2.平和なモブ生活
今となってはどうでもいい事だが、俺は水泳部に所属している。ちなみに光流は運動神経抜群の帰宅部員だ、秋の体育祭のクラス対抗リレーでは、やれやれとぼやきながらアンカーを務める事になるだろう。
「誰かー! 視聴覚室から長机を一つ取って来てくれ!」
「うーす!」
青友学園水泳部は専用の屋内プールを持つ県内屈指の強豪で、基本的に部活は週6であるし練習時間も長い……だがそれは選抜されたレギュラー部員達の話。今の顧問は世界水泳にも出た事がある元一流アスリートだが、俺達ヒラ部員には好きなようにさせてくれている。
その代わり俺は、部内の雑用は喜んで引き受けていた。
「いつも悪いな、ナツ」
顧問とすれ違い駆け出す俺に、給水中の一年先輩のレギュラー部員が眉間を顰めて声を掛けて来る。
「お前、本当にそれでいいのかよ」
「えっ……いや大丈夫っスよ」
俺はただそう答えて再び駆け出す。
先輩が言ってるのは雑用に時間を取られて練習時間を減らして、その結果いつまでも控え選手に甘んじる、そんな事でいいのか? という意味なんだと思うけど……俺、ぜんぜんそれでいいんだよね。
レギュラーの練習は端から見ていても超キツそうだし、雑用は光流の悪友ポジションたる俺にとっての修行にもなる。悪友は主人公とヒロインの為にサプライズパーティや肝試しの準備なんかを、すっかり整えてみせないといけないからな!
俺は視聴覚室への階段を登る……おっと、前から女の子が来た、やべえ、俺は放課後のこの辺りには誰も居ないと思い、下はジャージの短パンを履いたが上半身はタオルを掛けただけの姿で来ていた。
しかもあの子は冬波和花だ。華奢で小柄で、少し色素の薄いセミロングの髪を綺麗に揃え、縁の薄い丸眼鏡を掛けた学園屈指の美少女の一人だ、そして学園一の成績優秀者でもある。
全国模試の上位百傑の常連である彼女は、地方都市の中堅進学校である青友では大変稀少な存在であり、先生方や学園経営陣からは虎の子として大事に扱われていると聞く……俺はそんな子の前に半裸で現れてしまった。
「……」
彼女は一瞬俺の方を見たが、特に何も言う事もなく階段を降りて行く。良かった、別に気にしてないようだ……彼女は学年に一人しか居ない全額給費特待生である事を鼻に掛けたりしないし、誰にでも分け隔てなく接する、とても穏やかで性格の良い子なのだ。
実は俺は、彼女もヒロインの一人なのではないかと考えている。光流と和花ちゃん、今の所接点はないようだが、学年も同じだし、どこかでサブストーリーが始まってもおかしくはない。
まあでも和花ちゃんはきっと第三ヒロインくらいの立ち位置だよな、とにかく勉強が出来て小柄で可愛い眼鏡っ子、悪くはないけど突き抜ける個性には欠けている気がする……って何考えてるんだ俺、いくら悪友ポジションの俺でも、そこまで考えるのは大きなお世話だ。
長机を抱えた俺は視聴覚室から戻って来て、階段を降りる。
すると先ほどとは逆のタイミングで、下から何冊も本を抱えた和花ちゃんが上がって来る。
なんだか随分重そうだな……おっといけない、俺は長机で半裸の体を隠す……
な、何? 和花ちゃん、こっちをガン見してるんですけど? とにかく早く消えよう。俺は急いで彼女とすれ違い、踊り場に降りる。
―― バラバラバタバタ
ん? 背後で物音が? 好奇心に負けた俺はちらりと振り返る。和花ちゃんが、抱えていた本の束を落としてしまったらしい。
どうしよう。本を拾うのを手伝うべきか。だけど半裸の俺がそうするのはどうなんだ? 知らん振りして立ち去るのも、それはそれで感じ悪いだろうしなあ。
「あの、大丈夫?」
俺は一応、長机で体を隠したままそう尋ねた。
和花ちゃんはまだ俺をガン見していたが、その体が、不意に揺らぐ……
「危ない!」
俺は急いで長机を立て掛け、階段に飛びつく! 突然気を失ったように見える夏服姿の和花ちゃんの体が、階段から落ちて来る……後でセクハラって言われたらどうしよう、いやそんな事考えてる場合じゃない!
―― ダンッ!
ぐあっ、痛ぇ! 俺はどうにか体を捻り、階段に尻餅をつきながらも、倒れて来た和花ちゃんの体を受け止めた!
「大丈夫!? 怪我はない?」
いてて……俺は結構な勢いでケツと背中を打ったけど、このくらい丈夫な悪友ポジションの男なら何でもない。だけど和花ちゃんは俺の胸元に顔を埋めたまま返事をしない、どうしよう、保健室に連れて行くべきか?
―― ぺろ……ぺろぺろ……
ん?
―― ちゅるる……ちゅっ……ちゅるるる……
ひっ……
俺の全身を悪寒が駆け抜ける。な……何だ? 何が起きている?
―― ちゅる、ちゅぱちゅぱ、ぺろ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ……
ひいいいっ!?
和花……冬波が、冬波が……俺の乳首を! 乳首を一心不乱に舐めている!?
たちまちパニックを起こした俺の脳内をネガティブな妄想が駆け巡る、水泳部のヒラ部員、夏平元気(16)が学園の至宝冬波和花にセクハラ、放課後の校舎の階段の踊り場で無理やり乳首を舐めさせた! 夏平は当然即時退学、いや追放、むしろ刑事告発、民事でも賠償を求める訴えを地方裁判所に……何で!? どうして、俺は何もしてないのに!
「うわ、うわああああ!」
俺は冬波を引き剥がそうともがく、しかし冬波の腕は俺の背中にがっちり組み付いていてなかなか離れない! 早く、早くしないと人が来る、俺の人生が、夢の悪友ポジションライフが終わってしまうー!
「離せ! 離せってば!」
俺はどうにか冬波の腕を片方ずつ引き剥がし、その顔を俺の胸から押し退ける、冬波は尚も俺の胸にすがりつこうとする……俺は彼女を押し退け、体を捻りながら立ち上がる。
「あっ……ああ……」
引き剥がされた冬波は、階段にしな垂れたまま涙目で俺を見上げる……夏服のスカートから伸びる、今時珍しいニーハイソックスを履いたほっそりした脚が、妙に艶かしく見える……!
「お……俺は何も見ていない」
俺は慌てて冬波の脚から目を逸らし、震え声で言った……駄目だッ! 限界だッ! 何だかわかんないけどとにかく限界だー!
「あの……夏平さん、私その、あの、」
「知らない、ここでは何もなかった、俺は何も知らないーッ!」
立て掛けていた長机をひったくるように抱え、俺は全速力でその場を立ち去る。