34.生足の来訪者
夏休みの終盤があっという間に過ぎて行く。24時間テレビもいつ終わったのか解らない。
相変わらずタイムは少しも伸びていない……俺はもう水路を見るのさえ嫌になっていた。
「ナツ、明日から調整に入れ。練習は一日3kmまで、他のトレーニングも質、量とも減らせ、夜中のロードワークと筋トレも駄目だぞ? 頼むよ、俺も学校の外でまでお前を監視したくない」
そしてある時、顧問はついにそう言った。
それから数日。今日も午前の早いうちにプールから追い出された俺は、ふらふらと通学路を彷徨う。
暑い……真夏の昼間ってこんなに暑いんだな……俺、日中はほとんど冷房の効いた屋内プールに居たからな……鞄が重い……水着とタオルくらいしか入ってないのに。
俺はそのへんの児童公園に立ち寄り、カンカン照りのベンチにどっかりと腰を降ろす。熱い。暑いじゃなく熱い。プラスチックのベンチの板が焼けている。
「うあああ……」
俺は入道雲が浮かぶ空を見上げる。
青友水泳祭まであと何日だっけ……顧問に調整に入れって言われたのは何日前だ? あれから何日か経ってるよな、もう。
……やっぱり、無理だ。
俺はモブなんだよ、サル顔のモブなんだ、頑張って頑張って、やっと主人公の悪友役になれる程度の男だ。俺は主役になんかなれない。
光流の奴、今からでも俺と替わってくないかなあ。俺の代わりに青友水泳祭に出て、その復讐鬼とやらと戦ってくれないだろうか。
復讐……復習……
俺はふと冬波の顔を思い出す。花火大会の日から会ってないけど、あの子はどうしているのだろう。今も終わりのない復習に塗れているのだろうか。
何だかなあ。青友に復讐しようとしてる奴って、冬波と同じなのかもな。そいつにしてみれば、青友水泳部は鬼茜会の指定校ようなものなのかもしれない。恵まれた環境で練習している水泳のエリート集団と、無名校の限られた環境で努力する自分……その図式は同じだろう。
俺さあ。普通に負けたらいいんじゃないかな。
みんなだって許してくれるんじゃないの? 俺、頑張ったもん。頑張ってみせたもん。しょうがないじゃん、選抜組だって勝てなかった相手なんだし。
相手も相当酷い目に遭ってるし。誰に責任があるのか知らないけど、推薦を受け家族で引っ越して来たのに目標の学校に入れなかったなんて。何で真面目に採点したんだろうなあ、そんなテスト。
俺が負けたら、みんな丸く収まるんだ。俺が面目を失う? いいだろ、サル顔のモブに今さら失う面目なんかあるかよ。
今日は8月30日……青友水泳祭は明日だ。
はあ。帰ろう。帰って昼飯を作らないと、俺の食う昼飯がない。
うちの両親は8月31日が結婚記念日で毎年この時期には旅行をするのだ。小学生の頃は俺も連れて行ってもらったのだが。
脚を引きずるように帰宅した俺は家の鍵を開け、扉の取っ手を引く……その瞬間、後ろから誰かの手が伸びて来た。
―― ガッ……!
「えっ……先輩!?」
「邪魔するぞ」
振り向いた俺が見たのは、飛び切り機嫌の悪そうな千市先輩だった。何故先輩がここに!? この時間は青友の屋内プールの7、8コースで気合の入りまくった泳ぎをしているはずの先輩が……
そう思う間もなく俺は扉を開けた先輩に突き飛ばされ、玄関の中に転がり込む。
「ど、どうしたんですか先輩、練習じゃなかったんですか」
「今日は休ませて貰った。他にやる事があるんで」
先輩は制服ではなく半袖のポロシャツと……ミニスカートを着ている!? な、なんで先輩がそんな姿で!? いや待て落ち着け元気ッ、よく見ろ、あれはキュロットスカートだ……うん……ミニスカートじゃなくキュロットスカートだ……
そんな先輩はサンダルを脱ぎ、ずかずかと家に上がりこむ、先途の通り両親は居ない、だけどちょっと待てェ!
「ま、待って下さい、先輩が何でうちに」
俺がそう言うと、先輩は持っていたオサレな帆布のショッピングバッグを持ち上げて見せる。
「焼きそばの借り、返してなかったから。アタシ借りっぱなしは御免なんで」
先輩はそう言って、一階の奥へ向かう……良かった、行先は台所か、いやまだ良くはない。俺はハラハラしつつ先輩を追い掛ける。
「借りって何ですか、別にそんなのいいッスよ、ほんとに」
「いいッスじゃねーよアタシが良くないんだよ、台所借りるぞ」
先輩はそう言ってショッピングバッグからエプロンを取り出して着ける。
エプロンを。千市先輩がエプロンを!?
