なぜ勉強をするのか?を本気で考えてみた
なぜ勉強をするのか?
誰が勉強をさせているのか?
誰しもが疑問に思うこの問いに対する私なりの考えを言語化しました。
なぜ勉強するの?しなくてもいいじゃないか。そんな問いが出てくるのは勉強というものの損得を個人のみで考えているからである。
個人単位で考えると損得がよく分からないが、全体で見てみると損得が分かりやすい、ということはよくあることだ。
例えば、選挙。
個人の一票はあろうがなかろうが大差はない。ゆえに個人でみれば選挙に行くことは損であるという見方ができる。
しかし社会全体でみれば、大勢の人が選挙に行かなくてはならない。でなければ民主主義が破綻してしまう。
勉強についても同じことが言える。
例えばこんな主張をしている人がいるとしよう。
勉強なんてしても社会に行って使わないし、俺には金が必要ないから、さっさと働けるところで働いて金を稼ぎたい、なのにどうして勉強なんてしなくてはならないのだろう。完全に時間の無駄ではないか。
個人単位でみれば、この主張は批判できない。むしろ、あなたの好きにしてください、といった感じである。
このように個人単位でみれば勉強は損にも十分なり得るのだ。
しかし、個人単位で勉強をすることを損、と思う人がいても、選挙と違って、その人は勉強せざるを得ない。勉強はするしない、ではなく、させられるものだからだ。
では誰が勉強させるのか?社会である。
義務教育、学歴社会、という社会のシステムがあるからこそ我々は、勉強をする本質的な価値、というものを無視して勉強する。
勉強というものを今度は社会単位で見てみる。
子どもたちを学校で勉強をさせれば、高度な職業につく割合も増え、自己の表現力も増える。子どもたちを強制的に学校に行かせれば、非行に走る子どもも少なくなり犯罪も減るはずだ。学校では校則を守る必要や、他人とのトラブルもあり、社会性も学べる。
まさにいいことづくしである。
では勉強をさせることをしないと、どうなるだろうか。
例えば学校という構造は残すにしても、そこでは好きにしていいことにする。これでは先程に挙げた職業の専門化にとってマイナスである。それに好きにさせてばかりだと、やはり誰かに従わなくてはならないという社会の基本を学ばせることに繋がらない。そもそも学校に行く意味があやふやで学校に行かなくなる生徒も増えるだろう。
このように、勉強をさせることをしないことでの損はたくさんあるのだ。
ここまで本題とズレたような話をして、何が言いたいか。それは、社会にとっては我々が勉強をするのは得だということだ。
これが我々が社会というものに勉強をさせられる理由なのである。個人間でみれば損得が分かりづらいが、社会でみれば損得がわかりやすいもの。それを社会が個人に半強制的に行わせる。これは大変合理的なことではないだろうか。
したがって、なぜ勉強するのか?という問いに対する答えは「させられる」から。
誰に、何のためにさせられるのか?といえば「社会に、社会にとって得であるから」させられる、のである。
余談だが、私は学歴社会、というものに対しては賛成だ。それは学歴社会が上のような勉強を半強制的にさせる社会システムを支える一因になっていると考えるからである。
当たり前のことを述べている、と感じられた方がおりましたら、申し訳ありません。私もそんな気がします。