006
夢の中で私は走っていた。
時折後ろを気にしながら、必死に走り続けている。
なぜ走っているのかもわからない。何に追われているのかもわからない。
息が切れる。止まってしまいたい。
でも、もし止まってしまったら――
悲鳴がして、ハッと目が覚める。
慌てて起き上がり周囲を確認する。必死で呼吸を整えながら辺りを見れば、いつもと変わらぬ自室だった。窓から入る光は明るく、聞こえてくる鳥の声も軽やかだというのに、冷たいなにかにまるごと包まれたよう。バクバクと心臓がうるさく鳴っていて、何だかとても嫌な感じだ。
何度も呼吸するたびに少しずつ落ち着いてきて、胸元でぎゅっと握り締めていた手のひらからようやく力が抜けていった。
ふうと長めに息を吐き出す。じっとりとまではいかないけど嫌な汗をかいたような気がする。
(眠気覚ましにシャワーでも浴びようかな……)
頭から浴びてしまえば毎日の愉快な寝癖も一発で直るだろうし、目も覚めるだろう。
夢の内容はもうよく覚えていなくて、あくびをしながらベッドから降りて歩き出すたびに何がそんなに怖かったのかぽろぽろと記憶からこぼれていく。
今日はなんだか変な感じがする。はっきりと具合が悪いというわけではないけれど、何かもやもやしたような違和感がある気がしてならない。
「まだ寝ぼけてるのかも……」
調子が悪いのなら、大事をとってもうちょっと寝ても良いのでは?
二度寝するべくくるりと振り返る。ふかふかベッドへの思いが強すぎたのか、思ったよりも回転に勢いがついて首にぴきっと痛みが走る。これはもう安静に横になれってことに違いない。
まだわずかに温もりが残ったままのベッドにもう一度もぐりこもうとしたその時、バタバタと忙しない足音が近づいてくるのが聞こえた。
ああ嫌だなぁ、まだ活動したくないのに。
「アメリア!!!!」
バタバタと走る足音。飛び込んでくる母の声。遅れて「お嬢様!」とアンの声。
「ああ……なんてこと……!」
母は私の顔を見て、手を、足を震わせながらこちらへ恐々と近づいてくる。
そうして私の頬を両手で覆い、私の頭ごと動かしても何度もじっくりと確かめる。
「お、お母しゃま……?」
ぐにゅうっと強めに挟まれてゆがんだ口元からこぼれるように母を呼ぶ。
仮に私の頬がマシュマロやグミのような、ふわふわもちもちな触り心地と弾力性があったとしても、ストレス解消グッズのように勢いよく揉みこまないで欲しい。変形して戻らなくなってしまいそうな勢いがあってちょっと怖い。
「アメリア、これは…………どういうことなの!?」
「……なにがでしゅか、お母しゃま」
こういうときばかりはモブでよかったと思う。しっかりとした造詣があったら、それこそとんでもなく変な顔をさらしていただろう。
……いやでも、変な顔が見えていたほうがお母様も嫌がってすぐに離してくれる可能性が高いのでは……? むむ。
「奥様、お嬢様のそれは……」
「ええ、間違いありません。これは――『ツヤベタ』です!」
「つ……ツヤベタ――!?」
アンがお母様の声によろりとふらついて一歩後ろに下がった。
「ええ、そうよ。間違いなくこれは『ツヤベタ』と呼ばれている現象……!」
「では……旦那様には……」
「すぐに知らせてちょうだい!」
昨日のやりとりと同じようにアンは母の言葉を受けて慌しく部屋を後にした。
「え……ちょっ、お母しゃま、いったいなんでしゅか……?」
私の発言にようやく頬プレスをといてくれる。もしかして母なりに小顔にしようとしていたりする? 確かに私はそこまで小顔でも何でもないけれど。ちょっとはプラスに取ってみようかと思ったけど無理そうだ。おそらく母もそこまで考えてはいないだろうし。
「あなたまだ気づいていないの? まったく……」
呆れる母はハア~ッと大きな溜息をつく。
「ほら、鏡でよくごらんなさいな」
よくわからないまましかたなくベッドを降りる。鏡の前に立つと、そこに映った私の顔には――と思ったが特に変わったところはなかった。
「……お母様、別に顔は何も変わってませんよ?」
残念ながら昨日私のつるんとしたフェイスにあらわれた鼻もそのままだ。大きくなったり小さくなったりもしていないし、消えることもなければ新しいパーツが付け足されたわけでもない。
「顔ではありませんアメリア」
「はぁ……?」
じゃあどこに? と思ってようやく気付いて「あ」と声が出た。
「『ツヤベタ』と言ったでしょう? あなたの髪が変化しているのです」
そこまで髪質が良いわけではなく、しかし酷すぎるわけでもない髪。たとえモブでもお嬢様らしく髪は手入れしましょうという風潮なので、それなりに手入れはしている。アンが。寝ている間はナイトキャップをして寝癖がやばくなりすぎないようにしている。が、朝起きるとキャップは絶対に外れているし寝癖もついているからしなくてもいいような気がする。
ともかく、我々はモブだから手入れだってそこそこだ。キラッキラに見えるほどの髪質を持つモブなど見たことがない。しかし私の髪の毛には昨夜まではなかったツヤがあった。どこもかしこもツヤツヤで、枝毛もひとつもないことだろう。毛先まできれいにすっと伸びていて、寝癖のセットなどとは縁のなさそうなサラサラとした指どおり。
「おおおおお、お母様!! ひ、光ってますよ!」
「ええ」
「ツヤッツヤですよ!?」
「……そうですね」
「そのうえサラッサラですよ!!!!」
実はメインの方々のツヤツヤした髪には憧れがあった。
女子らしく綺麗な髪の毛に、という理由ではない。その手触りはどれだけ良いだろうか、と考えると止まらなかった。ふわふわなんだろうか。サラサラなんだろうか。絹のようなのか。それとも滑らかすぎていっそ水のようなのだろうか。
そんなふうに夢想した手触りが、私の頭部にあって、しかも触りたい放題。
街で肌触りの良いタオルが出回り始めた頃、私は使うためのタオルの他に、触る用のタオルも購入した。癒しを求めるために触る用のやつだ。それと同じことがいつでも可能になるということではなかろうか。
私のテンションはどんどん上がっていく。
「ほらっ、お母様もちょっと触ってみてください! すごい! なにこのとぅるとぅウッ!!」
調子に乗りすぎた私の頬を、お母様の両手がサンドして圧をかけてくる。
「それで? 今度はいったい何をしたんですアメリア?」
おそらく笑顔のままお母様は言っている。でも目の奥が笑っていないタイプの声だ。
「ひぇ……」
本気で怒っているときのお母様の声に緊張感が走る。
モブに顔がなくてよかったと心から思う瞬間でもあった。