第29話 アーク・ゲオルグの目的
リディアの体が、微かに震えていた。
目の前の男——"黒の賢者"アーク・ゲオルグ。その存在が、彼女の本能的な恐怖を呼び起こしていた。
理由ははっきりしない。
ただ、彼が纏う空気、魔力の“質”が、通常の魔族とは明らかに違うことだけは分かる。
灰白色の肌、仮面の下の冷静な瞳、優雅な物腰。そして、底の知れない魔力の波動——それは、彼女が今まで感じたことのないものだった。
まるで、生きている魔力そのものが、アークを“媒体”として存在しているかのような異質さ。
「……貴女は、リディア・アークライトですね?」
静かに名を呼ばれ、リディアは息を呑む。
その声は、まるで心の奥深くに直接響くようだった。抑揚の少ない、しかしどこか耳に馴染む不思議な声。
アークはゆっくりと、彼女に向かって手を伸ばした。
リディアの肩がビクッと震える。
「初めまして。貴女のことを、前から知っていましたよ。」
彼の指が、あと少しでリディアの頬に触れようとした——その瞬間。
——ガシッ。
アークの手が止まった。
「……?」
仮面の下の彼の視線が、手元へと移る。
そこには、迅の手があった。アークの手首を、力強く、しかし決して力任せではなく、自然な動作で確実に掴んでいる。
「……女の子の顔に無許可で触れるのは、ちょっとばかしデリカシーに欠けるんじゃねぇか?」
迅はいつもの軽薄な笑みを浮かべるでもなく、しかし感情的に怒るわけでもなく、ただ静かにそう言った。
その声には、淡々とした響きがありながらも、確かな意思が宿っていた。
「——ほう。」
仮面の下のアークの瞳が、僅かに細まる。
面白い、と言わんばかりに、彼はほんの少し口元を持ち上げた。そして、抵抗することなく、あっさりと手を引く。
「素晴らしいですね。そういう態度、私は嫌いではありませんよ?」
迅はアークから目を離さない。リディアは、すぐ隣で二人を見ながら、奇妙な既視感を覚えていた。
(……似ている。)
それが何なのかは、まだ分からない。
だが、目の前で向き合う二人——九条迅とアーク・ゲオルグ。
その空気感、思考の速度、態度——何かが、どこかが、あまりにも似すぎているように感じた。
「貴方が……“勇者”ですね。」
アークが、改めて迅に視線を向ける。
「九条迅、と言いましたか。」
迅はわざとらしく肩をすくめてみせる。
「お、俺の名前も知ってんのか?いやー、魔王軍ってのはずいぶんと物好きだな?」
「ええ。貴方は、魔王陛下が“興味を持っている存在”ですから。」
「……俺に?」
迅の目が僅かに細まる。
この場の空気が、一瞬で変わった。
「興味を持ってる、ねぇ。そりゃまた、ご大層な話だな。」
「貴方がどのような思考を持ち、何を成そうとしているのか——それを、私は非常に知りたくなりました。」
「……」
迅は軽く顎に手を当て、しばし沈黙する。
そして、すぐにその意味を理解した。
(こいつ……俺の“考え方”に興味を持ってる。)
迅は魔王軍の科学技術を知らない。しかし、このアークという男は、明らかに“同類”の思考回路を持っている。
「……ちょっと気になったんだけどよ。」
迅は、興味深そうにアークを眺める。
「お前、やけに物分かりがいいな? 魔王軍ってのは、もっとこう、“勇者を抹殺しろ!”とか言い出すのかと思ってたぜ。」
アークは、ゆっくりと首を振った。
「誤解がありますね。私は、“戦う”ためにここに来たわけではありません。」
「……?」
「私はただ、貴方の“研究”に興味がある。」
「……研究?」
迅の脳裏に、今までの出来事が走馬灯のように蘇る。
科学と魔法の融合。詠唱の最適化。魔力量の増大方法。魔力の可視化。そして、雷魔法の発展。
(……まさか、こいつ。)
迅はようやく気付いた。
——アークは、最初から“それ”を観察していたのだ。
「そして……」
アークは、再びリディアへと視線を向けた。
「貴女の存在も、私にはとても興味深い。」
リディアが、息を呑む。
「……っ」
(こいつ……私に何の用があるの?)
「勇者殿が“科学”を研究するならば——貴女は、“魔法の極致”を研究している。」
アークの言葉に、リディアはハッとする。
彼女自身は、今まで「魔法の仕組みを知りたい」と思っていたが、それを“研究”という言葉で明確に示されたことはなかった。
アークは、まるで彼女の本質を見抜いたかのように言葉を続ける。
「貴女の魔力量は、並外れている。普通の魔法士とは、何かが根本的に異なる。」
「……」
リディアは答えない。
アークの言葉は、彼女の“特異な体質”に気付きつつあることを示していた。
「ふむ……やはり、面白いですね。」
アークは少し考え込んだ後、静かに微笑む。
「では、いずれまた、お会いしましょう。」
そう言うと、彼はゆっくりと身を翻し、まるで何事もなかったかのように立ち去ろうとする。
「おい。」
迅が、声をかける。
アークは立ち止まった。
「俺の研究に興味があるって言ったな?」
「……ええ。」
「なら、もう少し話していけばいいんじゃねぇの?」
アークは、ゆっくりと振り返る。
「それはまた、次の機会に。」
そして、静かに微笑んだ。
「今はまだ、“観察”の段階ですから。」
そう言い残し、アークはその場を後にする。
静寂が訪れた。
「……」
リディアは、全身に残る悪寒を振り払うように息をつく。
迅は、彼の背をじっと見送りながら、ふと呟いた。
「アイツ……」
「まるで、俺みてぇだな。」
リディアが、驚いたように迅を見つめる。
迅の言葉は、単なる冗談ではなかった。
彼の直感が告げていた。
——この男とは、必ずどこかでぶつかることになる、と。




