第4話
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暗闇の中にぎょろりと光る、1対の目。
きょろきょろとせわしなく周囲を伺っていたかと思うと、途端にぴたりと止まり、そしてまた動き出す。それは蜜を求めてさ迷う蜜蜂のように、迷っているようで、しかし留まる目的地ははっきりとしていた。
視線が捕らえるのは、寺島沙希の姿。
血走った目は実に嬉しそうに弧を描き、にたにたと笑っている。
「もうすこし……まってて……」
か細い、期待と喜色を孕んだ声。目は飽きることなく、ずっと、同じようにしていた。
「シオノモノカズライエ、か。意味がわからんな。塩の者、葛家か?」
地元の商店街をぶらりぶらりと歩いている健。あいにくの空模様が手にした傘をノックし、不快な湿気が足元から伝わってくる。
「意味のない神託は出ないわよ。化身とはいえ仮にも大御神よ? 海外でなら知らないけど、日ノ本でそれはないわ」
健の隣を歩く眼鏡をかけた美女がはっきりとそう言った。手には買い物袋をぶら下げ、口に出さずとも「ちょっと買い物に来ましたよ」と周囲に知らしめる効果を持つ、つまりエプロンをつけたままの格好だ。
「わかってるよ。だとすると、呪文の類か? 現状では手の施しようがないな。神祇院に問い合わせてみるか」
ぼんやりと呟きつつ、本当の両親の姿とその職場を頭に思い浮かべる。
健の生みの親が今この時間も働いているだろう、内務省管轄は神社本庁が管理の組織、神祇院。1940年に作られた同名の組織は敗戦後にGHQによって解体させられているが、実際こうして今も存在しているところを見ると、解体したというよりは影に隠したと言った方が真実に近いようだ。
もちろん日本政府はその存在をおおやけには認めていない。というより、認めるわけにはいかないし、認めたところで国民からのバッシングを受けるだけだろう。
化け物や怪異が実際に存在し、それに対処するための組織です、などと説明ができるわけがない。少なくとも自然科学という宗教が幅を利かせている間は、無理だ。
「難しいようなら、次へ移ってもいいんじゃないかしら。神祇院からはいくつか候補が来てるんでしょう?」
知的な美人が、どうという事もなく発する。それに健は眉をひそめてみせると、首を振った。
「見捨てるというのは、いくらなんでもまだ早すぎる。さすがに後味が悪いよ。それに、わざわざ転校までしたんだぞ。いまさら引けるか」
「あら、意外。こだわるのね。もしかして美人?」
「うーん。美人かどうかを否定はしないが、こっちは君らのせいで美醜の基準がおかしいことになってるからなぁ。見た目で惚れるような事態は永遠に来ないんじゃないかね」
今もすれ違う男達の視線が、健の隣に露骨なまでに注がれているのが見てとれる。これが自分の彼女であったのならいくらか自慢気にも出来たかもしれないが、実際には単なる同居人に過ぎなかった。
そして書類上の、姉でもある。
「内面も含めて美人かって聞いたのよ。でもまだ数日じゃあわからないか」
どうやら自己完結したらしい姉はそう言うと、別段興味があったというわけではないのだろう、話は日常の他愛の無い話へと移っていった。
しばらく商店街を歩いていると、やがて店らしい店が消え、周囲は住宅街へと変わっていった。線路沿いの道は時折電車が前から後ろからと通過していき、騒音といくらかの水しぶきを残していく。
「そういえば、結局何にしたんだ。まさかカレーじゃないよな?」
健は手にした買い物袋を覗き込むと、嫌な予感と共にそう発した。それに女がいくらか不機嫌な表情を浮かべる。
「そのまさかだけど、何よ。ご不満?」
「う、いや、まぁ、うん。構わないさ。炊事担当に喧嘩を売るほど馬鹿じゃないよ」
どうやら嫌な予感は当たってしまったらしいが、極力顔には出さないよう努力する。健は目の前にいる美女の持つ料理の才能が抜群である事を知ってはいたが、しかしどうにもカレーやシチューといったものに関してだけは、いまだに慣れずにいるのだった。
「どーだかね。はてさて、荷物持ちご苦労様。玄関お願いね」
商店街からほんの10分程を歩くと、勝手知ったる我が家へと到着した。健は美女の要求に「あいよ」に答えると、いつものように玄関を開け、そして頭上へと手を伸ばした。
指先に触れるのは、注連縄。
すなわち、内と外とを隔てる、結界。
「ありがと。あー、体が軽い。やっぱり中津国は堪えるわぁ」
