12.イチャイチャパラダイス
翌日。夏期講習の後で俺がいつものように水泳部の雑用をしていると、渡り廊下で冬波に出会った。開け放たれた窓にもたれかかって、外を眺めている。
「うーす」
俺は顔を知っている同級生という程度の挨拶をして、通り過ぎようとするが。
「夏平さん。昨日は海水浴に行かれてたそうですね……」
冬波は俺を呼び止め、低い声でそう言った。な……なんだよ。
「昨夜お見掛けしたのは帰りの光景でしたか。あの時一緒に居たとても綺麗な方は、五年生の千市さんでは」
「あ……ああ、先輩を知ってるんだ」
「私、学校が休みの日には東京の学習塾に行くんですけど、地下鉄の駅の通路なんかに千市さんがモデルをされているブランドのポスターが掛けられてますよ」
複数の情報が俺の悪友ヘッドにインプットされる。ふーん。
「お知り合いだったんですか、夏平さん」
「知り合いも何も千市先輩は水泳部の主力選手だよ、来月のインターハイにだって出るんだ、昨日はたまたま」
たまたまと言って、俺は何かを思い出す。昨日の先輩、やっと取れた休みだったとか言ってたな。それに対して俺は、定型文のような挨拶しか返せなかった。
さて。冬波はいつの間にか俺の目の前まで来て、俯いていた。
「いいですね、キラキラして、いかにも青春って感じですね……仲間達と語らい素敵な先輩と痴話喧嘩などなされて」
「いや待って」
「私、全部見てたんです、夏平さんと千市さんいい雰囲気でした、だけど夏平さんが何かしょうもない事を言って、千市さんが怒って。夏平さんは慌てて呼び止めたんだけど千市さんは帰ってしまいました。私……鼻血が出るかと思いました……青春を謳歌する貴方がたの姿が眩しくて、眩しくて」
冬波は急に眩暈に襲われたかのようによろめいて、俺から離れる。
あのさ、俺はどう思われてもいいけど先輩は絶対そんなんじゃねーから、一年の年齢差だけじゃないんだよ、女子では絶対的エースの先輩と、選抜選手にも入ってない俺とでは住む世界が違うんだ、モデルの事は知らねーけど水泳部の中だけでも全く格が違うから……人間としての。俺と何かあったなんて言われるのは、先輩にとってはとんでもない名誉棄損に当たる。
俺は頭ではそう思っていたけれど、何も口に出せなかった。
「私が……私が復習に塗れ終わりのない戦いに明け暮れている間に、同世代の少年少女達は一度しかない今年の夏を謳歌し、キラキラと輝いているんだって……私が、私が学園の為、そして返済不要のゴールド奨学金の為、戦っている間に……!」
その時。光流のような鈍感主人公の対極にいる勘違い脇役気質の俺は、心臓の高鳴りを必死に抑えていた。
何これ!? 冬波……和花ちゃんって、もしかして俺に気があるの!? 俺が千市先輩と海水浴に行ったと知って、やきもちをやいているのか!? 冬波が、学園トップクラスの美少女がこの俺に!? マジか……マジかぁぁあ!?
ヤバい、ドキドキが止まらん、嘘だろそんなドリームカムトゥルーがあっていいのか、たかが主人公のコバンザメに過ぎない悪友の俺が、学園で三番目の美少女にやきもちを焼かれる、そんな事があっていいのか!?
いや、待て。確かに希夢ちゃん、いや秋星は程よく背が高く手足が長くてスタイルがいい。千市先輩は俺より背が高くさらにスタイルがいい。
だけど和花ちゃんだって別にスタイルが悪い訳ではない、身長は小学5年生並みだけど足は長くてすらっとしてるし、大きな眼鏡のせいで顔の印象が薄れているけど良く見たら本当に可愛いし、学園で何番目かだなんて判断、完全に趣味によるとしか言えないんじゃないか。
いやそんな事より!! お、俺……和花ちゃんを彼女に出来るかもしれないの? だけどそんなまさか!? もし本当にそんな事があるなら! 俺は……俺は光流の悪友をやめてもいい!
「あの……冬波……いやその、和花ちゃん」
俺が上ずった声で、密かに震えながらそう切り出すと、和花ちゃんはすぐに顔を上げた。眼鏡越しの瞳が真っ直ぐに俺を見ている……かっ……可愛い……天使だ……!
しかし。
「もしかして、乳首を吸わせてくれる気になって下さったんですか?」
悪魔、いや冬波の唇から漏れた言葉はそれだった。くっ……! だが今の俺は! そんな言葉には負けないッ!
「それは……いや。和花ちゃんって、本当にそんなに俺の事、気にしてくれてたんだ。だったら……こういう事はちゃんと俺の方から言わなきゃ」
こんな瞬間が、こんなに早く来るとは思わなかった。
俺の乾坤一擲の大勝負……同学年の美少女への告白。勝利すれば、俺は美少女の彼女が居るという最高位の学生生活の切符を手に入れられる……!
