39.400mリレー後編
男子400mメドレーリレーが始まった。
青友の先陣は五年生の岡崎先輩だ。背泳ぎが得意だがインターハイ参加記録にわずかに届かなかった。岡崎先輩は二位に三秒以上の差をつけてゴールした。富嶽は三位でのリレーとなった。
続いて平泳ぎ……天草はここに出て来て逆転し、二位以下に最低でも三秒以上、もしかすると十秒近い差をつけるのではないかと思われていたのだが、富嶽は別の選手を出して来た。平泳ぎで出た青友の四年生の蒲郡は岡崎先輩のリードを少し増やしてゴールした。
次はバタフライ。熱田先輩の得意競技だ、熱田先輩は中学では全国大会に出ていたのだが、その後伸び悩んでインターハイには出られなかった。あんなに上手いのになあ……世界には低身長の名選手も居るには居る。だけど結局の所、背は高いに越した事はない。
熱田先輩は二位のチームからさらにリードを広げる。しかし。
「いいぞォー! 富嶽! 富嶽!」
「行け行け富嶽! 押せ押せ富嶽!」
富嶽の応援団はますます盛り上がる……富嶽のバタフライの選手が結構速いのだ。あいつ100mバタフライの予選最終組に居たよな、突っ掛かって来た奴とは別に……本命は実力を隠していたのかよ。
俺の番が来る。青友と富嶽は隣同士、スタート台に俺と天草が並ぶ。
皆さんよく見て下さい。この身長差っスよ? 身長以上に手足を見てよ、あいつ団扇よりでかい手してるし、足なんか自前のフィンが付いてますよ、サルと半魚人ではどっちが泳ぐの速いと思います? 種族的に。
「天草ァァ!」「やっちまえ天草!」「お前が一番だ天草ァァ!!」
スタンドから野太い声が飛ぶ。応援団以外にも結構な数の生徒が見に来てる。富嶽はみんな丸坊主だからすぐ解るな……
「夏平さぁぁん! 頑張って!」
そんなスタンドからまた、奇跡的に女の子の声が! やっぱり和花ちゃんだ、ああっ、大声なんか出したもんだから周りから顔を見られて、赤面して俯いてる。どうしてそんな、俺なんかの為に……
「来たぞ夏平!」
岡崎先輩が叫ぶ、って熱田先輩が戻って来ただろ集中しろ俺、ミスなんか絶対出来ない……今だ!
―― ドボォォン!
飛び込み直前に見た光景では、富嶽が三位を抜いて二位に上がっていた。青友との差は四秒か、五秒か。
クロールは俺が一番最初に覚えた泳法だ。俺に最初にクロールを教えてくれたのは他でもない、光流だ。
―― 俺は水に浮かない体質なんだよ、だから泳げねーんだよ
―― そんな人間居ねえよ、お前肺の中に空気入ってねーのかよ
光流は俺が水に浮かない理由も教えてくれた。必要以上に水上に顔を出そうとするからだと。
人体は水面から上に顔や体を出した分だけ、その反動で沈む。水に強い恐怖心を持っていた当時の俺は、首から上を全部水面上に出そうとしていたのだ。
今となっては光流が教えてくれた事はクロールの初歩の初歩だという事は解っている。だけど、光流が俺と水路を引き合わせてくれたのは絶対に間違いない。
俺はここが好きだ。辛い事もあるし、悔しくて泣いちまう事もあるけれど、この霞のかかったシアン色の景色が好きだ。
楽しいなあ……俺はほぼ毎日ここに居るんだけど。今日ほどここに居る事を楽しいと思えた事はあっただろうか。
腕を伸ばし、遠く、遠くから……水を掴んで、手繰り寄せて押し出して。また手を伸ばして……そして体が、空を飛ぶように遠くへ飛んで行く……ああ、もう壁が近づいて来た。もう半分か……半分……
その瞬間、俺は見た、クロールでは前方はあまり見えないが左右後方は見えてしまう、天草はもう俺の視界に入って来た、もう体二つ分も差はない!?
落ち着け俺、ターンで突き放せ、だけど水泳で身長差が一番出るのはターンだ、非常に簡単な理屈である、20cm高ければ20cm差が縮まる、ついでに普段短水路で練習してる奴はターンの回数が多くてよりターンに習熟している!
畜生ォォォオ!? 嫌だ天草は見たくない、俺は視界情報をシャットアウトして泳ぐ、ぐああああああ! 水が重く手足に絡みつく、畜生やっぱり水は敵だ、変わり映えもしない無機質な水底、天井から注ぐ陰気な光、ゴボゴボと耳障りな音響、何故俺はこんな所に居るんだ!
くそォォォォオ! 音が、音が迫る、気泡が、キャビテーションが、天草が来たぞ天草が来たぞと絶えず俺の耳に囁きつづける、やめろォォそんな事知りたくねえ黙れェ水の精、ああっ! 奴が来るゥゥ!
嘲笑う世界に逆らい俺は全身全霊を込めて水を掻く、全ての力と経験と知識、くだらねえプライド、恐怖心、羞恥と嫉妬、怒り、全てを動員して、俺の心の弱さを、体の弱さを、支配する、支配する、支配する!!
畜生嫌いだ水なんかふざけんな、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けた、
負けた?
―― ウォォォーッ!! ワァァアアアア!!
一瞬真っ白に輝いた世界が、再び姿を現わした。水の上の世界……
『一着、青友学園』
スピーカーを通し無機質に、勝敗だけを伝える放送部の生徒の声。
『二着、富嶽実業高校、三着、海王大付属道見高校……』
俺はいつの間にか、ゴールしていた。
「夏平! よく粘ったな!」「夏平!」
岡崎先輩と蒲郡に引きずり上げられた俺はスタート台の脇に蹲る。そんなに急に引き上げられても動けねえよ。
「……詰め寄られて……危なかったっス」
「いや、お前も凄かったって!」
チームの為にこの結果を得られたのは、勿論とても良かったと思う。天草は、青友の全てを否定する事は出来なかった。だけど……
「お前は強かった、天草」「すまん、俺達のせいで……」
俺と天草個人の戦いという意味では、俺は個人メドレー予選に引き続き負けたと考える。俺は仲間達が作ってくれたリードを吐き出しながらも、何とか一着でゴールしたに過ぎない。
天草の顔を見ないように気をつけながら、俺はスタート台を離れる。
控室で顧問のにやけ顔を見た俺は、俺が天草とぶつかったのは事故ではなかったと気づいた。顧問は天草が第四泳者で来ると予想し、わざと俺を当てたのだ。
「夏平。これが壁の向こうの景色だ」
顧問のストップウォッチに表示されていたのは自由形100mのインターハイ標準記録には及ばないが、そこを目指していると言っても決して笑われない、俺にしてみればえげつないタイムだった。
「これを、俺が?」
「お前の自由形は前半は詰めが甘く後半は固過ぎだった。まだまだ伸びるぞ? 壁を超えたお前は」




