008
その日は珍しく夢を見た。
我が家ではない、それはそれは大きくて立派な屋敷。どこもかしこも手入れが行き届いていて、派手すぎず、しかし品のある調度品の数々。見ただけでわかる。ここはきっと貴族の屋敷だろう。それもかなり上流の。
誰かに呼ばれて、高そうな絨毯を惜しげもなく踏みしめて声のするほうへ向かう。
扉を開けると、まばゆい光に目が眩む。その先には美しい庭園が広がっていた。
私好みの淡い色の花たち。青々とした緑が風にのってふわりと薫る。
少し先で誰かが私を呼んで、手を振っている。私も控えめに手を振り返してそちらへと歩みを進める。
綺麗な庭園を抜けて小道を進むと、だんだんと木が多くなり、林のような森のような印象に変わっていく。さらに少し行くと木々の隙間にぽかりと空間がひらけてガゼボが姿を現した。きちんと手入れされているが、ところどころ歴史を感じさせるものだった。大きな石柱にそっと手を添えると、ひやりとしていた。長いことここに建って人々を見守ってきたのだろう。
先ほどよりも近づいた声に顔を向ける。笑顔で走り寄ってくる少年少女。そんな二人の少し後ろから現れた人影。顔は影になっていて見えないが、背の高い男性だった。
「――――――――」
彼はこちらを見て、何かを言った。たぶん重要なこと。けれど紡がれたはずの言葉は強くなる風の音にかき消されて何ひとつ聞こえない。彼は何かを喋りかけながらこちらへ近づいてくる。しかし、彼が一歩、また一歩と近づくにつれてどんどん風の音も大きくなっていく。同時に周囲の光も強くなり始めた。
じわじわと視界が白に染まって、痛いくらいの白で世界が塗りつぶされて消えていく。
すべてが白で埋めつくされると同時に、白は一瞬で黒へとバツンと切り替わる。
その瞬間、私は目覚めた。
バクバクと早鐘を打つ胸をぎゅっと押さえる。落ち着け。あれは夢だ。
夢からさめて初めて、あれは夢だったのだと気付かされる。緑の匂いも、空気の動きも、地面を踏みしめる感覚も、何もかもが本物だったと感じているのに。それでもあれは紛れもなく夢なのだ。
ドクドクドクと未だ早い血流。深呼吸を何度も何度も繰り返して、ようやく少し落ち着いてきた。
一部はぼんやりとしていて、はっきりとはしていないはずなのになぜかそうだと頭が理解している。たとえば少年と少女。二人の声を認識していたはずなのに、どんな声だったか思い出せない。聞いたことがあるかどうかすらわからない。それに顔もどうだっただろうか。
服装は? 髪型は? 年齢は?
重要でない情報だから覚えなくとも良いとでも言いたげに、細かい部分はわからない。確かなことは少年と少女が出てきたということだけ。
そしてもうひとつ確かなことがある。
目覚める直前に見えた男性の顔。
こちらを見つめるやさしそうな瞳。手を伸ばせば触れられそうなほどの距離に来た彼が、形の良い唇から最後に紡いだ言葉だけは、はっきりと聞こえた。
――アメリア
やさしく、慈しむような声音で紡がれたのは、私の名前だった。
思い出すと心臓が痛い。せっかく落ち着いてきたというのに、また鼓動が早くなってしまう。
夢なのに。単なる夢のはずなのに。
そんなに優しい声で名前を呼ばないで。慈愛に満ちた瞳を向けないで。労わるように手を差し伸べないで。
髪型や目の色など細かな部分は思い出せもしない。でもはっきりとしている。
彼は――『メイン』だ。
こんなの悪夢でしかない。
ドッドッと鳴る心臓。夢を思い出しただけで背筋が寒くなる。
あんなにはっきりとした顔の造詣があったのだから間違いない。メインの人間と関わるだなんて、たとえ夢だとしても最悪だ。
『モブ最高!』な我が家からすれば夢にメインが出てくるだけでもとんでもない悪夢である。そんな能力はないが、万が一この夢が正夢にでもなったらと考えると本当に恐ろしい。
ここ数日の鼻の件といい、急に変化が出たことによるストレスでこんな悪夢を見てしまったのだろう。それか体調が悪くて熱が出る予兆なのかも。
時計を見ればまだ夜中。今までこんなに嫌な目覚め方をしたことはあっただろうか。
朝はまだ遠い。できればもう一度眠りにつきたいが、もう一度あの夢を見てしまったら。同じ夢なんて耐えられないだろうし、もし夢の続きを見ることになったらと思うとたまらない。
結局全然寝付けず朝を迎えることになり、寝不足の私は熱を出すはめになった。