42.8月の狂気の歌を忘れない
耳鳴りが止まない。水から上がる時にはよくある事だけど……いや。今日のは何か違う。
「夏平ァァ!」
誰かが叫ぶ、男の声だ、だけど誰の声だか解らない、浜辺に押し寄せる波濤のような、ぐわんぐわん響く歓声に圧し潰されて……苦しい、顔が上げられない、死ぬ……いや死なない……!
『一位、夏平選手、青友学園。二位、天草選手、富嶽実業高校……』
歓声を貫いて放送部員が冷静に結果を読み上げる声がスピーカーから響き、天井に、壁に、反響する……腕が震える、涙が溢れる……!
ウソだろ?
俺、本当に勝ったのか? 平泳ぎのインターハイ王者に、個人メドレーで勝ったのか? 俺は、恐る恐る、天草の方をちらりとだけ見た。
「お、おいはほんとはメドレーにがてやけん! インターハイはひらおよぎしかでとらんけん! インターハイんあとまいにちおよぎよって、やすんどらんけん!」
既にゴーグルを取った天草は、目を丸くして真っすぐに俺の方を見ていた。何だよ、気を使ってチラ見にしたのに。ははは……何だか、面白い奴だな。
「そーだなあ。俺はここを目標に作ってたし、メドレーが一番得意だからな」
「ぬしもおいもいちねんせいや、しょうぶはまだこれからばい、うんにゃ、ことしんなつだってまだおわっとらんけんな!」
ようやく息が整って来た……俺は天草に続いてプールサイドに上がる。あ……ゴーグルまだ取ってなかった。
「夏平ーッ!」「ナツー! よくやったー!」「夏平くーん!!」
コーグルを外した瞬間、再び会場が沸いた……何これ……え……みんなが俺の名前を呼んでる!?
川崎に大船、藤沢と辻堂、あっちは早川に根府川……普段から割と仲のいい奴も居る。それから島田に清水に藤枝……あまり付き合いのなかった女の子達も……みんな見に来てくれてたのか。俺の為に?
「夏平、サイコー!」「やるじゃんお前!」「夏平ー!」
知らない奴も、先輩も後輩も……みんなが俺を見ている。
インターハイに行けなかった俺が、急成長して好記録を出したのだ。みんな、その奇跡を喜んでくれているのだ。
「完璧だったぞ、ナツ。今のお前に出来る最高の泳ぎだった、だがこれは今日のお前の限界に過ぎない、努力を怠らないお前の限界は日々アップデートされている、俺はお前の指導者になれて良かった!」
鬼の顧問も笑っている、満面の笑みだ……畜生。俺こんな凄い人に水泳習ってたのか。俺みたいな平凡な選手をここまで伸ばすなんて、なんて凄い指導者なんだ。
俺は思わず、涙をぬぐってしまった。ちぇっ、こんな時でも冴えねえなあ俺。
「ありがとうございます、顧問」
俺は精一杯の笑みを浮かべて、顧問に手を伸ばす。顧問は俺の手をがっちりと握ってくれた。
―― ワァァアアアア……!
再び歓声が高まった……スタンドのみんなが、笑顔で俺を見ている……他校の応援席からも拍手が送られて来る……富嶽の応援団さえも、苦笑いをしながら拍手してくれている。
すげえ……すけえよ。
俺、なんだか主人公になったみたいな気分だ。
これが、主人公だけが見られる景色なのかな。
俺はスタンドに向かって、笑って手を振る……
「夏平さぁぁぁぁん!!」
その時。鈴の音のような声を上げながら、小さな人影が駆け寄って来るのを、俺は視界の隅で見つけて振り向く……え……和花ちゃん?
振り向いた俺に、小さな和花ちゃんは思い切り飛びついて来た。下から抱き着いて来た和花ちゃんを見下ろそうとした、次の瞬間、
―― むにっ……
え……ええええ!? 和花ちゃんの唇は完全に俺の唇と重なっていた! スタンドから、歓声とは違う驚愕のどよめきが起こる!
