33.復讐者
それなりに楽しいキャンプが無事終わり、お盆休みの空気も吹き飛び、学校では後期夏期講習が始まった……夏休みもあと二週間足らずで終わりだ。
水泳部の選抜選手と顧問もインターハイから戻って来た。今年はリレーが男女とも三位、個人でもいくつかの種目で表彰台に上がるという成果を挙げたそうだ。
それなのに。戻って来た顧問と選抜選手たちの表情は妙に険しかった。
「あの……インターハイで何かあったんスか?」
俺はインターハイに行った男子の五年生の先輩に尋ねた。
「とんでもねー奴が居たんだ」
それは俺と同学年の男らしい。
その男は中学時代に九州の地方大会で輝かしい成績を残した。そんな男が高校に進学するのに当たっては、様々な有力校から誘いがあったという。
しかし男の志望は水泳の名門校で設備も充実している青友学園ただ一つだった。男は特別編入試験を受け、高校から青友に来る予定だった。
男の両親は男の為、九州での仕事を辞めてこちらに引っ越して来たというから、大変な熱の入れようである。学園も男の為に学費全免の待遇を用意していた。
一応進学校の青友学園には多少は勉強しないと通れない一般入学試験がある。だけどスポーツ推薦の生徒にはもっと優しい試験が用意されている。俺が話を聞いた五年生の先輩も、その試験で青友に来たそうだ。
「青友のスポーツ選抜の筆記試験は算数一教科で全問マーク式、そして最初の五問は整数の掛け算だけ、しかも答えは全部①なんだ」
試験の合格ラインは50点。だがこのテストは全問①と答えれば60点を獲得出来るように作ってある。つまり、第五問まで答えが①だったし、あと全部①ってつけちゃえーってやれば、受かるのだ。
だけど男は、その試験に落ちた。
「青友には入れなかったけどこっちには引っ越して来てしまったそいつは、とにかく入れる学校に入った、そして専門の指導者も居ない、短水路しかないプールで修練を積み、青友に復讐に来た」
男は平泳ぎ100mで今年のインターハイを制した。そして青友の選手に、顧問に告げた……自分は、青友に勝つ為にここに来たのだと。
そして問題は、その男が通う学校が、親睦大会である青友水泳祭に出て来る学校だという事だ。
「奴は来る、青友水泳祭に、そして青友を倒しに来る。ナツ。水泳祭には青友のインターハイ組は出ないのがしきたりだから、奴を迎え撃つのはお前の仕事になる」
俺がただ、出られもしないインターハイ出場を避ける為に考えていた俺のターゲットは8月末の青友水泳祭だという言い訳に、意味が生まれてしまった。俺はその親睦試合で、青友に恨みを持つインターハイ覇者と戦わなくてはならないらしい……いや100分の100で無理じゃん勝てるわけないだろ! 知らないよそんな因縁!
どうしてこうなった。
練習の雰囲気は再び一転した。折角顧問が優しくなったのに、部員が厳しくなったのだ。一時はライバルを見る目で俺を見ていた選抜選手達が。
「ナツお前コースを一人で使え! 俺達は別のコースを往復するから」
「もちろん、手伝える事があれば何でも言えよな!」
エンジョイ組の仲間だった奴らも。
「雑用なんか俺達がするから、お前は練習に集中しろ!」
「スポドリ? 俺が取って来るからお前は泳げ!」
俺の為に空けられたコース、練習を何でも手伝ってくれる選抜選手、雑用を何でもしてくれるかつての仲間、基本的に無口だがずっと俺を見ていて聞けば何でも的確に答えてくれる、一流指導者の顧問。
何なんだこれは! これじゃまるで……王子様じゃないか……!
サル顔のモブの俺が、まるで主役みたいにみんなに担ぎ上げられているのだ。俺の為の舞台! 俺の為のスポットライト! ああっ……感激ッ……
「勘弁して下さいよ……マジへとへとッスよもう……」
俺は口ではそう言いつつ、心の中は熱く燃えていた! すげえええ! これが皆に期待され脚光を浴びる、主役の生活なのか! 初めてだよ! こんなの初めてだよ母さん!
泳いだ。俺は泳いだ! 来る日も来る日も、限界まで。
しかし、俺のタイムは一向に伸びなかった。
学校に、いや水路に向かう俺の足取りは日に日に重くなって行った。
こんなにコースを空けてもらい、並んで泳いでもらいフォームのチェックをしてもらい、スポドリやタオルを持って来てもらい、俺だけマンツーマンで長いアドバイスを貰ったりしているのに、タイムがピクリとも伸びない。
それなのに。
「キャッチの手がいい感じに伸びてんじゃん、特訓の成果だな」
「すげえなナツ、お前はエンジョイ組の誇りだぜ!」
「お前は着実に成長している! 自分の力を疑うな夏平!」
選抜組もエンジョイ組も顧問も、いい事しか言わない。そんなんされたって涙しか出ねえよ畜生。不甲斐ねえなあ、俺。
ああ。悪友活動に戻りてえなあ。夏休みももうあと僅かだというのに、まだやってない事がたくさんある。映画も行きたかった。サイクリングも、遊園地も。
行っちゃおうか。一日くらい練習を休んだっていいだろ。光流を誘って、それから……別に秋星じゃなくてもいいじゃん、来てくれそうな奴に片っ端から声を掛けてさ、早川と根府川、それから島田清水藤枝、そうだ、肝試しやキャンプに来てくれた連中ならきっと来てくれるさ、そしたらまた楽しい夏の想い出が一つ……
出来ない。
青友水泳祭に賭けると言ってしまった俺、俺を応援してくれる仲間達、顧問……そういうものを置き去りにした自分が映画や遊園地を楽しむというイメージが、全く湧かない。




