005
午後の授業も特に変わったことも起きず、いつも通りに授業は終わった。クラスメイトと挨拶して別れ、迎えに来ていたアンとともに帰路につく。
馬車のドアを閉め、外から見えなくなったことを確認してようやくほっと一息。気を抜いた私の鼻腔をあま~い匂いがくすぐった。
「アン!」
「はい。夕飯前なので少しだけですけど……」
アンはバスケットを開けると、チョコたっぷりのカップケーキを取り出した。
「アン~~~~!!」
「お嬢様、まずこちらのハンカチをお膝に――あっ、もうこぼして!」
ぱっと受け取ったカップケーキ。上部のふわふわを口にためらわずにつっこめば、それはそれはもう香ばしい匂いと舌に広がる甘味。求めていた糖がここにある。やわらかくふわふわの生地にビターでしっかりと硬めなチョコ。アクセントに柑橘系のフルーツが入っている。
「最高……! アン、もうひとつないの?」
一気にぺろりと完食して、私の胃はぐぐぅとやる気を出し始める。
「ありますよ。でも今はダメです」
「何でよ! いいじゃない、今日はお昼食べられなかったんだから! もう一個、もう一個だけだから!」
「そう言って前も持ってきたお菓子をほとんど食べてしまったじゃないですか! 差し入れにしようと思っていたぶんまで食べてしまって……おかげで余分に焼いていた私のぶんまでなくなってしまったんですよ?」
「それはアンのお菓子が美味しいから……」
アンが作ったお菓子を初めて食べた時はそれはそれはもう衝撃だった。
なんてったってバランスが素晴らしいのだ。その美味しさは、店を出せるというには少し遠く、しかし並みよりは確実に上という何ともモブらしい最高の一品である。美味すぎる料理を作ってしまうといずれ家を出て行ってしまう可能性もあるし、そもそもメインの目にとまる可能性も出てくる。なので適度なお菓子や料理を作れる人材はとても重要なのである。
特にお茶会や食事会などで客人に出す可能性のあるものならなおさら。しかしまずいものを出すのはもってのほか。美味しすぎず、微妙すぎず。何事もほどほどを保たねばならない。
お茶もお菓子も料理も。モブは何かと面倒ごとが多いのだ。
「帰宅したら旦那様と奥様がすぐにお話をされたいとのことでしたから、おそらくそのままディナーになさるでしょう。ですので、夕食前のおやつは一個だけです」
我慢してください、と顔の前に指をぴっと立てるアンを見てふと思う。
「……ねぇアン。いま食べてる時に口元って見えた?」
「え?」
ここには鏡がないからわからない。自分では口を開けた感覚もあるし、咀嚼し、飲み込んだ感覚もある。唇にチョコがついている気配がしたのでぺろりと舌で舐めた感覚もあった。けれど、それは見えていたのだろうか。
「開けていた……と思いますが……すみません、普段から口元を見ることはそうありませんので……」
「……まあ……そうよね」
モブの我々に口の造詣などないのだ。けれど機能としては確かに存在し、自分の意思で開閉をしている感覚もきちんとある。見えてこそいないが、口という器官が備わっている意識はあるのだ。
「それにお嬢様は食べるのが早いですし……完全にかじりついていて食べ物で口元が隠れているか、頬を膨らませながら咀嚼しているところくらいしか見れていませんね……」
「なら、確かめるためにもう一個食べてみるってのはどうかし――」
「ダメです」
お母様に食べすぎを注意するようきつめに言われているアンは、冷たくぴしゃりと言い放つ。まるでお母様が二人いるよう。実際二人は身長は同じくらいだし、声も雰囲気は似ている気がする。髪型と色を同じにして同じ服を着たら、声を出されない限りわからないかもしれない。お母様とアンが二人並んであれこれ言ってくるところを想像したらげんなりしてしまった。
そんな日は来ないと思うけど…………来ないよね?