「……やったー!」
和花ちゃんは俺から離れ、バンザイをして笑顔で叫ぶ。
「出来ました! 『キス出来ましたよ夏平さぁん!』
和花ちゃんの声が、途中からスピーカーを通して会場じゅうに響き渡るようになる……って、和花ちゃんが居るのは放送ブースのマイクの真ん前なのだ!
『今なら凄く素敵な顔をしてるから、出来ると思ったんです! これで私達間違いなくカップルになりました!』
「だめ! だめ! マイク、マイク拾ってる!」
俺は冬波を止めようとしたが、体が金縛りに遭って動かなかった。
冬波は、満面に120%の笑みを浮かべて叫んだ。
『夏平さぁん! 今度こそ乳首を吸わせて下さぁぁぁーい!!』
会場が、ピタリと静まり返った。
それから。
―― ざわ……ざわ……
方々で、嫌な感じのどよめきが起こり始めた。
冬波はただ、笑顔で俺の返事を待っていた。
俺はヘビに睨まれたカエルのように、脂汗を流して硬直していた。
「ちょっと待ったぁぁああ!!」
次の瞬間。今度はスタンド最前列のカメラ席の方から、誰かが全力で走って来た。マスクとサングラスとキャスケットを投げ捨て、長いツインテールの髪を振り乱しながら……あれは希夢ちゃんだ、希夢ちゃんが窮地に陥った俺と冬波を助けてくれるのか?
しかし希夢ちゃんは何故だか号泣していた。印象的な大きな瞳からぼろっぼろ涙をこぼし、口をへの字に曲げていた。
「何なのこれ!? どういう事!?」
「だめ、マイクから離れて……」
金縛りで動けない俺は、辛うじてそう言った。希夢ちゃんは……しかし秋星は放送席からマイクをもぎ取り、口元に構えた!?
『光流というものがありながらどうして!? あたしは頑張る元気くんの勇姿を、晴れ舞台を見に来たのよ、なのに、何故女なの!?』
秋星の言っている事はメチャクチャなのだが、事情を知らない人は秋星の名前がヒカルなのだと思うかもしれない。俺は他人事のようにそう考えていた。
『百歩譲って女は仕方ないとして、どうしてこんなちんちくりんでチャラチャラしたお人形さんみたいな女なの!? 有り得ない、そんなロリコン丸出しの元気くんなんて絶対に有り得ない、お願い、ウソだと言って元気くん!』
「ま……待って下さいよ!!」
冬波は秋星に掴みかかり、そのマイクをもぎ取る。
『貴女が裏で何の先生をやってらっしゃるのかは御存知ですよ、だけどそんな事夏平さんには何の関係もないでしょう!? 夏平さんは、ごく普通の、女の子の身体が大好きな健康でスケベな男の子です、貴女に責められる筋合いは一つもありませーん!』
秋星は冬波からマイクを奪い返す。
『あんたがいつから元気くん推してたのかしらないけど、あたしは小学生の頃から元気くん一筋なんだから! 元気くん! せ、性欲を抑えられないならあたしが元気くんの仮の彼女になるから、だからお願い、元気くんはそのままの、光流が大好きな元気くんで居て!』
『貴女頭おかしいですよ! 夏平さんだってそんな事言われても困ります、だいたい私もう夏平さんから告白されてるんです、堂々と横取りしようとしないで下さい!』
『あたしの方が、あたしの方がずっと昔から元気くんの事知ってたもん!』
秋星と冬波はマイクを挟んでもみ合いながらそう叫ぶ……その会話は全てスピーカーを通じ場内に聞こえていた。
『私と夏平さんはもうキスをしたんです、私が! 夏平さんに! 初めてキスをした女なんです! 貴女の出番はもうありません、部屋に帰ってマンガでも描いてて下さいよ!』
冬波がマイク片手にそう叫び、秋星を突き飛ばしたその瞬間。マイクは冬波の後ろから歩み寄って来た人物……千市先輩の手に取り上げられていた。
『ごめん、ちょっといいかな? ナツにキスした順番の話なら、アタシの方が先だと思うんだけどー?』
秋星と冬波は二秒くらい沈黙した後で、
「ええええー!?」「うえええー!?」
同時に叫んだ。マイクを手にした千市先輩は続ける……
『アタシ昨日ナツんちの台所を借りてパスタ作って、ナツと二人で食べて、それからナツの寝室の掃除をして……そんで、帰る時に玄関先でナツとキスした』
いつも機嫌の悪そうな千市先輩は、飛び切り機嫌の良さそうな顔で、マイク片手にそう言った。
『秋星もアタシならいいよな? わりィな冬波、人に取られるってなるとやっぱ惜しくなるわ、アタシこいつの匂い大好きなんだ』
「そんなぁぁー!?」
絶叫する冬波、先輩に小脇に抱えられる俺……それをもぎ取る秋星!?
