第2話 魔法はエネルギー保存則を無視するのか?
九条迅は王宮の図書室にいた。
召喚されてから数時間が経過し、彼はすでに異世界の「魔法」について科学的な検証を始めていた。
高い天井まで届く書架がずらりと並び、無数の書物が静かに眠っている。
この世界の王族が代々積み重ねてきた知識の結晶なのだろう。
重厚な木製の机に積み上げられた本の山は、迅がすでに片っ端から目を通したものだった。
「まず、前提を整理するか」
迅はペンを片手に、異世界で支給された羊皮紙にメモを書きつける。
〈現時点での魔法の仮説〉
① 何らかのエネルギー源を利用している。
② 詠唱(呪文)はエネルギーの媒介または制御に関与している。
③ エネルギーの変換プロセスは、科学で説明可能である可能性がある。
「つまり、魔法を使う際に“どこから”エネルギーを取ってるのかが最大の謎だな……」
迅は顎に手を当て、じっくりと考え込む。
例えば——炎を生み出すには燃焼が必要だ。
燃焼が起こるためには、酸素・燃料・点火エネルギーが必須となる。
ところが、宮廷魔法士ロドリゲスが使用した火の魔法は、それらを完全に無視して発生していた。
「パッと見だが、エネルギー保存則をガン無視してるんだよなぁ……」
迅は羊皮紙の端に、「エネルギー保存則=?」と大きく書き込む。
この世界の魔法は、物理法則を覆しているのか、それとも未知のエネルギー変換システムを持っているのか——。
どちらにせよ、解明する価値は十分にある。
しかし、彼が最初にぶつかった壁は、**「この世界には科学的な視点が存在しない」**という事実だった。
迅は積み上げられた書物の中から、一冊を手に取った。
装丁には豪華な金糸が施され、分厚い革表紙には《魔導基礎論》と書かれている。
「《魔法とは神の祝福であり、詠唱により神聖な力を呼び覚ます》……」
迅はパタンと本を閉じ、ため息をついた。
「いや、そういうのはいらねぇんだわ。もっとこう、物理法則的な話をだな……」
次の本を開く。
だがそこに書かれているのも、「魔力は天より授かる」とか、「偉大なる神の奇跡」とか、そんな宗教的な文言ばかりだった。
迅は眉間に皺を寄せる。
「そもそも、この世界の住人はエネルギー保存則を意識してないんだよな……」
彼は机に肘をつき、考えを整理する。
この世界には「魔力」という概念がある。
魔法士たちは日常的にその言葉を使う。
しかし、迅が調べた限りでは、魔力の定義を科学的に解説した書物は皆無だった。
「魔法士たちは“魔力”って言葉を使ってるけど、それが何なのか説明してる本が見当たらない。」
つまり——彼らは魔力を「不思議な力」として扱い、それ以上深く考えてこなかったのだ。
それはおそらく、この世界の宗教観とも関係している。
この王国では神の存在が深く信じられており、魔法は「神の奇跡」として扱われている。
ならば、人々がそれを**「科学的に解明しよう」**と考えなかったのも頷ける。
「だが、それじゃあこの九条迅の知的好奇心が収まらない。」
迅は立ち上がり、書架を歩きながら思考を巡らせた。
仮に、この世界の魔力が未知のエネルギー場だったとしたら?
あるいは、生体電気のようなものと関連していたら?
思考の糸が次々と繋がっていく。
(現状、俺が取るべきアプローチは二つ——)
1.魔法のエネルギー源を特定するための実験を行う。
2.詠唱の役割を検証し、不要な部分を削れるか調べる。
迅は羊皮紙にこれらを書き出し、ペンを置いた。
「となると、まずは魔力というものが何なのかを直接観察しないとな……」
迅は図書室の奥から顔を出し、王宮の兵士に声をかけた。
「おい、ロドリゲスさんを呼んでくれ。」
兵士は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに頷き、足早に去っていった。
迅は微かに笑みを浮かべる。
もし魔力というものが存在するのなら、それを実際に“感じる”ことができれば、何らかのヒントを得られるかもしれない。
そして、それがどのようにエネルギーを消費するのか観察すれば、魔法の仕組みが少しずつ見えてくるはずだ。
「さて……面白くなってきたじゃねぇか。」
迅は再び椅子に座り、次の実験に向けて思考を巡らせた。
——この世界の魔法は、本当に物理法則を無視しているのか?
それとも、まだ誰も気づいていないだけで、確かな法則が存在するのか?
