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木戸を閉めるは一杯の後で

作者: 月宮和香

 その声は、運命を知る者だけが持つ、重く冷たい響きがあった。

 (おぼろ)げな春景(しゅんけい)の記憶が蘇る中、グラスを満たした唐紅(からくれない)に小さないちごが添えられたカクテルを月の沈む方へ向け、軽く掲げると一息に呷る。

 せめてもの餞に。




 駅からバスに乗り、三曲ほど聴き終わるあたりで着く停留所で降りた。

 茜さす街角の少し先、紫野に鈴蘭が咲く公園の右手、商店街を入ってすぐに見える八百屋の向かい、そこに小さなバーがある。

 冬も明け、夜も短くなり始めた四月二十五日。夕刻を知らせるデジタルな鐘の音が止んだ一時間のあと。それが年に一度の逢瀬(おうせ)の時。なんて言ってはいるが、要は上京した僕と、地元に残った昔の友達との酒を交わす日というだけ。

 十数年の時を共に過ごした友人としても、これからの時を共に過ごしたい異性としても、僕にとって大切な人。そんな人と過ごせるこの夜へ想いを()せながら、店へと続く階段を降りる。

 扉を開け、マスターに会釈をし、いつもの席に目を向けた。大抵は少し着崩れたスーツのまま、早く着いたからと飲み始めている背中が映る。だが、今日は見覚えない女性が、いつもの席で、いつものカーディナルを飲んでいる姿が見えた。

 いつもと同じ風景にぽつんと一つだけ浮いた違和感に少し戸惑い、足を止める。同時に、嫌な予感がした。


「お客様。いつものお連れ様のご友人がいらっしゃってます」


 察したマスターはそんな言葉を席で飲んでいた女性に耳打ちすると、その女性は振り返り、僕の方を見る。そして、席を立ち、こちらに一礼すると「少しお話しいいでしょうか」なんて言いながら、僕を隣の席に誘った。

 その女性の顔を見ても、正直誰かは全く分からない。記憶を頼りに当てはまりそうな人物の面影を探そうとするが思い当たる節はなかった。一先(ひとま)ず、不意に立ち込めた嫌な予感でいっぱいの心を紛らわすように、席に座る。


「えっと、すみません。ナツの友達、ですか?」


 強張る表情筋をなんとか和らげながら、落ち着きを装って声をかけた。初対面独特の空気感に包まれながら、少しの無言の後、その女性は一言「そうです」と答える。だが、またすぐに沈黙が流れ、僕とその女性の間を埋めたのは目の前に置かれたレコードプレーヤーから流れるジャズ。


