第55話 勇者の名の元に
部屋に静かな足音が響いた。
重厚な革靴が床を踏みしめる音。
それは、王宮の静寂の中で、ゆったりとした威厳をまとっていた。
リディアと迅が視線を向けると、入り口に立っていたのは——ロドリゲスだった。
「目覚めたか、勇者殿。」
低く落ち着いた声が、部屋に響く。
彼の顔には深い皺が刻まれているが、その奥にある眼光は鋭い。
迅はゆっくりと瞬きをして、乾いた喉を震わせながら答えた。
「……じいさん。」
ロドリゲスは静かに頷きながら、医務室の中へと歩を進めた。
「しばらく意識が戻らなかったからの。気づいた時には、もう二日が経っておった。」
「……二日も?」
迅は驚き、思わず顔をしかめる——が、結局指一本すら動かせない。
リディアがすかさず「だから言ったでしょ」と、じと目で見つめてくる。
迅はそれを軽く受け流しながら、ロドリゲスに尋ねた。
「それで……俺が倒れた後、どうなった?」
ロドリゲスは腕を組み、静かに語り始めた。
「おぬしが気絶した後、魔法士団が王国から派遣され、我々と合流した。」
迅は「なるほど」と小さく呟く。
あの時点では、リディアやロドリゲスだけでは村人を救出するのは難しかっただろう。
おそらく、王宮側も「勇者が負傷した」という一報を受け、すぐさま動いたに違いない。
「魔法士団と共に、遺跡へ向かった。」
ロドリゲスの顔が、少し険しくなる。
「——封印は、すでに解かれていた。」
迅の眉が、ピクリと動く。
「遺跡の入り口が?」
「そうじゃ。」
ロドリゲスはゆっくりと頷く。
「おぬしらが戦っている間に、何が起こったのかは分からん。しかし、遺跡の扉はすでに開いておった。まるで、待ち構えていたかのようにな。」
リディアが驚いた顔で口を開く。
「待って、それってつまり……アーク・ゲオルグが、最初からこの状況を計画していたってこと?」
「可能性は高い。」
ロドリゲスは静かに言った。
「そして、遺跡の第一層に入ると——そこには、気を失った村人たちがおった。」
迅の意識が、一気に冴え渡る。
「彼らは、遺跡の広間の、大きな浴槽の様な場所に倒れておった。」
ロドリゲスの表情は厳しい。
「すぐに魔法士団が回収し、王宮へ搬送した。幸い、外傷はなかった。」
迅は一瞬、ほっと息をつきかけたが——ロドリゲスは続けた。
「しかし、問題がある。」
「……問題?」
「村人たちの記憶が、襲撃された夜の時点で途切れておる。」
その言葉を聞いた途端、室内の空気が凍りついた。
リディアが驚愕の表情を浮かべる。
「え……記憶が、ない?」
「うむ。」
ロドリゲスは深く頷く。
「魔王軍に襲われた時の記憶はある。だが、それ以降のことは、誰一人として思い出せぬというのだ。」
「……全員が、か?」
「そうじゃ。」
迅は眉をひそめた。
(……村人全員の記憶が、一斉に途切れる?)
そんなことが、偶然起こるだろうか。
「魔力による干渉の影響かと思い、王国の魔導士たちが検査を行った。」
ロドリゲスはゆっくりと首を振る。
「だが、精神に異常は見当たらん。洗脳や幻惑の痕跡もない。」
迅は黙り込んだ。
村人たちの記憶が、魔王軍の襲撃以降すっぽり抜けている。
しかし、魔法的な影響はない。
——では、一体何が起こったのか?
