第2話
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「ただいま」
誰かへ聞かせるためというよりは、ただ習慣として、自分に外の世界から帰ったのだぞという気持ちを切り替えさせるために、健は靴を脱ぎながらそう発した。
ついぞ5年程前に建てられたばかりの現代的な一軒家は、曲りなりにも東京都内であるそれら付近の相場から考えるに、それなりに裕福な家であると言っても差し支えないだろう。
別に凝った調度品が並べられているわけでも、床が大理石で出来ているわけでもないが、少なくともかなり広い家である事は確かだった。
ゆえに玄関も相応のスペースがとられており、そこには大小いくつもの靴が並べられている。男物はもちろんの事、女物もあれば、子供用の物まである。
何かおかしな点があるとすれば、健以外の人間がそこには住んでいないという事だろうか。
「ウズメか。まぁた脱ぎ散らかしてるな」
自由気ままに昼寝をするように散らばっている女性物の靴を、健はため息と共に丁寧に揃え置いた。後でお小言のひとつでも言ってやろうと頭に留めると、ふと鏡に映った自分と目が合う。
それなりに整ってはいるが、しかしあまり特徴のない、幼さの残る青年。
それが鏡に映った男への評価だった。
染められていないただの黒髪は、ほとんどの学校での校則に違反しない程度の長さで中分けにされている。成長期に伴い男らしくなってきてはいるが、まだその過程にあり、良く言えば中性的、悪く言えば中途半端な状態だ。
「…………つまらない顔だ」
何年か前まではそれなりにあった自分の容姿へ自信が打ち砕かれてから久しい。美少年だのイケメンだのともてはやされる事もあったし、有難いことにそれは今でもなくはなかったが、しかしどこか空虚に聞こえてしまうのも事実だった。
「本当の美形っていうのを知っちまうと、どうしてもな」
健は自嘲気味にそう呟くと、自分の自信を打ち砕いた元凶がいるであろう、2階のリビングへと向かう事にした。
「あら健ちゃん。おかえりなさい。新しい学校はどうだった?」
布切れと針を手に、リビングのソファでくつろいでいた様子の女性が、健の姿を見るなりさわやかな笑顔を浮かべた。
長い黒髪をアップで結わえたその女性は、そこに刺さる見事な意匠のかんざしに全く劣ることなく、それどころか色とりどりの宝石をして野暮な存在でしかないといわんばかりの美貌をもった、外見だけでいえば20台中頃の、驚くような美女だった。
ゆるりとしたワンピースから覗く肌は透き通るように白く、汚れや染みは当然の事、ほくろのひとつさえも存在せず、まさにこの世のものとは思えない程。女性らしさはもちろんだが、そのはにかんだような微笑みからは母性が溢れ、健は自分自身の心が作り出す勝手なまぶしさに思わず目を細めた。
「なかなかのものだったね。あれなら神祇院もそれなりに出すんじゃないかな」
健は先ほど学校で視た存在の事を思い出すと、そうまとめた。次いで玄関で見た光景を思い出し、「ウズメは?」と尋ねる。それに「今日は見てないわね」と美女が。健はそれに肩をすくめてみせると、女性の向かいのソファへと腰を下ろした。
「またあいつの靴が散らばってた。うるさく言うのはあれだが、心配になるよ」
「あらあら、そうなの。しょうがないわね。また私からも言っておくわ」
「頼むよ。と言いたいけど、どうせ聞きはしないだろうな」
「ごめんなさいね。でも悪い娘じゃないから。あら、そういえばあの子は?」
美女が小さく眉をあげ、不思議そうに首を傾げた。健は「あぁ、忘れてた」と彼女の指摘したそれを思い出すと、学生かばんの中を漁りだした。
そして取り出した、1本のペーパーナイフ。
それは旅行先の土産物屋で目にするような、日本刀を模した安っぽい作りの、実際1500円で購入した、まぁまぁ実用性のある紙を切るための道具。健はそれを特に感慨もなく眺めると、ぽいと机の横へ向けて放り投げた。
そして現れる、大男。
ほんの刹那の前まで何も存在していなかった健の傍には、圧倒的な存在感を放つ、2メートル近い長身の大男が立っていた。
男の体躯はがっしりとしており、筋肉質で、健の知る限りボクサーやアスリートの持つそれだった。癖のある茶色の長髪を髪ゴムで無造作にまとめ、尻尾のように後ろへ垂らしている。
短く揃えたあご髭があるも、顔は若々しく、精悍で、猫科の動物を思わせる美丈夫。飾り気のないジーンズにTシャツという色気のない格好をしてはいるが、世の女性をとりこにするに十分な男らしさと魅力が濃厚に感じられた。耳にぶら下がるピアスと首にかけられたネックレスが、お洒落といえばお洒落だろうか。
「あー、しんど。やっぱ長時間外出するもんじゃねぇな。姉ちゃん、飯は?」
凝り固まった肩と首をほすぐように回しながら、大男が無愛想に言った。それを受けた美女はキッチンの方を見やると、「もうすぐじゃないかしら」と答えた。
「それより、いい仕事になりそうって話じゃないの。ちゃんと働いて家に一杯収めるのよ。前みたいにところかまわず暴れたりは、絶対にダメよ」