「……と、とりあえず、ジンリッキーお願いします」


 手元でタブレットを操作するマスターに注文する。普段なら営業トークで笑わせてくるマスターもなんだか暗い表情をしているようにも見えた。

 形のない不安はやがて予感へと姿を持ち始め、揺らぐランプが不穏に点滅する。

 運ばれてきたグラスとナッツの小皿に目を落とし、心を沈めるように一口。ライムの酸味が今日はあまり美味しく感じられなかった。


「あの、すみません。私からお話とか言っといてあまり喋れなくて」


 いつの間にか空になっていたコリンズグラスの氷が傾き、カランと音を立てる。レコードが回り切った頃に、その女性は話し始めた。


「どう、話せばいいかわからないんですが、その……ナツは来れなくなっちゃって」


 その一言で、予感は確信に変わっていった。


「そ、そうなんですね」


 曖昧な返事しかできない。多分、僕の想像は最悪な場合のもので、もしかしたら単に体調が優れないだけかもしれない。

 けれど、あのマメな性格で連絡もないまま、友達に来させるなんていうことは考えられなかった。


「マスター、すみません。ジンライムください」


 頭を巡らせるほど、嫌なことばかりが思い浮かぶ。心あたりもないことはなかった。

 酔いが足りないのだなと、運ばれてきたグラスに手をつけ、一口。強いアルコール感にやられながら、もう一口飲む。


「……ごめんなさい。私、本当はちゃんとお話ししようと思ったんですけど、あまりうまく言えそうにないです」


 その女性の目から溢れた涙を見て、確信は事実を指しているのだと分かった。そこからはもう、落ち着いているのに理解できず、酒の魔力に当てられてよく覚えていない。

 気がついたのは、その女性が一つの手紙と三枚の紙幣を置いて、店の扉を出てすぐだった。

 マスターは空いたグラスとコースターを下げ、三枚の紙幣を伝票に挟み、手紙を僕の前に持ってきた。手紙の中身はナツの友人に向けて、ナツの親が書いた数行にわたる手書き。

 はっきりとしない意識ではもう文字を読むことさえままならなかったが、何が書いてあるかなど読むまでもなかった。


「……すみません。ギムレットを、ください」


 もう何杯目だろうか。マスターからは「お客様、飲み過ぎじゃないですか」なんて言われたが、その意味を正常に処理できないくらいには酷い有様なんだと思う。

 まるで夢のように時間が飛ぶような、巻き戻されているような、けれども酔いは覚めていて、目は覚めていない、そんな感覚だった。


「少し、お休みになられますか」


 気を利かせてくれた、というより純粋に心配してくれたマスターは、空いた隣の席に毛布を置いた。「まだ夜は冷えますから、よろしければ」なんて言葉まで添えて。

 浅くなる呼吸、震える手、気づけば潤んでいた目を隠すように、毛布を足にかけ、腕を支えに俯く。その間もレコードは回りながら。


 思い出はたいしたものなど一つとしてない。なにせ、中学からは距離が離れていき、高校生になると互いに部活やら科目別やらで別々のグループにいた。とはいえ、さほど大きくない町で近くに住んでいるのだから、家族同士の交流もあり、弟たちの付き添いで食事なんかも珍しくはない。

 想いを寄せ始めたのは、むしろ僕が上京してからだろう。当たり前が当たり前ではなくなる。ドラマなんかでは何度も見てきて、フィクションの世界だけのように思えていたが、いざその状況に自分が立つと、不思議な気分だった。

 別に仲が悪くもなかったからか、成人式で地元に戻った時に昔のような近い友人関係にまでなり、年に一度は酒を酌み交わそうと決めた。連絡もなんやらかんやらで送っていたし、「恋人はまだできないの?」なんて文面でこそ言ってはいたが、内心不安でしょうがなかった。

 そして、酒好きだった僕と彼女はこうして地元の隣駅まで来て、バスに乗り、商店街の隠れたバーを見つけて、毎年通うようになった。まぁ、彼女は友人ともよく来ていたようで、すっかり常連面していたが。


 別にただの友達で、幼馴染というには当てはまってはいないが、小学生来の付き合いで、こっちが勝手に想いまで寄せていた人がいなくなった現実を前にすると、耐え難いものがある。

 だが、ある意味運命なんだとも思った。


 つい二ヶ月前の話。ようやく自分に回ってきたプロジェクトの大詰め。

 そんな時に届いた一通の実家からの手紙。

 読む暇なんてなかった。

 どうせいつもの煩わしい生存確認の連絡か、年明けの年賀状兼結婚の急かしか。

 この時代に手紙なんて。電話でいいだろ。メッセージでいいだろ。

 そしたら、移動時間なんかでスマホを覗いて見れるから。何度も母親には伝えていた。

 その度に母親は「大事なことは手紙で」って言って聞きはしない。

 うんざりしていたから、捨ててしまった。

 そのツケがこれだ。そう思わざるを得なかった。


 酒に溺れる夜には、“たられば”が花を咲かす。脳内は後悔の一色に染まり、濡れた袖がやけに冷たくなっている。

 レコードは気付けば終わっていて、時々聞こえる機械の稼働音が意識を叩き起こす。その度、溢れる涙と声にならない声を飲み込むように、水の入ったグラスを飲み干した。

 やがて、店の閉まる時間が近づいたことを知らせるアラームが鳴り響き、赤く腫れた瞼を開いて、目を覚ます。


「あの……すみません。最後に、アレもらっていいですか? あの、いちごのシャーベットのやつ」


 洗い終えたグラスを拭いて、棚に戻していたマスターはこちらを見て、「ご無理はなさらないでくださいね」と言いながら、いくつかの瓶を手元に置き、カクテルを作り始める。

 僕はどんなお酒でも好き嫌いなく飲めたが、彼女は甘いお酒しか飲めなかった。それに付き合うように飲んでいくうち、自分も甘いお酒が好きになり、やがてカクテルが好きになっていた。