はあ、と思わず溜息をつけば、吸い込んだ空気から甘さにまぎれて柑橘系のさわやかな香りをキャッチしてしまう。思わず先ほどの甘さがよみがえる。
アンの横でしっかりと守られたバスケットの中からほのかに香る甘い香りはすぐそこにあるのに、とても遠い存在になってしまったかのようだ。馬車がガタゴトと揺れるのにあわせて私のお腹もリズミカルに鳴った。
ようやく自宅へ到着する頃には、お腹が空きすぎて逆にそこまで空腹を感じないターンに入っていた。まあ、夕食になったら昼食のぶんまでがっつり食べますけど。
「おかえりなさいアメリア」
家に入るとお母様が待ち構えていた。前にはお母様が、後ろにはアンがいて、思わず先ほどの妄想が頭を過ぎる。
普段であれば夕食までの時間は、部屋に戻ってベッドに転がりながら小説を読んだりお菓子をつまんだりとダラダラしていることが多い。しかしこの感じは部屋に戻れる雰囲気ではない。
「行きますよ」
有無を言わさぬお母様の圧。「荷物はお部屋に」と鞄をアンに取られてしまっては、先に鞄を部屋に置いてきますので後から行きます戦法が使えなくなったということである。
もし話をしながら早めの夕飯にでもなろうものなら、夜中にお腹が空いてしまいそうだ。
(夜食頼んどいたほうがいいかなぁ……)
深く考えるのをやめて、しぶしぶお母様の後を追いかけた。
定期的に後ろを振り向いては私が逃げ出さないか確認しているお母様。私がとぼとぼ歩いているので距離があくと立ち止まって追いつくのを待ってくれている。大丈夫ですよ、別に逃げませんって。本当に信用ないな私。
食堂につくとお父様の声がした。いくつも書類や書籍を並べて頭を抱えてうんうん小さく唸っている。書類の並び方と声の位置からお父様がいる位置は把握できた。ぼや~っとした存在感。お母様が咳払いするまでお父様はこちらに気付かなかった。部屋が広いのもあるけれど、お父様は集中すると周りが聞こえなくなりがちなのだ。そうなると、お父様は途端に存在が希薄になる。風景の一部というか、そこにいるのが自然であるかのごとく、その場の空気と一体になってしまう。お父様はとても素晴らしいモブなのだ。
「ああ、ごめんごめん。もうそんな時間か。おかえりアメリア」
こちらに気付くとお父様の存在がはっきりとしてくる。相変わらず顔はわからないけれど、この穏やかな雰囲気がとても好きだ。この国の住民という感じがとてもしてやわらかな空気に包まれる感じ。
でもモブとして空気に溶け込んでいるお父様を見ていると、ある日突然いなくなってしまったりするんじゃないかと心配になってしまう。実際に小さい頃はよく父を見失って泣いていたらしい。すぐ側にいたにも関わらず、今回のように集中しすぎて存在が薄くなってしまったお父様を、幼い私は置いていかれたと勘違いしたのだという。
他のモブの子もこういうことはよくあるらしいのだが、我が家のお父様はそれはそれは素晴らしいモブなので溶け込みかたが段違いなのだそうだ。実際お母様も時々見失っているらしい。私が小さい頃にお父様につけた二つ名は『かくれんぼの天才』だそうだ。
「今片付けるよ。ちょっと早いけど、食事しながら話そうか」
お父様がにこりと(たぶん)言って、それから散らばった書類を片付け始めた。部屋の隅にいた執事がお父様の言葉を聞いて厨房に向かった。予想していた早めの夕食になってしまった。
このままでは夜中にお腹が空きそうだけれど、お母様の目が光っている今、厨房に夜食を作ってもらうよう頼みに行くことはできない。今日は何かとお腹が空いてばかりの日な気がする。せめて夕食はお腹いっぱい食べておこう。
食事はいつも通り始まったが、今日の学校での様子をお母様が念入りに聞いてきた。
おかしなことはしなかったか。普段と変わったことをしなかったか。私を見て周りの様子は普段と何か違ったか。周りの子に何か変化はあったか。授業中おかしな解答をしたり注意を受けたりするようなことをしたか。
