ヴェルトールがその場にいれば、“黒の賢者”などものの数ではなかったはず!!」
「……。」
会議室の温度が、一瞬で下がった。
貴族たちは顔をしかめ、王国軍の将軍たちは呆れたような視線を向けた。
確かに、カリム・ヴェルトールは”剣聖”の称号を持つ剣士であり、王国随一の実力者と名高い。
だが、アーク・ゲオルグを退けられたかと聞かれれば、それはまた別の話である。
「ダリウスよ。」
国王は低く呼びかけた。
「確かにカリム・ヴェルトールは優れた剣士だ。それは我も認める。しかし、彼一人に全てを背負わせることが、この王国の未来にとって最適解だと本気で思っているのか?」
「……。」
ヴェルトールは黙り込んだ。
「カリムは確かに”剣聖”だが、勇者・九条迅は”科学の知識”と”魔法の応用力”を持つ。異なる戦術を持つ二つの力を、我々はどちらも必要としている。」
「……。」
ヴェルトールは歯を食いしばる。
バルコスは、あえて余裕の笑みを浮かべた。
「……陛下の御意向、よく理解いたしました。」
「……ほう。」
国王は少しだけ目を細めた。
「では、賢律院としての決定を再確認しよう。」
国王は堂々とした口調で言い放つ。
「勇者・九条迅を、正式に”王国の英雄”として擁立する。」
「……!」
議場にざわめきが広がる。
賛成派の貴族たちは頷き、反対派の者たちは苦々しげに沈黙した。
「以上だ。本件についての議論は、これで終わりとする。」
国王の声が響き、賢律院の会議は幕を閉じた。
異端排斥派は悔しげに押し黙り、貴族たちは賛意と不安を入り交ぜたような表情を浮かべた。
そして、会議は静かに幕を下ろした——。
◇◆◇
賢律院の会議が終わり、要人たちは一人、また一人と退出していった。
大理石の床に響く靴音が、まるでこの国の未来を決める鼓動のように静かに鳴り続ける。
ロドリゲス・ヴァルディオスは、深いため息をついた。
彼の視線は議場の中央、まだ国王が腰かけている王座の方へと向けられていた。
「ロドリゲス。」
国王アルセイア十三世は、彼に目を向けた。
その表情は、会議中に見せていた王としての厳格さではなく、一人の”人間”としての思索の色が滲んでいた。
「お前の進言には、感謝している。」
「……恐れ入ります。」
ロドリゲスは頭を下げる。
彼が本音を語ったのは事実だ。迅がいなければ、アーク・ゲオルグを退けることはできなかった。
しかし、それが勇者擁立の決定的な理由になるとは、彼自身も思っていなかった。
国王は重々しく続けた。
「しかし、ロドリゲスよ……本当に、勇者を王国の”英雄”とすることが最善なのか?」
「……陛下?」
「……問題は、勇者がこの王国の枠組みに適応できるかどうか、だ。もし、彼がこの国の指導を拒み、独自の道を歩もうとするなら……それはもはや、王国の英雄ではなくなる。」
国王の言葉に、ロドリゲスは黙り込んだ。
それは、彼自身も痛感していたことだ。
迅はあまりにも異質だ——この世界の”魔法”という概念すら、彼の手によって根底から覆されようとしている。
それが”進歩”なのか”異端”なのか、今の時点で明確に判断できる者など、どこにもいない。
「……我が王国が、彼の力に依存しすぎれば、いずれそれに”縛られる”日が来るかもしれぬ。」
国王は静かにそう言った。
ロドリゲスは、その言葉の意味を噛み締める。
もし勇者の力が王国の”絶対的な柱”となれば、その後どうなるのか——。
迅がいなくなった時、この国はどうなるのか?
あるいは、迅自身が”国の意志”に従わなくなった時、何が起こるのか?
「……確かに、陛下のお考えは尤もかもしれません。」
ロドリゲスはゆっくりと頷いた。
「……私が長年、王国の魔法士として見てきた限り、時代の変革を担う者は常に異端と呼ばれてきました。ですが、異端と呼ばれた者が時にこの国を救い、時に新たな秩序を築いてきたのもまた事実。」
「……。」
「アーク・ゲオルグとの戦いは、まだ終わったわけではありません。そして、“魔王”という最大の脅威は、今も健在です。」
ロドリゲスは手を握りしめた。
「もしも、この国が彼を受け入れず、異端として排除することを選んだなら……いずれ後悔することになるでしょう。」
国王はしばらく沈黙した。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
「……ロドリゲス。お前の忠誠に、我は感謝する。」
そう言ってから、彼は再び目を開いた。
「——ならば、頼んだぞ。」
「……!」
「勇者が、この国を導く”英雄”となるよう……そして、決して”災厄”にならぬよう……お前が見届けよ。」
国王の言葉に、ロドリゲスは改めて深く頭を下げた。
「——承知いたしました。」
彼の老いた瞳には、確固たる決意の光が宿っていた。
(……わしは、見届けよう。この若き勇者が、この国を守る”光”となるのか、それとも……)
(いや——そうではないな。)
(わしが守るのだ。あの若者を。この老骨にできることがあるならば、どんな形であれ——必ず。)
静かに、重厚な扉が閉ざされた。
そして、ロドリゲスは歩き出した。
あの少年の未来を、その力を、見守るために——。