「お待たせしました。ブラッドハウンドです」


 渡されたカクテルとは別に、もう一つ同じカクテルが開いた隣の席に置かれた。

 影を(しの)ぶかのように、いつの間にかコースターが置かれており、水まで用意されている。「こちらは私からのサービスです」とだけ。

 心の奥を締め付けるような優しさに、少しばかりの安らぎを求め、自分の前にあるグラスを手にする。一息に飲もうと口に運んだ時、止んでいたジャズの音色が聞こえ始めた。


「……これは、不思議なこともあるものですね」


 少し驚いた表情を見せたマスターの視線の先には、誰も触っていないはずのレコードプレーヤーがあり、誰も変えていないはずの別のレコードが回っていた。


  “Fly Me To The Moon”


 有名な洋楽のジャズアレンジだ。

 いつもこの曲が流れると、泥酔したナツは小さな声で歌い始めていた。

 もちろん、酒屋で歌うなんてキャバレーでもないのだから、あまりいいことではなく、ましてやバー、それもレコードプレーヤーが流れるバーで歌うなど褒められたものではない。

 だが、不思議と彼女の小さな歌声には、なんとも言えない魅力があった。一般人なのだから言うほど上手ではない。だが、特別なものに聞こえていたそうで、マスターも居合わせた客からも注意を受けたことはなかった。


「          」


 脳内で再生された歌声はとても鮮明だった。少し酒が入ってずれながらも陽気に歌っているよう。組んだ足先でリズムを取って、時々グラスを傾け、また歌う。そんな声が。

 そう、まるで今も隣で歌っているかのように。


 聞き惚れそうになっていると、視界に入ったマスターの顔が固まっていた。


 そして、僕も気づく。


 確かに、彼女の歌声が聞こえる。


 何度も聞いて覚えているからではない。確実に、歌声が聞こえているのだ。


 だが、隣を見てもランプは虚空を照らして、影を映さない。


 いないはずの歌声に驚きを隠せず、グラスを傾けようとする手が止まった。しかし、どこか安らいだ気持ちで満たされていく感覚の方が大きい。


 目を瞑り、流れてくる音色に身を委ねる。


 今は思い出に浸るのではなく、ただ曲を楽しむことにした。


 軽やかに主旋律を描くピアノ、主張を抑えながらリズムを正確に刻むドラム、重厚感と立体感を持たせるアコースティックバス。

 シンプルに描くメロディーの世界に、小さく楽しげな歌声。

 揃わない一体感は言葉にし難い安らぎと特別感を聞くものに与える。


「……お客様、そろそろ」


 けれど、最後の歌詞はあっという間に過ぎ去ってしまった。

 余韻の残っている間に、現実の今へと意識を戻してく。


 マスターは分かっていたのだ。

 この一曲は五分程度で終わる。しかも、このレコードでは最後の曲。

 その声は、運命を知る者だけが持つ、重く冷たい響きがあった。


 やがて、最後の小節へと向かう中、彼女がいるかのように何もない隣を見て、グラスを手にする。

 これまでの記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。

 お別れにはまだ早い。

 明日、きちんとお別れを告げに行こう。

 いつもの道で、いつもの花を持って。

 朧げな春景の記憶が蘇る中、グラスを満たした唐紅に小さないちごが添えられたカクテルを月の沈む方へ向け、軽く掲げると一息に呷る。

 せめてもの餞に。

 今宵最後の一杯を。


 飲み終わる頃には、レコードの針は上がっていた。


 酔いに任せ、朝の世界へと向けた僕を見て、マスターは一言呟いた。


「たちぎれ、ですね」

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