「昼飯まだなんだろ。アタシが作ってやるからテレビでも見てろよ」
先輩はショッピングバッグから食材を取り出しながらそう言う、だけど千市先輩のエプロン姿より見たい番組などある訳がない。
キッチンから退却した俺は言われた通りリビングでテレビをつけたが、それに構わず先輩の後ろ姿をガン見していた。
「ふふん、ふん、ふん……」
ああっ、先輩、鼻歌なんか歌って……前から見た時は不機嫌そうに見えたけどそうでもないのか? ていうか、キッチンで野菜を洗うエプロンをつけた先輩の後ろ姿……超可愛い……待て! 慌てるな夏平、これは孔明の罠だッ……
そして30分後。焼き目のついたチキンに茄子とほうれん草がたっぷり入ったトマトソースのスパゲティが、エプロン姿の先輩の手で俺んちのダイニングの、俺の前の席に置かれた。
「簡単なので悪いけど、これなら誰でも食えるだろ」
誰でもじゃあない! これが女神が作ったパスタ……! ああっ、神々しい! 素材も麺も光り輝いてる!
「い、いただきます!」
「アタシも食っていいよな? 食材持って来たのアタシだし」
女神のパスタは味も最高だった。そして何よりボリュームがすごい。先輩は同じ水泳部なので、夏の水泳部員にどのくらいの量の飯が必要なのかよく知っているのだろう。
「美味いッス先輩、料理とかよくされるんスか」
「まあ。うちは何でも自分でやる主義だから……それで? 今どんな気分なんだ」
そして先輩はエプロン姿のまま、ダイニングの俺の向かいの席に座っている……綺麗だなあ先輩の顔、飯食ってても綺麗だ、どんな気分ってそんな、最高にハッピーに決まってるじゃないか、ああ俺、永遠にこの時間を、先輩と一緒に飯を食う時間を繰り返していたい……
「さ、サイコーっスよ! こんなもちもちした麺は初めてっス、焦げ目のついたチキンは香ばしいし茄子もジューシーで」
「食レポじゃねーよ青友水泳祭の話に決まってんだろ、言えよ。センパイがわざわざ様子を見に来てやってんだからさ」
千市先輩はそう言ってフォークを置き、腕組みをして胸を反らす……まあ……そうだよな……先輩は水泳部の先輩として、全国大会の常連選手として、その話をしに来てくれたんだろう。本当は俺にも解っていた。
「え、ええもちろん、武者震いがするっスよ! 明日がいよいよ本番ですから、俺はインターハイじゃなくここを目標に作って来ましたから! 明日はね、俺の全力をぶつけてやりますよ!」
俺は頑張ってそう答え、フォークでパスタをぐるぐるぐるぐる巻いて、口に突っ込む。
「そう。それならいいんだけどさ」
「ハハッ、先輩も良かったら見に来て下さい」
先輩は再びフォークを取り、弄ぶようにパスタを小さく掬う。
「アタシも、期待される辛さは知ってるから。アタシ、元々そこまで大食いじゃなかったんだけど、水泳を頑張りたくて必死に飯食ってんのね。時々泣いてる、マジで。食えなくても無理して食うから」
先輩は少し俯いたまま、小さなパスタの塊を口に入れる。
「たまに外野の声が聞こえて来るんだよねー。アイツモデルなんかやってるからあんまり筋肉つけたくないんだろってさ。アタシモデルこそ続ける気ないんだわ、大学の学費稼いだら辞めるつもりだから」
「……そうだったんスか」
「アタシ本当はマジで水泳選手になりたかったのね。顧問みたいな。だけど今のアタシは得意のバタフライでも高校5位止まり。同世代の本当の一流はとっくに日本選手権とかで戦ってんの」
確かに先輩は一般的なトップ選手と比べたら肩幅も狭いし腕も細く、身長の割に体が小さい。正直俺もそれを、先輩にはモデルの仕事があるからだと思っていた。
「いやまあ……俺なんてそのインターハイにも出られなかったスから……あっ、勿論来年は絶対出るつもりっス!」
俺はつい口を突いて出た本音を、先輩が怒る前に慌てて打ち消す。
「でも先輩の成績なら大学でも続けられますよね、水泳」
先輩は、やはり不機嫌そうな顔をして少しの間考えていたが。
「まだ迷ってる。青友に居る間は完全燃焼するけど」
そこで機嫌を直してくれたのか、先輩は微かに笑って続ける。
「アタシ、大学は地元の国立大の生物学部に行きたいんだわ。アタシ昔から微生物が大好きでさ、卒業後もそっちの仕事に進むのが夢なんだ。隣駅に国内有数のバイオテクノロジーの研究所があるの知ってる? 小学校の社会科見学で行ってからさ、ずっと大人になったらそこで働きたいと思ってたんだよね」
