第33話 リディアの覚悟と、迅の決意
王宮の一角にある静かな中庭。
夜風がひんやりと肌を撫で、微かに揺れる魔導灯の明かりが、敷石の上に伸びる影をぼんやりと歪ませていた。
リディアは、ふと立ち止まった。
その小さな背中が、迷いを滲ませているように見えた。
「……やっぱり、納得いかないわ。」
沈黙を破ったのは、リディアの低い声だった。
その言葉に、隣を歩いていた迅は足を止め、彼女を見た。
リディアの紫紺の瞳は、じっと前を見つめたまま揺れていた。
「アーク・ゲオルグは、確かに“敵意”を見せなかった。でも……それがかえって不気味なのよ。」
「確かにな。」迅はポケットに手を突っ込みながら、リディアの言葉を受け止める。
「でも、それならこっちも“敵”かどうかを判断するまでは、迂闊に動かない方がいい。」
「そうかもしれない。でも、だからこそ怖いのよ。」
リディアはきつく拳を握る。
「彼は、私たちのことを知りすぎている。あなたのことも、私のことも……まるでずっと前から見ていたみたいに。」
その言葉に、迅の表情がわずかに曇った。
確かに、アークはまるで以前から迅とリディアを研究していたかのような口ぶりだった。
少なくとも、王宮の魔法士たちよりもずっと迅の魔法理論に興味を示していたし、リディアの魔力についても何か知っている素振りを見せていた。
——だが、それが何を意味するのかは、まだ分からない。
「……それに。」
リディアの声が、少しだけ震えた。
「迅、あなた……本当に、大丈夫なの?」
「……ん?」
「あなたは、普通の魔法士とは違うやり方で魔力を鍛えて、異常な速度で成長して……でも、戦いの経験はほとんどない。
なのに、あなたはまるで“戦うのが当たり前”みたいに話すわ。」
リディアは、まっすぐ迅を見つめた。
「あなたは……本当に“戦う覚悟”があるの?」
その問いに、迅は少しだけ目を細めた。
「戦う覚悟、ね。」
彼はゆっくりと夜空を見上げる。
星が、静かに瞬いていた。
「……ま、戦いたくはねぇよ。」
あまりにもあっけらかんとした言葉に、リディアは一瞬、呆気にとられた。
「俺は、本当なら研究室に引きこもって、ずっと魔法と科学の融合について考えてたいくらいだ。」
迅は薄く笑う。
「だけどな、俺がそれをやってる間に誰かが死ぬってんなら……そっちの方が“納得いかない”んだよ。」
リディアは息を呑んだ。
「俺は、科学者としてこの世界の魔法を解明したい。それが、俺の本音だ。」
迅は、ゆっくりと拳を握る。
「でも、それだけじゃこの世界では生き残れねぇんだろ?」
「…………」
「だったら、俺は戦うさ。少なくとも、自分の研究を続けるために。俺の理論が、戦うための手段にもなるなら、それを使う。それが合理的判断ってやつだ」
夜風が、二人の間を吹き抜ける。
「……そういうことね。」
リディアは、彼の横顔を見つめた。
「でも、私は……あなたに戦ってほしくない。」
「……リディア?」
「あなたは、戦う人じゃないわ。あなたの頭脳は……もっと、違うことに使うべきよ。」
彼女の声は、どこか切なげだった。
「戦いなんて、向いてないわ。あなたの戦い方を見て、確信したの。」
「確信?」
「あなたは、“勝つこと”よりも“負けないこと”を選ぶ。出来る限り相手を傷つけず、最小限の力で制圧しようとする。」
リディアは、自嘲気味に笑った。
「そんな戦い方……普通は出来ないわ。」
「……まぁな。」
迅は肩をすくめた。
「俺は、元の世界では戦いなんかとは無関係に生きてきた。当然、戦いが好きなわけじゃねぇし、できるなら戦わずに済ませたい。」
「だったら……!」
リディアは、思わず言葉を詰まらせる。
「だったら、無理に戦う必要なんて——」
「でも、戦わなきゃいけねぇ時もある。」
迅の目が、夜の闇の中で静かに光った。
「それを、お前が一番分かってるんじゃねぇのか?」
リディアは、ハッと息をのむ。
彼女は、ずっと戦ってきた。
王国最年少の宮廷魔法士として、その才能を武器に戦場に立ち、魔王軍と戦ってきた。
戦わなければ、守れないものがあることを、誰よりも知っている。
——だからこそ。
リディアは、胸が苦しくなった。
「……私は、あなたが戦場に立つのが嫌なのよ。」
「リディア……」
「あなたは、他の誰とも違う。こんな世界に、こんな時代に、あなたみたいな人が来てくれたことが、奇跡なのよ。」
リディアの声が、少し震える。
「だから……お願い。あなたは、あなたのままでいて。」
——戦士にならないで。
そう言いたかった。
でも、迅は静かに笑った。
「……俺は、俺のままだよ。」
リディアは、何も言えなかった。
ただ、夜風が冷たく感じた。
「……ま、俺の戦い方が見たいなら、そばで見ててくれよ。」
迅は、そう言って歩き出す。
リディアは、拳を握りしめた。
彼女は、その背中を追いかけるように、そっと歩き出した。
——戦う覚悟なんて、まだ決められない。
でも、彼をそばで見ていたい。
それが、リディアの“答え”だった。