玄関に入るなり、姉が年寄りじみた台詞と共に肩をぐるぐるとまわし始める。手にしたままの買い物袋の重さを考えると、人間基準で考えれば相当な怪力と言えそうだ。
「お腹減ったでしょ。さっそく作るわね」
「あ、あぁ。わかった……」
ふたりは2階のリビングへ向かうと、いつものようにスマホに夢中なスサノオと編み物をしているアマテラスに軽く挨拶をしつつ、奥のキッチンへと荷を降ろした。
「それじゃ、俺は、あれだ。怪異の件でちょっとやらなきゃならん事が――」
いそいそとその場を立ち去るべく健はそう言った。が、その腕はがっしりと姉に掴まれてしまった。
「配膳くらい手伝いなさいよ。弟はお姉ちゃんを助けるものでしょ」
書類上の姉がにっこりと笑う。健はそれに苦笑いを返すと、これはもうどうしようもないなと覚悟を決める事にした。
「さて、それじゃあやりますかぁ」
腕まくりをし、にんじんやらじゃがいもやらといった食材を袋から出し始める姉。彼女はそれらをプラスチックのボウルへ移すと、それを口にあて、まるで力士が杯を飲み干すように、ぐいと持ち上げた。
「健、ずん、どう、おい、て」
ごくりごくりと、食材を次々と飲み込みつつ、姉が指示を出してくる。健は慌てて戸棚にあった大きめの寸胴鍋を手にすると、それを彼女の前に置いた。
「あり、が、とおぉぉぇろろろろろ」
礼の言葉を言い終える間もなく、女が鍋の中に吐瀉物を晒していく。健は反射的に目をつぶると、地獄の光景が終えるのを待った。
「おふっ…………ぉ……あい、オッケイ……げふっ……あぁ、カレー臭い」
眼鏡美人が寸胴鍋を押しやり、口元を拭った。健は「そ、そうか。お疲れ、ヒメ姉さん」と引きつりつつ労をねぎらうと、非常に複雑な心境のままリビングへ寸胴を運んでいった。
鍋からはカレー特有の香ばしい匂いがただよっており、煮込まれた具材は丸みを帯びている。肉は筋状にほぐれており、きっと素晴らしい味わいであるのは間違いなさそうだった。
大和月姫。ヒメ姉さん。本当の名はオオゲツヒメ。
神話では全身の穴から食材を吐き出す神だが、後ろにいる彼女は調理後のそれを吐き出している。聞こえる音から判断するに、今は炊いた米を吐いているところのようだ。
食材か、料理か。どちらの方がましなのか、正直健には良くわからなかった。
「お、今日はカレーか。うまそうな匂いだな…………おい健。まさか、下の口からじゃあねぇだろうな」
寸胴の中を覗き込んだスサノオが、その表情を喜色から不安へと変え、尋ねてくる。健が「上だよ」と答えると、ほっと安心したようだった。
「最初の時は、キレて殺しちまったからな。あぁいや、申し訳なかったとは思ってるんだぜ? でも何も知らないで食わされたらさすがによぉ……あれ、でもしれっと生き返ってたなあいつ……」
何やらぶつぶつと、誰に言うでもなくスサノオが呟く。健はなんとなく察すると、同情の視線を送ることにした。
「別にげろ吐いてるわけじゃないんだし、いいじゃん。りばーすりばーす」
いつの間にやらやってきていた狐狸丸が、スプーン片手にはしゃいでいる。健は腰を下ろすと、引きつる顔を抑えつつ、何かひと言いってやろうとするが――
「リバース…………もしかして、アナグラムか? そういう出方もあるのか?」
浮かんだ思いつきに、すくと立ち上がる健。彼は棚の上に置かれていたメモとボールペンを手にすると、占いで出た文字を書き連ねてみた。
「エイラズカノモノオシ。逆から読んでも意味は…………いや、待て。イラズ。要らずか? 開始が違うんだ。カノモノオシエ要らず。彼の者と読めるな。オシエ要らず。オシエ。教えか?」
誰に聞かせるでもないが、当然リビングには神々がおり、興味深そうに健の手元を覗き込んでくる。
「彼の者教え要らず、か。やっこさん、学徒なんだろう。偶然にしちゃあ出来てるな」
あご髭をこすりながらスサノオが言った。それに「矛盾してなぁい?」とアマテラス。確かに教えを受ける立場である学生であるなら、それが要らないというのは矛盾してると言えなくもない。
「占いだからな。そのものずばりは言ってないんだろう。それを踏まえても、女子高生の立場でこれに相当する何かは、そう多くはない。例えば学校、と捉えても良いはずだ」
健はいくらかの手ごたえと共にペンをぱちりと置くと、次にどう行動するかを思案し始めた。
もちろん、カレーは食べた。食べさせられた。
残念ながらというべきかはわからないが、美味だった。
ホラーやミステリーに重心を置いていないため、
いわゆるミステリー成分は超薄めです。どうかそこには期待しないでやって下さい。