009
せっかくの休日だというのにベッドの上で過ごして終わってしまった。
そう文句を言ったら「それだけ聞くといつもの週末と変わらないですね」とアンが横からしれっと呟く。確かに普段もベッドの上に転がって小説を読んだり、眠くなったらそのまま惰眠を貪ったりしているので、ベッドの上にいる時間にはそこまで変化はなかった気もするけれども。
好きなことをやれるのとやれないのとでは大違いじゃない。
ちらとアンを見れば『何言ってるんだこいつ』とでも言いたそうな目をしていたので、喉まで出かかった言葉はそのまま飲み込んだ。
さらなる怠惰を求めているのだとお母様に告げ口でもされたら困る。面白そうな本は次々と世に出てくる。お気に入りの新シリーズに加え、あらすじが面白そうで買ってきた本もまだ手がつけられていない。せっかくの自由時間が減らされでもすればたまったものではない。
今日も今日とて休むわけにはいかず、おとなしく学校へと向かっている。嫌な夢は見たが無事に熱も下がったし、同じ夢を見ることもなかった。
しかし何だったのだろう。非常に不可解――否、不愉快である。
私はモブとして生まれたわけだが、モブとしての生活に誇りを持っている。モブは最高だ。なぜこの生活を捨てられようか。
それなのにあの夢は、まるで私がメインと関わっているような……自分もメインの一員にでもなったかのように錯覚させられるものだった。まさに悪夢だ。
鏡を見なくてよかった。
もし夢の中で鏡を見て、そこに自分の顔にしっかりとした造詣があったとしたら。
考えるだけでも恐ろしい。それはもう死刑宣告に近い。
「それでは行ってらっしゃいませ」
うんうん考えているうちに学校に着いていた。
アンはカバンを手渡すと、悩んでいる私のことなど露ほども気にしていない様子で馬車から私をさっさと追い出した。文句を言おうと振り返れば、素早く、だが静かに扉は閉められ、あっという間に馬車は遠ざかっていった。
時々、アンは私の扱いが雑になる。一応雇い主の娘であることをもうちょっと考えて欲しい。まあ、そこがアンらしさと言えるところでもあるし、この関係性は嫌いではない。むしろいまさら変に一般的な雇用関係の距離に戻られるほうがダメージとしては大きい気がする。ちょっとしたイタズラだとしてもこれだけは絶対にやめてもらおう。
マスクの下でううむと唸りながら考え事をしていたものだから、教室に入るまで異変には気付かなかった。
「おや、このクラスも風邪が流行ってるようだね! 体調管理には気をつけるように!」
授業に来た先生たちは口々に同じことを言う。
まさかの、クラス全員マスク着用だった。
「あら、あなたも……風邪……ですのね?」
「え、ええ。うちの屋敷で家族が風邪にかかってしまいまして。どうやらうつってしまったみたいですの」
「まあ……奇遇ですね。うちも同じですわ」
「…………流行ってますわねぇ」
と、原因が不明な状況でも女生徒たちはよそよそしく、けれどおかしな言動にはならないよう気を遣って世間話をしている。ようにも見えるけど、『本当はお前が何かやらかしたんじゃねーの?』の探りあいである。普段よりも緊張感でビシビシな空気に胃が痛くなってくる。
その一方で男子は、
「お前みたいなバカでも風邪ひくことあるんだな!」
「ちゃんと風邪ひいたんだからもうバカじゃないぜ!」
みたいなどうしようもない会話を繰り広げている。本当に風邪の生徒も何人かいるようだが、ほとんどが普段と変わらない様子を見るに、私と同じように仮病の可能性が高い。
もしかしたらみんなの顔にも何かしらの変化が現れたのかも。そうなるとクラスごと何か厄介なことに巻き込まれるのでは?
そう思っていたけれど、他のクラスも同じような状況らしい。
いったい何が起きてるのだろう。
――と、悩んだのも束の間。
その日のうちに原因のほうから姿を現したのである。
「えー、途中トラブルがあって朝は間に合わなかったが、今日からこのクラスに留学生が転入することになった」
午後の授業に入る際、先生が生徒と一緒に入ってくるなりそう言った。
すらりとした長身、窓から入る光をやわらかく反射して輝く綺麗な金の髪。透き通るような青の瞳。さわやかな微笑みを浮かべる口元。
間違いない。こいつが元凶だ。
ざわざわと教室が騒がしくなる。こんな状況でも黄色い声が上がるのは、彼の容姿がとてつもなく整っているからだろう。
「皆さん初めまして。ノスタレイアから来ましたアインフェル・レプロスと申します。クラスメイトとして、仲良くしてくださいね。どうぞよろしくお願いいたします!」
耳に入ってくる声の良さに思わず背筋が粟立つ。笑顔でクラスメイトに挨拶する留学生の所作はとても綺麗で、幼い頃からマナーを叩き込んでいるだろうことがすぐにわかる。
それより何よりあの顔である。あんなにしっかりした造詣は紛れもない。あんなキラキラしたオーラをまとっているのも何よりの証拠だ。
――彼は、『メイン』だ。
教室を見回していた彼とバチリと目が合ってしまった……気がする。
ふわりと笑って目を細める彼に、隣の女生徒がキャーとハートを飛ばして声を上げる。なぜか後ろに座っていた男子からも「ぅっ」と小さく声が聞こえた。
(――あ、悪魔……!)
かくして私の平和なモブ生活は大きな嵐に巻き込まれることになるのだった。