9.セリヌンティウスかよ
翌日の朝。ライムで光流から断りの連絡が来た。熱は37度5分まで下がり咳も収まったそうだが、海水浴はやめておくと。
まあ、そうだろうよ、元々本人は乗り気じゃなかったしな。これで希夢ちゃんの貴重なプライベート水着姿もなしだ……はあ。
俺は重い足取りで、荷物をきっちり積み込んだ二輪カートを引いて家を出る。目指すは徒歩三十分の砂浜だ。
午後から来るはずだった野郎共にはライムをした。同居の春月が病気で寝込んでいる為、秋星は来れなくなったと。
何人かからは怒りの返信があった。お前が水着姿の秋星を見れると言うから、せっかくの休校日に他の予定をキャンセルしたのにと。返信して来ない奴も居た。既読すらつかない奴も。
結構遠くから、電車で来るつもりの奴も居るんだよな……そいつが浜辺に来てしまった時に、誰も居なかったってんじゃ気の毒過ぎる。だから俺は一人ででも浜辺に行き、来てしまった奴をせめて焼きそばで接待する事にしたのだ。
空は快晴、波はなし。そういう天気が続いているので海の透明度も高く、今日は絶好の海水浴日和だった。畜生め。
砂浜に着いた俺はその一角に設営を始める。
ビーチパラソル。折り畳み式の四人掛けピクニックテーブル。
二重シートがついた小型テント。真水を汲む用のソフトバケツと携帯式シャワー。折り畳みビーチベッド。
バーベキューコンロ。飲み物用の普通のクーラーボックスと、ブロックアイスを入れた氷点下クーラー。かき氷機とシロップもある。
そしてリゾート気分を盛り上げるレトロなFMラジオ……これはもう、小さな海の家と言っても過言ではない。
だけど、そこに居るのは……俺一人……孤独……圧倒的孤独ッ……!
はあ。やっぱ、誰も来ないんじゃねえかな? みんな怒ってるんだ、光流の友達だからっていい気になってる俺が、希夢ちゃんを餌に遊びに誘っておいて、その学園一の美少女が来ないとか言い出したって事に。
俺はうそつきの羊飼いだ。狼が来たぞー、狼が来たぞーって言ってみんなを騙した羊飼いなのだ。
浜辺には平日にも関わらずそこそこの人出があった。東京からも名古屋からも遠い地方都市の海岸にしちゃ上出来だよ。ハハハ。
ん?
俺は最初、それを錯覚だと思った。
海風にポニーテールを揺らし、一人でこちらに向かって来る、膝丈のジーンズにボートネックのゆったりしたシャツを着た、背の高い女の子……
俺はそれを千市先輩に似てると思った。だけど千市先輩は学業や部活の傍ら学校公認でファッション誌のモデルもやっていて、休みの日はいつも東京に居るという噂なのだ。あの忙しい先輩がここに居る訳がないし、あれは先輩ではない……
しかし。いつも通り機嫌の悪そうな、本物の千市先輩は真っ直ぐに、俺の哀れな海の家まで歩いて来た。
俺は慌ててヤケクソで寝そべっていたビーチベッドから立ち上がる。
「せッ……先輩」
「やっと休みの水曜日だってのに、海へ泳ぎに行ったってのは本当だったんだな。アンタやっぱり、レギュラー狙ってんだろ?」
千市先輩は俺の目と鼻の先まで来て、俺の額を指で押しながらそう言って、歯を剥むいて笑う。
「あ、あの……違います、俺はただ夏のビーチを楽しもうと思って」
「ほーん、これ全部アンタが準備したのか? 自分一人の為に?」
「いいえ……友達が来るはずだったんですけど、来れなくなったんで……」
「へえ……」
次の瞬間、先輩の笑顔は不機嫌な猛獣のそれへと変わった。
「じゃ、代わりにアタシがここを使わせて貰ってもいいよな?」
この砂浜にはちゃんと公設の更衣室がある。だけど先輩は俺が建てたテントに入って行った。俺は警備員のようにテントに背を向けて立ち尽くす。
数分後、テントから誰かが這い出て来る音がしたので、俺は振り返る……先輩は青いビキニスタイルの水着を身に着けていたのだ。え……ええええ!?
しかし、驚いたのはそこまでだった。
「ヨシ。じゃあ行くぞ夏平」
「ヨシって……先輩まさかその水着で泳ぐんですか……?」
「泳ぐのはアンタだろ? 言っとくけど、今日は一切手加減しないからな」
千市先輩はアメコミの女ヒーローのような、絵に描いたような健康的なモデル体型をしている。その事は水泳部員のはしくれである俺は前から知っていたのだが。
「ピッチ下がってんぞ上げろ上げろ上げろ」
そんな事は関係なかった。俺は沖の遊泳禁止ラインの手前をひたすら往復させられていた。俺の腰にはロープが掛けられていて、そのロープは一人乗りのフロートに繋がっている。先輩はそこに寝そべって俺に指示を飛ばしているので、俺はそのビキニ姿を見る事も出来ない。
「プッシュだプッシュ、最後まできちんと押し込め!」
真夏の午前の日差しの中、俺は泳いで泳いで泳ぎまくった。
「希夢ちゃんが来ないってどういう事だよ」
「こっちだってお菓子とか買ってたんだからな」
「直前になって何だよ全く」
「お前、本当に秋星の約束取り付けてたの?」
クッタクタになってテントに戻った俺を待っていたのは、おかんむりの様子の野郎共だった。
「ごめん、みんな、本当に光流が風邪引いて来れなくなったんだよ、秋星もそれで家を空ける訳には行かなくなって」
こいつらの怒りはもっともだ……ガックリと肩を落としそうお詫びしようとした瞬間、俺は先輩に後ろから突き飛ばされ焼けた砂浜に豪快にダイブした。熱ィイイ!?
「残念だったね、アタシしか居なくて」
「はぅあああ!?」「千市先輩!!」
「千鶴様ぁあ!」「そんなまさか!?」
振り向いた俺の目に、真夏の太陽を背景にビシッとモデル立ちを決める先輩のビキニ姿が焼きついた。
「何か文句ある? ナツ、ハラ減ったから焼きそば作って」
先輩はそのまま一脚しかないビーチベッドに寝そべる
「とんでもありません!」「今パラソルを直します!」
野郎共は二人がかりで早速ビーチパラソルを一度引き抜き、角度の変わった紫外線からビーチベッドの先輩の肌を守るべく、向きを調整して差し直す。
その間に別の野郎がこれも二人がかりで俺を助け起こす……ボロ泣きしながら。
「あの、夏平くん、さっきはひどい事を言って本当にごめん」
「俺の頬を殴れ元気、俺はお前を疑った、このままではお前と抱擁する資格がない」
「いいから! 離せ気色悪い!」