科学者の本能が、確かな手応えを感じ始めていた。
王宮の図書室で理論的な検証を終えた九条迅は、魔法の正体を探るため、「実際に魔力を感じ取る」という次のステップに移ることにした。
そのために、彼は異世界で出会った宮廷魔法士ロドリゲスを呼び出した。
やがて、静かな足音が図書室に響く。
入口から現れたのは、白髪をなびかせた初老の魔法士、ロドリゲス・ヴァルディオスだった。
重厚な紫色のローブをまとい、長い杖を携えたその姿は、まさしくこの王国の知識と魔法の権威を体現している。
「勇者殿、呼ばれて参ったぞ。」
ロドリゲスはゆったりと歩み寄りながら、迅を値踏みするような目で見た。
彼は先ほどの謁見の際に迅の異質さを感じ取っていた。
「異世界の勇者」として召喚されたにもかかわらず、剣を振るうでもなく、魔法を覚えようとするでもなく、科学的に魔法を解析しようとしている。
そんな存在に対し、彼は半ば興味を持ち、半ば警戒もしていた。
「悪いな、急に呼び出して。聞きたいことがあってさ。」
迅は椅子から立ち上がり、ロドリゲスの前に進み出る。
「なんじゃ、勇者殿?」
「魔力って、目に見える?」
その問いに、ロドリゲスは眉をひそめた。
「……魔力は魂に宿る神聖な力。目には見えぬが、感じることはできるのじゃ。」
「ほーん……じゃあ、俺でも感じることは可能かい?」
迅は腕を組みながら、興味深そうに尋ねた。
彼にとって、「見えない」というのは科学的アプローチを阻む要因にはならない。
電子の流れも、放射線も、人間の目には見えないが、それらは確かに存在し、計測手段さえあれば検出できる。
ならば、魔力も何らかの形で「観測」できるはずだ。
「普通は訓練を積まねば無理じゃが……む、試してみるか?」
ロドリゲスは興味を示したように頷くと、杖を持つ手とは逆の手をゆっくりと挙げた。
そして、そのまま迅の額にそっと触れる。
「目を閉じよ。心を静め、魔力の流れを感じるのじゃ。」
迅はわずかに眉をひそめた。
「……うーん、スピリチュアルな話になってきたな……」
正直、こういう“気を感じる”とか“精神を研ぎ澄ませ”とかいう類の話は、これまでの人生で何度も胡散臭いと感じてきた。
だが、これは異世界——「魔法」という未知の法則が存在する世界だ。
迅は半信半疑のまま、ゆっくりと目を閉じる。
——その瞬間。
(……お?)
何かが、確かに“感じられた”。
体の中に、微細な振動のようなものがある。
血流とは異なるリズムで、何かがゆっくりと巡っているような感覚。
まるで、全身の神経がうっすらと共鳴するような、かすかな波動——。
「これが……魔力?」
迅は目を開け、驚きに目を見開いた。
「おお……勇者殿、すでに魔力を感じ取れるとは……!」
ロドリゲスも驚愕していた。
通常、魔力を自覚するには長年の修行が必要であり、初めて魔力を感知するには数週間から数ヶ月はかかるという。
「いや、なんか……本当に電気信号みたいなものを感じるな。」
「電……? 何のことじゃ?」
(……いいね、興味深い。これは生体電気の類か? それとも未知のエネルギー場か?)
迅は拳を握りしめる。
もしかすると、魔力とは脳や神経の電気的な信号と関係しているのかもしれない。
あるいは、もっと別の“場”の概念——例えば磁場や重力場のようなものが働いている可能性もある。
「これは確かに、科学的に解析する価値があるな。」
迅がニヤリと笑うと、ロドリゲスが不安げに尋ねた。
「勇者殿、まさか魔力を解剖しようと考えておるのでは……?」
「解剖っていうか、仕組みを知るってことだよ。」
迅は淡々と答えた。
「この世界の人たちは《神の力》とか言ってるが、そりゃつまり“現象を説明できていない”ってことじゃねぇか。」
「む、確かにそうかもしれぬが……」
「だから、俺が調べる。」
迅の目はすでに「研究者」のそれになっていた。
未知のエネルギーが存在し、それを科学的に解析する余地がある——それだけで、彼にとっては十分すぎるほどの動機になり得る。
「じいさん、もう一度やってもらえるか?」
「うむ、よかろう。」
ロドリゲスは杖を掲げ、小さく詠唱する。
「《フレア・リィス》」
手のひらに、小さな火球がふわりと生まれる。
その炎は、周囲の空気を歪ませることなく、ただそこに浮かんでいた。
「この時、何か体に負担は感じるかい?」
「ふむ……少し疲れるが、大したことはないな。」
「じゃあ、この魔法を20回連続でやると?」
「そ、それは……さすがに疲れる。」
迅は考えを巡らせる。
「つまり、魔力を使うと“疲れる”……つまり、何らかのエネルギーを消費してるわけだ。」
「そりゃあ、当然じゃ。」
「なら、エネルギーはどこから供給されてる?」
「む? それは……魂じゃ!」
「いや、それは概念的すぎるな。もっと具体的に知りてぇんだわ……」
迅は額を押さえた。
「普通に考えれば、消費されるエネルギーはATP(生体エネルギー)か、もしくは周囲の環境から供給されているか……」
「A……? 何のことじゃ?」
「つまり、魔法を使うと消耗するのは体力なのか、それとも別のエネルギー源なのかって話だよ。」
迅は実験を続けながら、仮説を深めていった。
(この世界の魔法士たちは、魔力を“なんとなく”使ってる。だけど、俺なら理論的に解析できるはずだ。)
「いいね、面白くなってきた……!」
迅はニヤリと笑うと、レポートに仮説を書き殴り始めた。
迅の魔法解析は、着実に進み始めていた——。