第20話
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「ふん。くそまずいが、悪くはないね」
口に含んだ何かを咀嚼すると、それを飲み込み、そんなことを言った。喉元を何かが通り過ぎ、胃の方へと落ちていく。人の頭をスイカを食うように貪るのはいささか下品だったろうが、しかしどうでも良いことだった。
「お前も食うか?」
少し振り向いて尋ねる。狐狸丸は首を振って「んーん」と否定した。
「そうか。まぁ、お前にとってはあまり意味はないだろうしな」
健は小さくげっぷをすると、もういいやと女を無造作に解放した。どしゃりと床へおちた女は、しかし意識を失ったままだった。
「な、なんで……どうして、そんな……」
極度に怯えた様子の沙希が、座ったまま後ろへ逃げるように下がっていく。健はそんな彼女をつまらなそうに見ていたが、「あぁ」と思いついたように声をあげた。
「別に死にゃあしない。魂をいくらか食らっただけだからな。呪は還る。成就をしても、しなくても、呪は還る。彼女の魂は穢れてしまったのさ。俺が食っても食わなくても結果は同じ。だったら食った方がいいじゃないか。エコだ」
ぐったりとした女を見やり、そう吐き捨てる。沙希は理解しているのか、それともしたくないのか、悲痛な顔で小さく縮こまっている。
健はそんな沙希の様子をしばし眺めると、ふと視界がぼやけたのに気付き、目をしばたいた。胃が燃えるように熱く、頭がぼうっとし、なにやら足取りもおかしい。
「うーん、久しぶりだから、随分きくな」
健はふらふらと何歩か歩くと、座るというよりは倒れるようにして地べたへと横になった。素面であれば結構な痛みがあったかもしれない。すぐ傍では狐狸丸が健を見て実に楽しそうに笑い、沙希は怯えた目で見てきている。
「いいかんじに酔っ払ってるねぇ。あぁ、いつものことだから、だいじょーぶだよ」
狐狸丸が沙希へ向かい、何か弁解するように言った。沙希は「そこ!?」とでもいわんばかりの顔。そんな様子がおかしくて、健は声を出して笑った。
「あぁ、ご機嫌だ。明日には嫌になるほど吐くんだろうが、今はご機嫌だね。そうそう、明日といえば、明日には君は全部忘れてると思うぜ。嫌な事はきれいさっぱりと。だからそんなに怯えなさんな」
にこにこと、沙希へ向かって語りかける。彼女はひどくいびつな苦笑いをしていたが、別に健は気にならなかった。
「どうせ忘れてしまうから、話してしまおうか」
健はなんだかだるくなってきた体を大の字にすると、ゆっくりと回転する天井をぼんやり眺め見た。
「俺はね。昔、死んだことがあるんだ。あぁいや、憶えてないから、あるらしいが正しいのかね」
ぼそぼそと語り始める。正座をした狐狸丸が傍へ来たので、礼を言いつつひざを枕に借りた。
「神々の戯れにまきこまれてね。それで神主だった両親が神にあれこれ言って、生き返らせてもらったんだ。へへ、笑っちまうだろう? 神に文句を言ったんだぜ? 大した両親だ」
健の生みの親であり、しかし戸籍上はまったくの他人となってしまった両親の顔を思い浮かべる。もうしばらく会っていない。彼らは神祇院の中心メンバーとして働いており、健とは理由があって頻繁には会う事が許されていないのだ。
しかしふたりの事を今でも大事に想っているし、向こうもそう想っていると信じている。
健は寝返りを打って顔を横にすると、驚いた様子ではあるが、いくらか落ち着いたらしい少女の方を見た。
「だが、相手が良くなかった。マガツ、マガツ。ふたりの神様は俺に新しい心臓を作ってくれたんだが、それがとんだ欠陥品でな。半分を大禍津日が、残りの半分を八十禍津日が作ったせいで、穢れた心臓になっちまったんだ」
目線を落とし、右手を心臓の上へと置く。どくんどくんと力強い鼓動が伝わり、健は安堵の笑みを浮かべた。