「待て待」
次の瞬間俺は秋星にぎゅうぎゅうに頭を抱えられ唇を塞がれていた!? ムードもへったくれもない、何だこれ、何、ええええ!? 待て、長い! 長い!!
『誰が先とか関係ないもん最後にキスしたのあたしだからこれはあたしの』
『そんなのありかよ!?』
唇を離し先輩の腕から俺をもぎ取ろうとする秋星、奪われまいとする先輩、そしてマイクヘッドに飛びつく冬波、
『もう滅茶苦茶ですよー! 私だって頑張る夏平さんをこっそり覗いてたんだもん夏平さんに告白されたのだって絶対私の方が先だもん』
『アタシはナツが入部して来た時から見てたんだすげえ根性ある奴が入って来たって、アタシの方が長時間見てた!』
『あたしが何回元気くんの裸体描いてると思ってるの、もう元気くんの体はほぼあたしのものなの男ならいいけど女には獲られたくないのー!!』
わかった。これは夢だ。最高に能天気な悪夢だ。
俺は今、夢を見ているんだ。
目が覚めたら夏休みはまだ始まったばかりで、俺は早起きして涼しいうちに宿題をして、光流にウザ絡みしながら夏期講習に行って、昼休みに弁当食べて、午後は部活でエンジョイ組の仲間達とゆらゆら泳いで、放課後には非モテ仲間と連れだって、夕飯前の牛丼を食いに駅前の梅屋に行くんだ……
誰かが、後ろから俺の肩に手を置いた。俺は現実に引き戻された。
背後から、経験した事のない凄まじい殺気が漂って来る。俺は脂汗を流しながら振り向く。
「夏平ァ……!」
憤怒に顔を赤く染めた早川。顔じゅうの血管を浮き上がらせた根府川。拳を固め歯ぎしりをする川崎、顔を歪め血走った目を見開く大船……
「ま、待て、あの」
「夏平てめェ三股を掛けていたのか!?」「その三人に!」
「サル顔の分際で……」「その三人に三股だとォォオ!?」
四人だけではない。菊川に金谷、バレー部戸塚、リレーで共に戦った熱田先輩、岡崎先輩、蒲郡、エンジョイ組の仲間、選抜選手、クラスメート、先輩、後輩、全ての男子生徒という男子生徒が、俺に、怒りの目を向けている……!
「なにがもてんおとこと、そぎゃんすごかべっぴんば3にんもひとりじめしよって、ぬしゃおいにすらごついうたんか! ひとときでん、ひとときでんぬしばしんじたおいがバカやった……! なつだいらァァア!! おいはじんせいばかけてぬしばたおす!!」
天草も、俺に人差し指を突き付け茫々と涙を流し全身から湯気を発してそう叫ぶ。背後の富嶽実業応援団も、地獄の獄卒のような顔色で俺を睨み、牙を剥いている。
「信じられない」
「夏平君がそんな人だとは思わなかった」
「三股とかサイテー」
ああ……女子生徒もドン引きしている……
「お前のような奴が……てめぇみてェな奴が居るから女にあぶれる男が出るんだ……」
サッカー部二宮が俺を指差す、待て、お前は彼女居るんだろ何でそんなに機嫌が悪いんだ、彼女と何かあったの?
