第54話 君が生きていてよかった
意識が暗闇の底からゆっくりと浮上していく感覚があった。
どこか遠くで、微かな風の音が聞こえる。
——いや、これは風じゃない。
何かが揺れる音。布の擦れるような、淡く心地よい音が、ぼんやりとした意識の中に響いていた。
まぶたが重い。全身も鉛のように重く、ひどく鈍い感覚がまとわりついている。
(……ここは……?)
意識の深い霧の中で、ゆっくりと思考が組み上がっていく。
確か、自分はアーク・ゲオルグと戦って——。
あの激しい戦闘の記憶が、霞がかった頭の奥で揺らめく。
そして、最後に覚えているのは——。
(……ああ、俺、倒れたんだった……。)
ゆっくりと目を開けようとする。
まぶたを持ち上げるだけで、途方もないほどの疲労を感じる。
じわりと視界が明るくなる。
まず目に映ったのは——見覚えのある装飾の施された天井だった。
柔らかい寝具の感触。控えめな燭台の灯り。微かに漂う薬草の香り。
この感触には覚えがある。
王宮の医務室だ。
(……ってことは、俺、生きてんのか。)
それを理解すると、ほっと安堵の息が漏れそうになった。
だが、次の瞬間、違和感が全身を包み込む。
まったく動かない。
指一本すら、びくりとも動かせなかった。
(……は?)
焦りが胸をよぎる。
——いや、違う。これは筋肉の炎症。神経加速による反動。そして、二重詠唱による魔力枯渇の影響。
理解はできた。だが、それを知ったところで、この状態が楽になるわけではない。
(くっそ……まさかここまでとはな……。)
軽く舌打ちしようとするが、口すらまともに動かない。
完全に、身体が悲鳴を上げていた。
(……誰か、いる……?)
ふと、視界の隅に動く影があった。
横を向くことすらできないが、視線だけをなんとか動かして、その存在を確認する。
そこにいたのは——リディアだった。
椅子に座ったまま、うつむいて、眠っている。
右手は軽く握られたまま、膝の上に落ちている。
左手は、まるで支えを求めるように、ベッドの端にそっと置かれていた。
彼女の頬には、わずかに疲労の色が見える。
その姿を見た瞬間、胸の奥に何かがじんわりと広がった。
(……ずっと、付き添ってくれてたのか。)
寝顔は穏やかだった。
微かに揺れる髪。
寝息は静かで、まるで緊張から解き放たれたかのようだった。
あれほど気丈に振る舞っていた彼女が、こうして目の下に薄くクマを作りながら、ここにいる。
(リディア……。)
言葉にならない感情が胸に広がる。
……とにかく、起こさなければ。
「……リディア。」
声を出すのも、想像以上に辛かった。
喉が枯れて、掠れた声になった。
それでも、彼女の眠りを揺り動かすには十分だったらしい。
リディアの肩が、ぴくりと動く。
ゆっくりと顔を上げると、半分眠たそうな瞳がこちらを向いた。
そして——。
「——迅!」
その瞬間、彼女の瞳が一気に見開かれた。
驚きと、安堵と、喜び。
それらがすべて混ざり合った表情を見せると、リディアは勢いよく椅子から立ち上がった。
「……やっと、起きたのね……!」
それは、静かに震えた声だった。
言葉が終わると同時に、リディアはすっと目を伏せ、胸に手を当てた。
その指先がわずかに震えているのを、迅は見逃さなかった。
「……本当に……良かった……。」
小さく呟くように言った彼女の声には、安堵がにじんでいた。
迅はそんな彼女を見つめながら、ゆっくりと微笑む。
「……悪かったな、心配かけて。」
それだけ言うのがやっとだった。
リディアは、ふっと微笑んだ。
「もう……本当に、バカなんだから。」
呆れたように言いながらも、その瞳の奥にはまだ残る安堵が滲んでいる。
迅は、そんな彼女を見つめながら、心の中で小さく息をついた。
(……どうやら、俺はまだ戦えそうだ。)
そのことが、何よりも嬉しかった。
リディアは小さく息をつくと、迅をじっと見つめた。
その瞳には、安堵の色が濃く浮かんでいる。
しかし——。
次の瞬間、彼女の表情が急変した。
「……本当に無茶しすぎ!!」
唐突に飛んできた怒声に、迅は思わず瞬きをする。
「え、ちょっ……」
「ちょっとじゃない! 指一本動かせないじゃない!」
リディアは勢いよく身を乗り出し、迅を睨みつけた。
その顔は、怒っているはずなのに、どこか泣きそうにも見える。
「……お前……もしかして、泣く寸前?」
冗談めかして言うと、リディアは「違う!」と即座に否定した。
だが、その目元はほんの少し赤い。
「……ったく……どれだけ心配したと思ってるのよ。」
静かに言ったその言葉には、怒りだけでなく、心の底からの疲労と安堵が滲んでいた。
迅は軽く息を吐く。
(……まあ、そりゃそうなるよな。)
自分でも、今回の戦いがどれほど危険なものだったかはよく分かっている。
アークとの戦闘は、一歩間違えば命を落としていてもおかしくなかった。
それに、“神経加速”と”二重詠唱”の無理な併用による反動——結果として、自分は指一本動かせないほどの状態に陥っている。
その状況を、リディアが目の当たりにしていたのだ。
怒るのも、当然だろう。
迅は苦笑しながら言う。
「まあ……ちょっとやりすぎたかもな。」
「ちょっとじゃないって言ってるでしょ!」
バシンッ!
リディアがベッドの脇を叩いた。
「本当に……無茶ばっかり……。」
彼女は俯きながら、ポツリと呟く。
迅は、少しだけ真面目な声で言った。
「でも、次は無茶じゃなくなるように、もっと練度を上げとくさ。」
リディアは呆れたように息をつく。
「……あなたって、本当にそういうところだけ妙に前向きよね。」
迅は動かない肩をすくめた。
「まあな。でも、次はもう少しうまくやるわ。」
「次は、じゃない!」
リディアが再び怒る。
しかし、その声にはほんの少しだけ、微笑が混じっていた。
怒りが収まり、部屋の中に静寂が戻る。
しばらくして、リディアが小さく息を吸った。
「……でも。」
その声は、先ほどまでの怒りとは違う、どこか柔らかい響きを持っていた。
迅が視線を向けると、リディアは少し伏し目がちになりながら、小さく口を開いた。
「……ありがとう。」
「え?」
「私を……守ってくれて。」
リディアの瞳が、まっすぐ迅を見つめていた。
迅は言葉を失った。
この戦いで、リディアを庇ったのは確かだ。
アークの攻撃がリディアに向かった瞬間——迷うことなく体が動いた。
だが、それは「当然のこと」だった。
守るべき仲間を、守る。
それだけの話だ。
それなのに、リディアはこんなにも真剣な顔で礼を言う。
「……まあ、当然だろ。」
迅はそれだけを返す。
「当然じゃないわよ。」
リディアが静かに言う。
「あなたが、あの時、迷わず私を庇わなかったら——私は……。」
言葉が途切れた。
リディアは視線を伏せ、静かに手を握りしめる。
迅は、彼女のその仕草を見ながら、内心で思う。
——アークは、本気でリディアを殺すつもりではなかった。
あの攻撃は、ギリギリで急所を外していた。
もし本当に殺す気なら、別の手を打っていたはずだ。
迅には、それが分かった。
だが、それをリディアに言うことはできなかった。
「……お前が無事でよかったよ。」
代わりに、そう呟いた。
リディアは、ゆっくりと顔を上げた。
そして——ほんの少しだけ、微笑んだ。
「……うん。」