「和花ちゃん。俺と……付き合ってくれない?」
冬波和花は。俺を怯えた目で見て、呟いた。
「変態……」
「……へ?」
「きゃあああ!? 変態! 何言ってるんですか貴方、不純です! 不純ですよ! 神聖な学び舎でよくもそんな事、臆面もなく言えたもんですね!?」
待て。
「ちょっと待ってよ! 確かに調子に乗っていた事は認めるよ、だけどその神聖な学び舎で乳首を舐めさせろとか言ってた人にそこまで言われたくねーよ!」
「その神聖な学び舎の昇降口で乳首を丸出しにして異性を誘惑したのは私ですか!? 夏平さんですか!? 貴方は私をその乳首で狂わせ、それを餌にして手籠めにしようとしてる、そうでしょう!? そんなエッチなサルみたいな表情で不純な取り引きを持ち掛ける、貴方を変態と呼んで何が悪いんですか!」
「待って……待ってよ……俺普通に告白して玉砕しただけじゃん……どちらかと言うと俺の方がまだ普通の事言ってると思うんですけど……」
俺は火が出る程赤くなった顔を冬波から背け、うずくまる。
ちくしょう。俺のバカヤロウ。30秒前に戻りたい。戻って人生をやりなおしたい……何で俺、一瞬でもこの子を彼女に出来るかもしれないと思ったんだろう。俺は頑張って頑張って、やっと主人公の悪友になれる程度の男だ。そんな事、十分思い知っていたはずなのに。
悪友道不覚悟か。この上はとにかく一刻も早くここから消えたい。何なら世界から居なくなってしまいたい。
「とにかく、すみませんでした、さよなら」
しかし立ち去ろうとする俺の腕は、冬波に掴み取られていた。
「待って下さい、どこへ行くんですか」
ああ。この子は俺を殺すつもりなのか。自分が夏平に告られた事、それを思いきり振った事、その時の様子を友人や同級生の皆に言いふらすのか。俺はある意味死ぬ。残りの二年半、俺はゾンビとして学園生活を送る事になる。
「俺もう二度と調子に乗りませんから、どうか勘弁して下さい」
俺は死ぬほど顔を赤らめたまま、どうにかちらりと冬波に視線を向ける。
冬波は、大粒の涙をぼろぼろこぼし、震えながら俺を見上げていた。
「わかりました」
「……へっ?」
え? 解ったって……何が?
「お付き合い……させていただきます……夏平さん、私、夏平さんとお付き合いします……!」
ええええええええ!? なっ、待てッ、幻聴じゃないよな? 聞き間違いじゃないよな今のセリフ!? 夏平さんを警察に突き出します、じゃないよな!?
俺は真っ直ぐ冬波、いや和花ちゃんに向き直る、マジか……マジかぁぁあ!! オーケーなのか!?
だけど和花ちゃんは、酷く悲しそうに、悔しそうに……涙をぼろぼろこぼしながら震えている……おかしい。やっぱり何かがおかしい。
「グスッ……私さえ我慢すれば、ヒック、乳首を吸わせていただけるんでしょう?」
違う。
「クスン、私、何でも我慢しますから……グスッ……ヒック……」
冬波はそう言って膝から崩れ落ち、わりと短めなスカートを広げ床にぺたんと座り込むと、眼鏡を外しハンカチに顔を埋めて慟哭する。
「違ぁぁぁああう!!」
その場に尻餅をついてしまった俺は、同じく渡り廊下に座り込んでいる冬波に背を向け、床をばんばん叩く。
「お付き合いっていうのはそうじゃないでしょおお!? 気になるあの子と気になるアイツが、ちょっとお互いの距離を詰めて、お互いの顔を見るのも意識しちゃって、そういう気持ちを伝え合って、そうなんだ、そうなのかって言って始まって、一緒に下校しようとか、一緒に登校しようとか、並んで歩いて、ぎこちなくお喋りして、ちょっと手と手が当たっちゃった日にゃあ顔真っ赤にしてごめん、こっちこそとか言ってまた少し離れる、そういう甘くて酸っぱいものだろぉお!?」
俺だってついさっき、ほんの一瞬の間にそんな妄想をしたんだ……冬波と過ごす、そんなキラキラした、清く正しく美しい学生生活を! それを何だよ、俺が人を乳首で狂わせ、それを餌にして手籠めにしようとしてるって、どんだけ爛れてんだよ俺の青春は……! 何だよ手籠めって……いつの時代の日本語だよ……!
「わ、解りました! 夏平さんの望み通り、どんな芝居でもしますから!」
冬波は、見るも切ない泣き顔を上げ俺を真剣な眼差しで見つめそう言った。
「俺はイヤだぁぁぁああ!」
「夏平さん!?」
俺は冬波の手を振りきり、渡り廊下を走り去る。




