第5話
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「うおっほっ、なんか、随分とあれだねぇ。ケガレだねぇ。ケガレだねぇ」
興奮した様子の狐狸丸が、ぴょこぴょこと跳ねながら嬉しそうにしている。長い髪が動きに合わせて軽快に揺れ、彼女の気分そのものを表しているかのようだ。
「穢れの進みが早いな。いくらか急ぐ必要がありそうだ」
一方の健は、狐狸丸のようにはしゃぐ気にはなれなかった。夜の校舎というだけでも不気味なのに、今はそれがえらい事になっている。
もちろん健は常人に比べれば経験豊富なだけに、人より耐性はあるが、しかし常識や感情をどこかに置き忘れてきたわけではなかった。
怖いものは怖い。当たり前の事だ。
「叔父貴を連れてくるんだったか…………いや、まだ難しいか。この前連れ出したばかりだ」
己の中の第六感が告げる危険信号から、そんな言葉が出てくる。しかし放置した場合の危険性を考えると、時期を空けるというのはためらわれた。
「化身のままじゃあただの人間だからねぇ。スサノオっておいしいかな? かな?」
「さぁな。昔ならともかく、神だぞ。ハレもハレだ。お前、晴れの気は食えないだろう。よし、行くぞ」
ふたりは慎重に昇降口を抜けると、下駄箱の前で佇む女子生徒らしき姿を横目に、目的地へ向けて進み始めた。場所は自分のクラス。沙希がクラスメイトである以上、当然だ。
「この様子だと、オシエの意味は学校で正解かね。何か事件でもあったのか?」
ねばつく足を持ち上げ、前へと進む。足を持ち上げる度に粘着質な赤黒い液体が糸を引き、下ろせば不快なびちゃりという音を立てる。
床は鉄で出来ている。
窓は鉄格子。膿でさび付き、血で洗われている。
遠くには黒い太陽が輝き、赤い空には雲ひとつない。
常人であればすぐにでも発狂しそうな光景だ。
「タスケテ――ネェ――タスケテ――」
格子の向こうから聞こえる女子の声。健はそれをちらりと見やると、「駄目だね」とつれなく返した。
「死者を救うのは神主や坊さんの領分だ。他を当たってくれ」
そう続けて言うと、女子生徒らしき女はしくしくと泣き始めた。潰れた顔から涙は流れず、千切れた腕では顔を覆う事もできないだろうが、しかし声だけは聞こえてくる。鎖に吊るされ、さかさまになった女子生徒は、ゆらりゆらりと揺れている。
「飛び降り自殺かなぁ? あんまケガレてないね。おいしくなさそう」
「マガツ気に当てられてるんだ。自殺者が皆こうなるんだったら、今頃世界中が化け物であふれ返ってるさ」
ゆっくりとした足取りで、先へと進むふたり。健は途中で職員室やら校長室やらを覗き込むと、密かに期待していたものが存在する事にいくらか安堵した。
「おっと、こっちは無理だな。反対側のを使おう」
上への階段に差し掛かった所で、踵を返すふたり。階段は壁も床も天井も、全てが親指程の大きさの蛆で覆われており、蠢くそれらを乗り越える気にはなれなかった。
「こっちは大丈夫そうだよー。タケルー、上まで競争しようぜー」
ひと足先に校舎逆にある階段に到達していた狐狸丸が、元気良く手を振っている。しかし運動全般があまり得意ではない健は、「勘弁してくれ」とだけ答えた。そもそも神の眷属たる狐と速さ勝負をして勝てる存在など、人類の中にいるとは思えない。
もちろんアホの狐狸丸相手であれば知恵を使えば何とでもできそうだったが、今そうしたところで何がどうなるわけでもない。無駄な労力を使うだけだろう。
「確かに大丈夫そうだな。これを見て大丈夫と言うのも、あれだが」
健は階段の1段1段それぞれの左右に立つ小さな丸坊主の子供に見送られつつ、上へ上へと昇っていく。途中で狐狸丸はそのうちの一匹をひょいと掴んで口を大きく開けたが、しかし不機嫌そうに取り止め、ただ握り潰すにとどめていた。
「放っておけば大禍津日になるな。東京で黄泉比良坂への道が開いたりしたら、大惨事じゃあすまんぞ」
神祇院の見立てでは、あとひと月は時間的に余裕があるとされていた。しかしこうして実際に足を運んでみると、健の経験上、半月も持たないのではと思えてくる。
「そーなったら、タケルのとーちゃんとかーちゃんも来るんじゃない?」
「そりゃあ、来るだろうな。神祇院の神主は全員集合だろ。ただ最終的になんとかなったとしても、それまでに結構な数が死ぬぞ。生徒は全滅。最低3桁確定だな」
「うへぇ。さすがにそれだとアマテラスが泣きそうだなぁ。また岩戸に篭ったらどうしよう」
「どうしようもクソも、そうなったら日本は終わりさ。考えるだけ無駄だ」