なぜ私が何かした前提の質問が多いんだろうかということは置いておいて。どれもが思い当たることはないし、あまりの質問の多さに「べつに……」「ないです」と形式的に否定の言葉を返すだけのオウムにでもなった気分だった。
お母様の質問タイムだけでデザートまできてしまった。お父様、今日も全然喋れてないな。
「……それで『鼻』の様子はどうかな?」
お母様がティーカップを傾けた隙に、ようやくお父様からの質問が飛んできた。
「いえ、特に変わったところはなかったです。感覚も普通でしたし、今日はマスクもしていきましたから、クラスメイトから指摘されたり騒ぎになるようなことも特には」
「そうか。見た目も……おそらくだけど朝に見たときと比べても変化はしていなさそうに見えるね」
「……本当にそうかしら」
お母様がじーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと微動だにせずこちらの顔を凝視している。いくら顔の造詣がないとはいえ、視線は感じるんですよお母様。しかも顔っていうか、鼻に。
「ともあれしばらくは様子見だね。明日になったら何か変わっているかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「もしかしたら戻っていたり?」
「それもあるかもしれないね」
お父様は研究職をしている。大きな発見などはしたことはないが、こういった地道な研究や探求がとても好きなのだ。仮説を立てて考察したりして深く思考を始めてしまうと存在が空気になってしまうが、お父様の柔軟な考え方はとても好きだ。
「そんな簡単に戻ったりするものなのかしら?」
反対にお母様は否定的だ。まず疑ってかかる。本当に信頼できるとわかるまではお母様は決して気を緩めない。なんで二人が結婚したのか馴れ初めすら知らないけれど、この二人だからこそバランスが良い感じに保たれているのだろう。我が家のモブとしての生活は二人のおかげで安定していると言ってもいい。二人の馴れ初めは……人生の気にしないリストに入れておこう。聞いたところで話してくれる気もしないし。
「まあまあエミリア。週末でアメリアは学校もないし、今週はちょうど連休になる。数日様子を見て、それで今後どうしたらいいか改めて考えよう」
「……それしか今は手がないですからね……はぁ」
ようやく自室に戻ってこれた。お母様の質問責めには本当に疲れた。まるで尋問のように事細かにあれやこれやと聞かれても、そこまで記憶力が良いわけでもないので半ばうろ覚えなのだ。ましてや図書室の秘密のスペースで爆睡していただの、授業中に話半分で教科書の落書きに夢中になっていただの、帰り道にこっそりお菓子を間食しただのと知られてしまえば雷が落ちるのは間違いない。
特に図書室のことは内緒にしなければ。私だけの秘密基地を取り上げられてしまっては、一息つける場所がまたひとつ無くなってしまう。
お風呂に入っている間も、ついつい余計なことを考えてしまった。
なぜ私に『鼻』ができたのか。
なぜ私なのか。なぜ鼻なのか。
お母様が言うように私の行動が原因なのか。それとも他に原因があるのか。
鼻ができた影響は。今後はどうなる?
あれこれ考えても何一つ答えは出そうになかった。
溜息をついてとぼとぼと部屋へ戻る。
夜食を頼めなかったなとしょんぼりした気持ちで部屋の扉を開けると、お茶の香りがした。匂いの元へ行くと、トレイにお茶と一緒に小さめのカップケーキが乗っていた。
『もしこれを今から食べるなら、すぐには寝ないこと。お茶を飲んで温かくして、勉強をきちんとしてから寝てくださいね!』とメッセージが添えられていた。
「アン~~~~!!」
飴と鞭の使い方がとても上手い。
私はアンに感謝しながら即カップケーキを頬張り、お茶を飲み、教科書を開いて、そのまま寝た。