俺は思わずポカンとしてしまった。何という具体的で実現可能な夢だろう。先輩は勉強でも国公立理系受験クラスに居るし成績もいいらしい、地元の国立なら苦も無く合格するに違いない。
「アンタは? 将来の夢。あるんだろ?」
先輩はそう、俺に話を振って来た。
「俺の夢は、いつも主人公の隣に居る一番の悪友みたいな男になる事っス」
俺はあまりあれこれ考えず、本音を口に出していた。
「……なんだそれ?」
「世の中には主人公になれる男が居るんスよ。野球なら打って四番投げてエース、おまけに背が高くて顔もいい奴。俺はそういう奴の、気の置けない友人になりたいんス」
先輩は無表情で、一口スパゲティを食べる。俺はその間に二口スパゲティを頬張る。
「なんでそんなコバンザメみたいなのが夢なんだよ。自分の人生なんだから、自分が主人公になればいいだろ」
「いやァ……サル顔のモブに生まれてみないと解らないと思うッスよ、この気持ちは」
先輩は一瞬不機嫌そうな顔をしたが、また無表情に戻り、程よく焦げ目のついた焼き鳥大のチキンをフォークで突いて、口に運ぶ。
「アンタが言うその主人公ってのが、春月なのか」
先輩の口からその名前が出た……俺は思い切って、いつか聞いてみたかった事を聞いてみた。
「……先輩は春月の事、知ってるんですか?」
先輩はフォークを置きテーブルに両肘をついて、組んだ手の上に顎を乗せ、少し身を乗り出して、じっと俺の目を見て来た。な、何……俺は慌てて目を逸らし、スパゲティを大きく巻いて口に入れる。先輩は何も言わず、しばらく俺の目を見ていたが。
「さあ……アンタ程には知らないんじゃね?」
そう言って肘を降ろし、元通りフォークを手に取った。こっちはまだ動悸が止まらない、勘弁して欲しい……真顔で俺をじっと見つめる先輩はあまりにも美し過ぎた。
「俺は良く知ってるんス。学校上がる前から近所の公園で遊んだ事があったんで、小一で同じ学校になった時に声を掛けたら、向こうは覚えてませんでした」
光流と小学校で同じクラスになったのは三、四年の時だけで、その時は秋星も同じクラスだった。スポーツ万能で顔も頭もいい光流は当時から女子によくモテた。俺が光流についていれば女子と話せると気づいたのもその頃だ。
光流は、昔からぶっきらぼうでつれない奴だったのだが。
「俺、小さいころに海で溺れかけた事があって、ずっとプールの授業が怖くて逃げ回ってたんス。水に顔をつけられなかったんスよ、マジで」
小四の時、俺がその事を打ち明けると、光流は俺を無理やり市民プールに連れて行った。そして俺の水慣れに徹底的に付き合ってくれた。
そういやあの時は秋星もついて来たな。俺があの日死ぬ気で頑張ったのは秋星が見ていたからなのだが、今にして思えば秋星の性癖はあの頃にはもう芽生えていたのかもしれない。この事は先輩には話せないけど。
「俺は春月のおかげでプールに入れるようになったんス。だけどその頃の俺の泳ぎ方は無茶苦茶で、依然として水泳は大の苦手でした。そんな自分を変えたくて、俺は青友で水泳部に入ったんス」
まあ、半分は。もう半分は一年先輩に凄い美人が居ると聞き、そんな先輩と楽しくプールで遊べるなら是非入りたいと思ったからなのだが、これも先輩本人に話す訳にはいかない。
「で、二年の時に春月と同じクラスになったんで、お前のおかげで今じゃ水泳が得意になったって言ってやったんス、そしたらアイツ何て言ったと思います?」
―― お前、誰だっけ……?
「あはは、その瞬間に決めたんス、俺はこいつの一番の悪友になってやるって」
ああ、スパゲティもあとちょっとしかない。先輩も食べ終わりそうだな。どうやらこの夢の時間もそろそろ終わりみたいだ。
「そう……」
先輩は無表情でそう言って目を伏せる。呆れられちゃったかな……怒る気もなさそうだけど。先輩は最後の一口のスパゲティを口に運ぶ。
「あの先輩、洗い物は俺が」
同時にスパゲティを食べ終えた俺はすかさず空いた皿を下げようと立ち上がる。すると先輩も立ち上がり、ニンマリと……悪い笑みを浮かべる。
「そうか、じゃあ頼むわ。アタシはその間に掃除機でも掛けておいてやるよ」
掃除機?