答えはまだ見えない。
ロドリゲスは、静かに言った。
「遺跡の詳細な調査は、王国の学者たちに委ねることになった。今の段階では、これ以上の情報はない。」
迅は唇を引き結びながら、ゆっくりと考えを巡らせる。
この違和感。
アーク・ゲオルグの狙い。
そして、村人たちの失われた記憶——。
すべてのピースが、まだ噛み合っていない。
しかし——。
「ともかく、村人たちは全員、無事じゃ。」
ロドリゲスは穏やかな声で言った。
「おぬしは何も心配せず、まずは休め。」
迅は、ゆっくりと目を閉じた。
(……まだ終わってない気がする。)
そんな考えが、一瞬脳裏をよぎる。
しかし、今はそれを口には出さず——小さく息を吐いた。
「……そうさせてもらうわ。」
ロドリゲスの報告が終わると、部屋には一瞬の静寂が訪れた。
村人は無事に保護された。
しかし、彼らの記憶は失われ、遺跡には謎が残ったままだ。
(……アークの狙いはなんだったんだ?)
迅は考えを巡らせるが、体はまだ動かない。
今は焦るべきではない。
とにかく、休め——。
ロドリゲスの言葉が、頭の中で響く。
ロドリゲスはゆっくりと顎を撫でながら、改めて迅を見下ろした。
「ふむ……本当に全く動けぬようじゃな。」
「あー…見ての通りな。」
迅は苦笑しながら答えた。
「……しかし、さすがと言うべきか。」
ロドリゲスは軽く笑みを浮かべた。
「おぬし、魔王軍の高位幹部を退けたのじゃぞ? それも、ただの一戦士ではなく、"黒の賢者"アーク・ゲオルグを、じゃ。」
彼の言葉には、明確な賞賛の色があった。
「それ相応の功績として、王国から褒賞が出るじゃろうな。」
「……褒賞?」
迅は思わず眉をひそめた。
「当然のことじゃ。村を救い、魔王軍を退け、さらには遺跡の謎の一端にまで踏み込んだ。これほどの偉業を成し遂げたのじゃ、王が何もせぬわけがなかろう。」
ロドリゲスの口調は淡々としているが、その奥にはしっかりとした確信があった。
しかし、迅はその言葉に違和感を覚えた。
「……別に、そんなもんいらねぇけどな。」
「ほう?」
ロドリゲスは少し目を細めた。
「俺は戦うためにここに召喚されたんだろ?じゃあ、村人を助けるのも、魔王軍と戦うのも当然のことじゃねぇか。」
迅はゆっくりと息を吐きながら、薄っすら笑みを浮かべて続ける。
「だから、報酬なんていらねぇよ。」
言葉に迷いはない。
だが、それを聞いたロドリゲスは、穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか……しかしな、勇者殿。」
彼は一歩、迅のベッドのそばに近づいた。
「おぬしの戦いは、すでに”個人のもの”ではないのじゃ。」
「……どういう意味だ、そりゃ?」
「王国は、勇者をただの戦士とは見ておらぬ。おぬしの戦いは、すでに多くの者たちの希望となっておる。」
ロドリゲスは、ゆっくりと室内を見回した。
「王宮の者たちも、民衆も……おぬしの存在に期待しておるのじゃ。」
迅はその言葉を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
(……期待、か。)
たしかに、これまでも何度か感じていた。
人々の視線、期待の眼差し。
彼はただ、自分ができることをしてきただけだ。
だが、それは王国にとって「希望の象徴」になりつつある。
(……英雄扱いされるのは、面倒だな。)
そう思う反面、完全に否定することもできなかった。
ロドリゲスは静かに息をつくと、身を翻した。
「ともかく、王より正式な褒賞の話が出るじゃろう。それがどのような形になるかは、まだ分からんがな。」
「……まあ、貰えるもんなら貰っとくかね。」
迅は仕方なくそう答えた。
「それでいい。」
ロドリゲスは満足げに頷く。
「では、わしはこれで失礼しよう。おぬしはまず、ゆっくりと休むのじゃ。」
そう言い残し、ロドリゲスは背を向けた。
歩みを進め、扉の前でふと立ち止まる。
「——おぬしは、やはり勇者じゃな。」
静かにそう呟くと、そのまま部屋を後にした。
扉が閉まり、静寂が訪れる。
迅はしばらく天井を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
(……勇者、ね。)
その言葉の重みが、静かに胸に落ちていくのを感じた。