「三股エロ猿野郎!! 貴様に今日を生きる資格は無ェエ!!」
二宮の絶叫を合図に、男共は怒涛のように殺到して来た! 選択肢はなかった。早川と根府川の手をすり抜けた俺は振り向いて駆け出し、人波の隙間を縫い、プールの外へ飛び出す!
「ぶちのめせェェエエエ!!」
公共の敵。ほんの少し前までみんなのヒーローだった俺は今、公共の敵にされてしまった。歓声と祝福は怒りと憎悪に代わり、巨大なうねりとなって、背後から迫り来る。
「誤解だァァア!!」
俺は裸足にパンイチで、夏の盛りよりはほんの少しだけ涼しくなった、8月31日の校庭に飛び出した。地面にはまだまだ強い太陽が、校舎の影をくっきりと焼き付けている……
「止まれ悪党がァ!」「てめえの血は何色だァァ!」「その首を寄越せェ!」
「千鶴様の仇ーッ!」「男の敵がぁあー!」「希夢ちゃんに何をしたァァ!」
殺気だつ男共の群れは、容赦なく背後に迫り来る、俺はメドレーを泳いだばかりで力が出ない、駄目だ、もう駄目だ……俺、本当にここで殺されるのか?
「元気ィ!」
え……校庭の向こうから、光流が……光流が自転車で駆けて来る、正門の方を指差して!
俺はとにかく正門の方へ走る! 光流は斜め後ろから俺に近づく!
「乗れ!」
「待ちやがれ人類の敵がァァ!」「このエロザル野郎ォォ!」
背後に追手が迫る! 俺は間一髪、光流が漕ぐ自転車の後ろに飛び乗った。
「しっかり掴まれ!」
言われるまでもなく、俺は光流の腰にぎゅっと抱き着く。
「うおりゃあああああああ!」
「待てェーッ春月」「なぜエロザル野郎の味方をする!?」「追え、追えー!」
光流が漕ぎまくる自転車は、追いすがる地獄の鬼共を少しずつ突き放しながら、青友学園の正門を飛び出し、長く緩やかな坂道を駆け降りて行く。
「光流ッ、光流ゥゥ、ありがとう、お前が助けに来てくれるとは思わなかった、お前、こうなると思って自転車を取りに行ってくれたのか」
「まあな」
何て勘のいい奴だ、普段は鈍感なくせに……!
「だけどいいのか、俺も何でこんな事になったのか解んねえけど、お前まで奴らに恨まれるんじゃないのか」
「仕方ねーじゃん」
光流はそう言って、ちらりと俺の方を見て笑った。
「俺はお前の、一番の悪友だからな」
† end †
お読みいただき誠にありがとうございます! 夏平元気が夏を終わりに大きな報いを受けた所で、この物語は〆とさせていただきます!
お楽しみいただけた方は是非是非、是非とも、評価の方を、出来れば、五つ星で、★★★★★でいただけますよう、何卒、何卒お願い申し上げます!
お楽しみいただけなかった方は申し訳ありません……次は良い物語と出会える事をお祈り致します……
この物語は公募サイズで書いたものですから、規定の字数に収める為に消化しきれなかった伏線がいくつか残っております……序盤で冬波がメモを残した方法は? 千市と春月の接点は何だったのか? などなど……もしかしたら蛇足の番外編を書くかもしれませんので、興味のある方はブックマークを残しておいていただけると嬉しいです。
最後までお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました!
 




