4.煩悩退散
※この物語には結構多くのキャラクターが出て来ますが、苗字が東海道本線の駅名になってる子は、主人公同様のモブなので覚えなくていいですよ
『先日行われた全国模擬試験に於いて、えー、四年生の冬波和花さんが全国99位に入りました。大変立派な成績です、えー、おめでとうございます』
何日か前の放送朝礼で校長が言ってたな……全国で99位って、それはもちろんもの凄い事なんだけど。
「ぎりぎりだね」「でもすごいじゃん」
「冬波さんって前回は72位じゃなかった?」
周りからはそんなひそひそ話も聞こえて来たな。世間は無情だ。冬波だって本当は、順位が下がった時はそっとしておいて欲しいだろうに。
「復習、復習……来る日も来る日も、自分の理解が不十分だった問題を見つけ出しては実行手順を繰り返す、朝は意識と共に生まれ落ちた瞬間から始まる復習、夜は意識が途絶え闇に墜ちる瞬間まで続く復習、解りますか夏平さん、復習に塗れ復習の為に生きる私が、日々どれ程のストレスに苛まれているか……!」
ベッドの上で俯き、わなわなと震える冬波。
そうだなあ。特待生が大変なのは知らない訳でもない。
今年の春卒業した熱海先輩は水泳で青友学園に来た特待生で、傍から見ていてもその生き様は壮絶だったように思う。あの人、早朝から始業まで泳いで、放課後は閉門まで泳いで、下校後はジムに通ってたっけ。授業中は六年間ずっと眠っていたという伝説もある。
インターハイ制覇は出来なかったが無事強豪スポーツクラブにアスリート枠で就職した熱海先輩、今頃どうしているんだろう。割り算は克服出来たのだろうか。
『こうこうの3ねんかんなんてあっというまだぞ。おまえらも、やりたいことがあればなんでもやっておけよ』
卒業式の後で部室を訪れた熱海先輩は、新たに四年生となる俺達の前でそう言って笑った……先輩が笑うのを見たのはあれが最初で最後だった。
俺はあの時、自分は絶対に光流の第一の悪友ポジションの男になって、ごく普通の幸せを掴むと誓ったんだ。
気が付くと冬波はベッドから降りて俺の目の前に正座し、身を乗り出して下から見上げていた。や、やばい近過ぎる、そして知ってたけどめちゃくちゃ可愛い。
遠くから見る冬波は眼鏡のせいで目が実物より小さく見えるのだが、近くで見る冬波の目は大きくてキラキラして、まるで子猫みたいだ……髪の毛も細くて繊細でなんだかいい匂いがする。この髪を撫でてみたい……
冬波の小さな、ぷるんとした唇が、切なげに開く……
「お願いします。乳首を吸わせて下さい」
俺は小学生のように小柄な冬波とその学生鞄を両脇に抱え、階段を駆け下りる。
「待って夏平さん、もう一度最初から話を聞いて下さい」
無言で廊下を駆け抜け裸足のまま外に出た俺は一旦玄関に戻って冬波の靴を拾い上げ、再び道路に飛び出し、地面に靴を置き、靴の上に冬波を立たせ、最後に学生鞄を押し付ける。
「ここにはもう来ないで下さい、今日起きた事や聞いた事は絶対誰にも言いません」
「夏平さん!」
俺は冬波の手を振り払い、玄関に飛び込んで扉を閉め鍵を掛けた。
母さんは台所から顔を出して、そんな俺の様子を覗いていた。
「あの子帰っちゃったの? 晩御飯食べて行ってもらいたかったのに」
「あのさ母さん、あの子は友達じゃないから」
「えっ……やだ、友達じゃないって、あらあらどうしましょ、やるじゃないの元気ィ、あんな可愛い子捕まえたの?」
「そういう意味じゃないから! もしまた来ても家に上げないで、インターホンで断って!」
「どうして? 喧嘩でもしたの?」
それ以上説明したくなかった俺は階段を駆け上がり自分の部屋に飛び込む。
あーあ。しばらくは飯ん時とかに根掘り葉掘り聞かれるかもな……夕飯は俺の心のオアシスだというのに、何て事だ。
家の中でも俺にはやる事が山ほどある。夏の計画の準備は怠れないし、勉強だってしなくてはならない。学力でも学年上位グループに居る光流はいずれ東京の一流大学に進学するだろうし、俺も出来ればついて行きたい。
俺は自分の学生鞄を拾い上げて机に向かう……ん? 机の上に、見覚えのない便箋が一枚伏せてある。
『今日の所は退散しますが、私は諦めません』
うわああああああ!? 便箋の中央にはまるでとっても頭のいい女の子が書いたような、美しくもどこか可愛らしい字で一行の文言が書かれていた!
便箋を手に俺は慌てて周囲を見回す、何故!? どうしてこんな物がここに!? 便箋に署名はないが、これは冬波の字に違いない、あいつ今俺が抱えて放り出したはずだぞ、窓の鍵だって閉まってる、一体どうやって!?
だめだ。ただでさえ希薄な俺の勉強意欲が、どこかに飛んで行く……俺は一度気持ちを落ち着けようと、ベッドに寝転ぶ。
……
びっくりしたなあ……昼間も十分驚いたけど、まさか冬波が家にまで来るなんて。俺は勝手に学園ナンバー3の美少女なんて思ってたけど、俺の部屋の真ん中に居た冬波は俺史上空前絶後、最強にして最高の美少女に見えた。
本当にあんな子が、さっきまで俺の部屋に居たのか? 俺は幻覚を見ていたんじゃないのか? 今はもう、居ないし……
もしかして俺、ものすごく勿体ない事をしたのか。別に乳首ぐらい吸わせてあげても良かったんじゃないのか。あの子が何故そんな事をしたいのか1ミリも理解出来ないけど。
それに、そういう事って普通、ギブアンドテイクって言うか、フィフティフィフティの立場でするもんじゃないか?
だから、その、彼女が俺の乳首を吸うんだったら、さあ……
俺は傍らの、ついさっき俺に投げ飛ばされた冬波が座っていた、ベッドの上の空間を見つめる。
「どこ行くの元気、もうご飯出来るわよ」
「うわああああああ!」
異変に気づいて廊下を覗き込んだ母さんの声を振り切り、俺は家を飛び出す。何も考えられないけど何も考えたくない、
「うおおおおおおお!」
一心不乱に、俺は走る。
住宅街の裏通りを、広大な河川敷を、貨物線の廃線跡を。
俺は毎日泳いではいるがランニングはそこまで多くやってない、どちらも同じ有酸素運動ではあるし肺活量的にはどうという事はないのだが、足にかかる負荷が、水泳のそれとは方向性が違ってキツいから。
もういい、もうやめよう。しかし散々走り回った俺がそう考えた途端、ベッドの上に、冬波が横たわっている光景が脳裏に蘇る……
「うわああああああ!」
百段近くある神社の階段を俺は駆け上がり、駆け下り、駆け上がり、駆け下りる……疲労と空腹が俺の煩悩を調伏し、押し潰すまで。