第44話 戦火の村と、消えた足跡
夜明け前の王都。
静寂の中、王宮の厩舎で馬の蹄が小さく地面を鳴らしていた。
「よし、荷物の確認は終わったな。」
ロドリゲスが手綱を握りながら言う。
「水、保存食、簡易テント、薬草……一応の戦闘準備も完了。」
リディアが手際よく荷物を確認しながら、ふと横を見る。
「迅、ちゃんと準備できた?」
「おうよ。研究用のノートも持ったし、着替えも一着……って、戦場に着替えはいらねぇか。」
迅は苦笑しながら、荷物を鞍に括りつけた。
「……迅。」
ふいに、リディアが真剣な表情で呼びかける。
「ん?」
「あなた、こうして外の戦場に出るの、初めてよね?」
その言葉に、迅は一瞬手を止めた。
そういえば、自分はこれまで研究と実験に没頭するばかりで、実際の戦場には一度も足を踏み入れたことがなかった。
模擬戦や訓練場での実験はしてきたが、本物の戦いは違う。
相手が何を仕掛けてくるか分からない。
自分が狙われるかもしれないし、自分の選択で誰かの生死が決まるかもしれない。
「まあ、そうなるな。」
迅はあえて気楽な調子で答えた。
「大丈夫なの? 戦場って、訓練とは違うわ。」
リディアの眉がわずかに寄る。
「……そりゃ分かってるけどな。」
迅は一瞬だけ考え込むような顔をしたが、すぐに口角を上げた。
「でも俺は科学者だ。データを集め、分析して、最適な答えを導く。それが戦場でもできるかどうか、試してみるのも悪くねぇだろ?」
「……もう。」
リディアは呆れたようにため息をついた。
「あなたって、そういう時でも本当に飄々《ひょうひょう》としてるのね。」
「慌てたって意味ねぇしな。」
迅は笑って肩をすくめた。
「勇者殿のその性格は、敵にとってはやりづらいが、味方にとっては……時折、少々不安になるのう。」
ロドリゲスが苦笑いしながら言った。
「ま、それも分からなくもないけどな。」
迅は馬の鞍に手を置き、リディアを見つめる。
「リディア、お前こそ大丈夫か?」
「え?」
「俺のことを心配してるのは分かるけど、お前だって戦場にはそこまで慣れてるわけじゃないだろ?」
「……それは……。」
リディアは言葉を詰まらせた。
「お主ら、そろそろ行くぞ。」
ロドリゲスが二人のやり取りを見て、馬にまたがる。
「日の出前に出発すれば、昼前にはデルヴァ村に着くじゃろう。」
「はいよ。」
迅も馬に乗りながら頷く。
リディアも小さく息を吐き、最後にもう一度だけ迅を見た。
「……いい? どんなに状況が変わっても、あなたの身はあなた自身が守ること。」
「おう。そっちもな。」
「当たり前よ。」
リディアは少しだけ笑みを浮かべ、手綱を握った。
三人は静かに馬を走らせ、王都の門をくぐる。
彼らの行く先、デルヴァ村——そこには、すでに黒の賢者の影が忍び寄っていた。
デルヴァ村へ続く街道を馬で駆けながら、三人は次第に言葉少なになっていった。
事前に受けた報告では、「村は襲撃を受け、建物は破壊されたものの、村人のほとんどは無事に避難できた」と聞いている。
だが——
「……変だな。」
迅が手綱を引きながら、小さく呟いた。
「何が?」
リディアがすぐに問いかける。
「報告通りなら、ここにたどり着く前に、避難民の足跡や荷車の轍があってもおかしくねぇ。」
迅は馬を降り、地面を指さす。
「村人がほとんど無事に避難できたなら、それなりに大勢が移動したはずだろ? でも、地面はほぼ荒れてねぇ。人が大勢通った痕跡が見当たらねぇんだよ。」
「……!」
リディアとロドリゲスも馬を降り、周囲を見回す。
「たしかに……避難民の数を考えれば、もっと地面に乱れた跡が残るはずじゃが……。」
ロドリゲスも眉をひそめる。
「……念のため慎重に進みましょう。」
リディアが静かに言うと、三人は馬を引きながら村の入口へと足を踏み入れた。
デルヴァ村の門は、半壊した状態でかろうじて立っていた。
壊された柵、焼け焦げた建物、そして荒らされた倉庫——確かに襲撃があった痕跡はある。
だが——
「おい、どういうことだ……?」
迅が思わず口にする。
「……人がいない……?」
リディアが青ざめた表情で呟いた。
村は破壊されている。物資も荒らされている。
けれど、肝心の「人の気配」がない。
死体や血痕すら見当たらない。
「避難できたって報告があったはずじゃが……」
ロドリゲスも慎重に周囲を見回す。
迅は視線を走らせながら、冷静に分析を始める。
「……破壊の規模は報告通りだな。建物が燃やされ、倉庫が荒らされてる。でも、これ……」
迅は足元に落ちていた壊れた荷車の木片を拾い上げる。
「村人たちが急いで逃げたにしては、足跡が少なすぎる。それに、手荷物や家畜の痕跡もほとんどねぇ。」
「……まるで、村ごと丸々消えたみたい……」
リディアが不安そうに言った。
「いや、何人かは確かに逃げてるはずだ。」
迅は地面に膝をつき、慎重に跡を探る。
「だが、報告ほど多くの避難者はいねぇ。大勢がまとめて消えたみたいに、な。」
ロドリゲスの表情が険しくなる。
「つまり、襲撃はあったが……村人たちは本当に”避難した”のかどうか分からん、ということか?」
「……だな。」
迅は、村の広場に転がっていた物資を見ながら頷いた。
「だとすれば、報告を受けた騎士団も、村人たちが避難したところまでは確認できてねぇってことになる。」
「……迅、もしかして……」
リディアが言いかけた瞬間——
「これ……転移魔法の痕跡じゃな……?」
ロドリゲスが低く呟いた。
リディアと迅が同時にロドリゲスの指差す場所を見る。
そこには、消えかかった魔法陣の痕跡があった。
「……転移魔法……?」
リディアの声が震える。
「おいおい、マジかよ……」
迅は魔法陣の痕跡に膝をつき、慎重に調べる。
「この規模の転移魔法を使うには、膨大な魔力と高度な術式が必要よ。」
リディアが険しい顔をする。
「普通の魔法士には扱えねぇだろうな。」
迅が呟く。
「……黒の賢者、アーク・ゲオルグか。」
ロドリゲスが名前を口にした瞬間、三人の間に緊張が走った。
「……あー……やっぱりあいつかよ。」
迅は舌打ちしながら立ち上がる。
「迅、どうする?」
リディアが身構える。
迅は魔法陣の痕跡をもう一度確認し、鋭い眼光を向けた。
「魔力の痕跡はまだ微かに残ってる。転移の座標を探れば、どこに連れて行かれたか分かるかもしれねぇ。」
「できるのか?」
ロドリゲスが問う。
「リディア、頼めるか?」
迅は彼女を振り返った。
リディアは数秒間考え込み、そして大きく頷く。
「やってみるわ。」
迅は拳を握りしめ、前を見据える。
「アークが何を企んでるのか、今ここで確かめるぞ。」
デルヴァ村の荒廃した景色の中で、三人の決意が静かに固まる。




