6.先輩は怖い
さあ、カビ臭い時間は終わりだ、今年の俺にはバラ色の夏休みが待っている! 夏期講習と部活が終わったらもう午後6時だけど気にしない! 早く帰って来週の準備をしなきゃ……しかし。
「なあ、この脱水機臭くね?」
「仕方ねえだろこんなの……うっわ、でもこれはキツい」
一度廊下に飛び出した俺の耳に、先輩たちが脱水機の前で何か言ってるのが聞こえた。
「あー、脱水槽のバスケットっスかね、洗っときます」
更衣室に戻った俺は先輩の間に割り込み、ステンレス製のバスケットを取り外す……気が付いた時には外して洗ってるんだけどなあ。もうちょっとこまめに洗った方がいいのか。
「いいよナツ、お前も帰るんだろ」
「パパッとやっちゃいますから」
俺は部室の裏の流し台で、取り外した脱水槽を洗う。辺りはまだ明るいしどうって事はない。これも清く正しい主人公の悪友になる為の修行ってやつだ。
ククク……なんたって俺は、それで学園一の美少女と(主人公のおまけとして)一緒に海に行く約束さえ取りつけた男だからな!
ハイになった俺はいつの間にか口笛を吹いていた。ああでも、夜に口笛を吹くとヘビが出るって、昔爺ちゃんが言ってたっけ。
「何してんのアンタ」
斜め後ろから声を掛けられた俺は、無警戒に振り返る。
そこに居たのはヘビではなく、水泳部の五年生、千市千鶴先輩だった。うわあ。いつにも増して機嫌が悪そうな顔をしている。
学園で秋星希夢と一、二を争う美少女は、実は水泳部に居る。
それがこのマーベルヒロインのようなスーパーボディとちょっと冷たく見えるくらいのシャープな美貌を持つ千市先輩だ。正直、先輩目当てで水泳部を選んだ男も少なくない。
しかしそういう男はすぐに、あきらめて水泳部を離れるか、先輩の不興を買わないよう大人しく泳ぎ続けるかを選ぶ事になる。
「いえ、あの、脱水機が臭くなってたんで……」
「アンタまた顎で使われてんの? 誰だよ、アタシが一言言ってやる」
「待って、待って下さい、俺が勝手にやってるんス!」
そう、千市先輩は怖いのだ、そして全中水泳の100メートルバタフライで2位になった事もある、青友の看板選手の一人である。
それとまあ、先輩に限らず同じ部活の女子は恋愛対象にはならんわ。お互いに死にもの狂いで泳いだ後の動物のような顔を見てるし、向こうも絶対そう思ってる……それに女子部員から見た俺らエンジョイ組のヒラ部員なんて、水に浮かんだイモでしかないだろう。
練習も違うコースでやってるし顧問も別なので、意外と接点もない。とにかく、慌てて部室に続く道を通せんぼした俺を見て、先輩は露骨に眉を顰める。
「そうやって雑用ばっかやらされて、何でもないフリをして、アンタにとって水泳ってのは何なんだ? 貸してみろ、このバスケットが臭いって?」
「その……もうほとんど洗い終わったんで……」
「そういう事じゃないだろ。臭いのは自分の血と汗が染みついてるからだ」
ヒエッ!? 先輩はいきなり俺の腕を掴む、その握力は結構強くて普通に痛い、俺より少し背の高い、先輩の顔が迫る……
「自分の臭いが気になるなら、自分で消せって言ってやれよ」
「あ、あの……そんなんじゃないんで、俺はただ、みんなに気分よく練習をしてもらえたらと……」
俺は思わずそう口ごたえしてしまう。すると先輩が、歯を剥いて笑う。ひいっ……まさかこのまま頭から食われたりはしないだろうか。
「それにしちゃアンタ、最近飛ばしてるよな? 本当は狙ってるんだろ? インターハイ」
「そんな事……ないっス」
いや、本当にない、本当にないけどそれを力説したらそれはそれで逆鱗に触れる気がする、先輩はとにかく真面目で気合いが入っているのだ。
「そうかなあ? アンタ、いい感じに血と汗とカビの匂いがするんだけど?」
俺は慌てて後ずさりする。そんな……俺、臭いのか? 主人公の悪友として、ヒロインに嫌われない程度の清潔感は保とうと頑張って来たのに……
幸い先輩は俺の腕から手を離してくれた。俺は自分のシャツの臭いを嗅いでみるが、自分の臭いって余程じゃないと解らないんだよな。
「邪魔して悪かったな」
興味をなくしたように素っ気なくそう言って、先輩は踵を返して去って行く。怖ぇえ。いくら美少女でもあの人は苦手だわ。
……
だけど間近で見た千市先輩、めちゃくちゃ綺麗だったな……あのツンツンした先輩に、あそこまで顔を近づけられた男なんて居るのだろうか。
良く考えたら、今すごくいい事があったのかな、俺。
やべえ。今日は早く帰ってビーチパラソルやクーラーボックスを洗おうと思ってたんだ。準備はなるべく早く、周到に行うに限る。
先日冬波が来た事件の後、俺は外をめちゃくちゃ走り回って気持ちを落ち着けてから家に帰った。その後で母さんに何故そんな事をしたのか聞かれた俺は、咄嗟にデタラメな言い訳をしてしまった。水泳をもっと頑張りたいので、これからは毎日のロードワークを増やすと。
まあ、すぐやめるのはかっこわるいので、一週間くらいは続けようと思う。
ロードワーク、食事……悪友活動はその後だ。ビーチパラソルやクーラーボックスなどの点検清掃をする。
危ない危ない、このクーラーボックス魚臭いよ、親父が魚釣りに持ってくからなあ。女の子は臭いに敏感だろ? ペットボトルが魚臭かったら興醒めしてしまうに違いない。しっかり、洗わないと。
……
はあ。俺自身も臭いのか……冷静になってよく考えると、千市先輩に言われた事はやっぱりショックだ。気をつけてるつもりだったんだけどなあ。
確かに風呂は二日に一度だったよ。だけどシャワーは毎日浴びてんのよ? そういう部活だもん。それでも、カビ臭かったのか。
だけどだけど。水泳部なのは先輩も一緒じゃん。なんだよ俺ばっかり。先輩だって毎日めちゃくちゃ泳いでるんだ、雨が続いた後には生乾きのウエアだって我慢して着る事もあるんじゃねーの?
だから、匂いを嗅いだら、先輩だって……
先輩の……匂いを嗅いだら……
「うおおおおおおお!」
ロードワークが足りないみたいだ。
洗い終わったクーラーボックスを風通しの良い場所に伏せ、湧き上がったいけない雑念を振り払うべく、俺は再び夜道に飛び出す。