「こんなに元気なのは久しぶりだな。こいつはケガレを食らって動く。放っておくと数ヶ月もしないうちに、止まる。だから俺は生きるために食わにゃならんし、食い続ける必要がある。知ってるか? 人間生きるためであれば、大抵の事が許されるんだそうだぜ」
別に誰に許される必要があるとも思ってはいないが、健はそう言って自嘲気味に笑った。顔のすぐ上では「えかったえかった」と狐狸丸がにこにことしている。
「そして心臓のせいで、あるいはおかげで、なのかね。不思議な世界に入り込んじまった。特典があるとすれば、せいぜい呪われても平気だってことくらいか。おせっかいな家族が増えたのは、まぁ、悪くはないかな」
家に居る神々の事を思い出しつつ、健はさらに「うん、悪くない」と重ねた。
彼らはきっと大部分は興味本位で、しかしきっとほんのちょっぴりは義務感や人間への愛で、家に住み着いているのだろう。好き勝手しているが、助けてもくれる。死んだ数日後に新しい家族だと紹介された時にはいくらか驚いたものだが、今となっては大事な家族だった。
それが例え監視のためだったとしても、だ。
ふと見ると、沙希から先程までの怯えた様子はすっかりなくなり、いくらか興味のありそうな顔つきへと変わっていた。健は踏みつけた紙片が消えていることに気付くと、心の中でアマテラスに少しだけ感謝した。
「俺は最初、君を見殺しにするつもりだった。その方が楽だし、危険も少ないからね。だからヒーローってわけじゃあない。君のことをせいぜい疑似餌としか思ってない、最低な男さ」
少女に告白する。健は怒られるかなと彼女の様子を見ていたが、しかしせいぜい困ったように引きつった笑みを浮かべるだけだった。あまり誰かに怒りを向けるような性質ではないらしい。
「しかしまぁ、なんだか消えた妹と重ねちまってね。ガラにもないことをした気がするよ」
健はいささか酔いの醒めてきた体を起こすと、立ち上がって伸びをした。そして狐狸丸に手をかして彼女を立ち上がらせると、目で合図を送った。
「俺には環っていう妹がいたんだが、俺の心臓が止まった日に忽然と姿を消しちまってね。死んだのであれば死体が出るはずなんだ。きっと今もどこかで生きてるんだろうな」
いつもと同じ、泥遊びをしている妹の姿を頭に描く。健が死んだのは13の時で、5つ離れた彼女は8つだったことになる。4年の月日でどれだけ姿が変わってしまったか、想像するのも難しい。
「そんな感じかな…………ん、酔いもさめたし、ここらでお開きにしようか」
健はぱんと手を打ち合わせると、そう言って狐狸丸に一枚の札を手渡した。
「さぁ、次に目が覚めれば君は布団の中さ。何も憶えていないし、何も見えなくなってる。生まれてからずっと生きていた世界だ。嬉しいだろう?」
沙希を見下ろしながら、しかし一歩距離をとった。代わりに狐狸丸が彼女に一歩近寄り、人差し指と中指で挟んだ札をぴっと振り上げた。
「え、えぇと、その…………忘れなくては、だめですか?」
何を思ったのか、沙希がそんなことを言った。しかし健は「さぁね」と肩をすくめてみせると、「俺の決めることじゃないさ」と冷たく言った。
「夢も現実も似たようなもの。だったら全てを悪い夢ってことにして、忘れてしまった方が良い。常世の世界なんか見えたって良い事なんてありゃあしないんだから。安心しな。ちゃんと家に送っておくよ」
健がそう言うと、沙希は抵抗する素振りをみせたが、しかし無駄な努力だった。狐狸丸が手にした札を放ると、沙希はたちまち眠りに落ちていった。
「はてさて、これにて一件落着かね。狐狸丸、今回もご苦労様」
眠った沙希を抱きかかえる狐狸丸へ、そうねぎらいの言葉をかける。彼女は健の方をちらりと見ると、視線を下ろし、健の胸のあたりを見た。
「また、いちだんとおいしそうになってるよ。こりまる、我慢できるか不安だなぁ」
いまにもよだれでも垂らしそうな顔。健は「へいへい、そーですか」とうんざりした調子で返すと、ふたり顔を見合わせ、そして笑いあった。