「ふぅん。ねぇねぇ、そういう時ってじっさいにお日様消えちゃうの?」
「んなわけあるか。火山灰だか核の冬だか、何らかの理由で日光の恩恵を受けられなくなるって形だろう。連中は因果律の外にあるから、表向きの原因と結果は別だな」
「いんがりつ? んー、何いってるのかわかんない」
「安心しろ。俺もさ」
ひとりと一匹は2階にたどり着くと、ひとつふたつと教室を数えていく。普段であれば目印にできる表札も、今はグロテスクな肉の塊と化していた。
そして目的地となる教室へたどりつくと、鉄格子の間から中を覗き込み、そこにヒントとなる何かがないかを探し始めた。
教室の中には、もちろん誰もいない。
人間は、という意味だが。
「ォゥ――ォゥ――」
床を這いずり回る、どろりとした赤子の群れ。
皮膚はまだらに剥げ、ぶよぶよとした薄黄色い肌を晒し、わずかばかりの毛髪が不気味に垂れ下がっている。全員が同じ顔をしており、目は真っ赤に染まり、鼻はなく、口は虚ろにくぼんでいるだけ。手足はあるが、不完全で、指の代わりに細い肉が木の根のように生えている。
「禍つ、禍つ…………こいつは凄いな」
健は鉄格子にへばり付いている膿と血に触れないよう注意をしつつ、良く見ようとそこに顔を寄せた。這い回る赤子は何か目的があってそうしているわけではなさそうで、それぞれがてんででたらめな方向へと体を進めている。ずりずり、ずりずりと、お互いを避けるように、何度も何度も交差点を行き交う人の群れのように。
「やはり水子だな。産婦人科をあたって――――っ!!」
全身に鳥肌が立つ。
赤子たちが急にぐるりと顔をめぐらせ、まったく同じ方向を見やったのだ。
それは健の方ではなく、隣にいる狐狸丸の方でもなく、もっと廊下の向こう側を見ていた。
彼らの視線を追い、首をめぐらせる健。
そこには、寺島沙希の姿があった。
「狐狸丸!!」
健が叫ぶやいなや、狐狸丸が沙希をめがけて走り出す。彼女は飛ぶような速さで少女の元へ行くと、背後から腹を抱えるようにしてひょいと持ち上げた。
「…………え? な、なに? こりちゃん? え? 学校? たけるさん?」
何が何やらわからないといった様子の沙希。答えてやりたかったが、しかし時間がなさそうだった。
赤子達が、沙希の方へと殺到し始めたからだ。
「逃げるぞ! 走れ!」
叫びつつ踵を返す健。元来た道を全力で駆け、階段へと向かう。すぐに沙希を抱えた狐狸丸が彼を追い越すが、しかしなぜか階段の前で止まってしまう。背後には、異形の赤子の群れが。
「タケル! 塩!」
狐狸丸の叫びに、健は走りながらもポケットを探る。目的の物を見つけた彼は、危うく取り落としそうになりながらもその小さな紙袋を空け、中に入った純白の粒をむんずと掴んだ。
「ハラエ、ハラエ、キヨメ、キヨメ」
健はぶつぶつと呟くと、狐狸丸目掛けて塩を放った。背中でそれを受けた彼女は、すぐさま階段下へと飛び降りていく。
次いで健が追いつくと、階段には行きで見かけた丸坊主の子供が、怯えたように這いつくばっている姿が見てとれた。ただし数は10倍にも増えている。それぞれは狐狸丸の通った場所から逃れるようにもがいており、なんとか道となっていた。
「運動は、あんまり、得意じゃ、ないんだが、ねっ!」
階段を飛ばし飛ばし急ぐ。踊り場を過ぎると、流れるように迫り来る赤子の誰かと目があった。そいつは後ろから来る赤子に押しつぶされると、楽しそうな笑い声だけを残して見えなくなった。
「タケル、どっち! 外でいいの!」
「違う! 校長室だ! 急げ!」
転ぶように階段下へと到着し、目的地へ向けて駆ける。駆ける。駆ける。狐狸丸が蹴り上げた血や膿が顔につき、腐った鉄の不快な臭いが鼻をつく。背後には手を伸ばせば届きそうな距離に赤子の姿が。
「つかまって!!」
校長室のドアから半身を出した狐狸丸が手を伸ばしてくる。健は「頼む!」とそれに向かい跳躍すると、手をしっかりと掴み、次いで強い力でぐいと部屋に引っ張り込まれるに任せた。
衝撃に続き体が回転し、勢いのまま壁へとぶつかる。
荒い息で入り口の方を見上げると、そこに集まる赤子の塊が見てとれた。見えない壁に阻まれ押し合い圧し合いとしている。
「けっこーぎりぎりだったね。靴、もってかれてたよ」
狐狸丸の指摘通り、靴が片方無くなっていた。ずれた靴下が脱ぎかけのそれのようにぶらさがっており、鋭い何かで裂かれて穴が開いていた。
「靴は神祇院に請求すればいいさ。それにしても、いや、助かったな」
健はその場で大の字に寝転がると、校長室は天井近くの壁を見上げた。
そこには、神棚があった。