きっと本人は必死に怖い顔を作っているのだろうが、しかし失敗しているとしか言いようのない、かわいらしく眉間に皺を寄せた美女。それに大男は「はいはい、わかってるよ」と頭を掻き毟った。そこに健が「別に構わないぜ?」と割って入る。
「ただ、君への小遣いが長い事減ったままにはなるだろうけどね」
大男に向かい、言い放つ。すると美丈夫は「勘弁してくれよ」と男らしい姿に似合わない泣き顔を見せてきた。
「来週からモンスターハンティングの2周年イベントが始まるんだぜ? 課金額がいくらになるか、想像もつかねぇんだ」
そこそこに有名なソーシャルゲームのタイトルを挙げてそんなことを言いつつ、居間に置かれたテレビの前へどかりと腰を下ろし、ゲーム機の電源を入れ始める大男。
その様子を見ていた健は大きくため息を吐くと、「さいですか」と呆れた調子で返した。次いで彼は時計を確認すると、3階へ向かうべくいくらか休まっただろう体を持ち上げた。用事は面倒になる前に済ませておくに限る。
「んもう、すぐゲームばっかりやるんだから。見てわからないの? お姉ちゃん縫い物してるのよ?」
「別にそのままやってりゃいいじゃねぇか。自分がやってるわけでもねぇのに画面と一緒に体が動くって、そうそういねぇぞ?」
「しょうがないじゃない。動いちゃうんだから。それよりその言葉使いどうなの。お姉ちゃん、そういうのダメって言ってるわよね。わかってる? そんなんだから、高天原を追い出されちゃったのよ?」
「へいへい、さーせんっした。天照大御神サマよ。つーか追い出したのねーちゃんじゃねぇかよ。他人事か?」
「そんなぁ。だって、だって、しょうがないじゃない。スサノオちゃんがそこらじゅうにあんなの撒くから、誰だって――」
3階への階段を昇る健の耳に、そんなリビングからのやりとりが聞こえてくる。健は一度足を止めると、今現在自分が置かれている奇妙な状況を改めて自覚し、なんだかなぁと天井を仰ぎ見た。
家に神がいる。
全うな人間が聞いたであれば、きっと正気を疑う事間違いない一節だろう。
しかし健にとってはまごうことなき現実であり、生活であり、そして契約だった。天照大御神に、須佐之男命。そしてその他数名も。彼らはここに住み、共に生活している。
誰が何と言おうと、それが彼の日常だった。
「アマテラスの神殿にうんこをばらまいたっていうあれ、事実か」
いくらかめまいを感じつつこめかみを抑える健。彼は頼むからこの家ではやらないでくれよと祈りつつ、再び上へと昇り始めた。
なお日本が誇る最高神アマテラスが手にしていたのは、次のコミケで彼女自身が着るためのコスプレ衣装らしい。
何のコスプレだかはもちろん知らない。
興味もない。
「おぉ、健殿。お帰りなさい。どうされましたか?」
暗がりの中、パソコンのディスプレイの光を受け、ぼうっと浮かび上がる男の顔。健はドアノブから手を離すと、部屋の電気を入れるか入れまいか悩み、結局そのままにする事にした。
「いや、ちょいと頼みがあってね。調べて欲しい事があるんだ」
健はデスクチェアにあぐらをかく男の傍へよると、学校でしたためておいたメモの切れ端を手渡した。
「ふーむ。これでござるか。まぁいつも通り、拙者ならやれん事もないですぞ」
厚みのある眼鏡をくいと押し上げ、得意げな表情を浮かべる男。額には「ウズメちゃん命」と書かれた鉢巻が巻かれており、ディスプレイ上には若い少女が何かのステージ上で歌を歌っている動画が再生されていた。
「その言い草だと、何か交換条件が?」
健の問い。それに眼鏡の男が「ぐふふ」と忍び笑いをもらす。
「わかりますか。いやいや、やはりわかりますか。さすが健殿といわざるをえませんぞ」
「そいつはどうも。んで、またウズメちゃんグッズとかそういうの?」
「おほっ、残念ながら違うでござるよ。拙者、世にあるウズメグッズはほとんど収集済みでありますがゆえ。侮ってもらっては困りますな」
「あー、そうですか。じゃあ、何だ」
「拙者、新しいパソコンが欲しいでござる」
「却下だ」
「なっ! で、でしたらせめてグラボを交換させて欲しいでござる! VRでのウズメちゃん動画を! 買ったら健殿にも見せてあげるでござるよ!」
「いや、悪いが興味ないな。だがまぁ、今回の件が片付いたら、あまり高くないのならな」
「ま、まことでござるか! 約束ですぞ!」
興奮した様子でそう叫ぶと、すぐさまパソコンへ向かい、何やら激しい勢いでキーボードを叩き始める男。健はその様子にいくらか満足すると、次にやるべき事を思い描きつつ、その場を立ち去る事にした。
「それじゃあ頼んだぜ、オモイカネ。大事な事なんだ」
知恵の神にそう声をかけ、部屋を出て行く。部屋の中からは、キーボードからの心地よいタイプ音が響き続けていた。
「ぉ――ぁ――ぁ――」
少女の足に絡みつく、無数の手。絡みついたその手は厭らしくうごめき、ねじれ、上へ上へと目指そうとしている。
「昼間の彼、ちょっと美形だったなぁ」
今日付けでやってきた転校生の事を思い出し、恥ずかしそうに微笑む少女、寺島沙希。独り言と言うには結構な大きさの声だったが、学校帰りの荒川沿いの土手道は人もまばらで、誰に聞かれるという事もなかった。
「でも、変な人だった」
沙希は転校生の発した言葉からそう決め付けると、小さくうふふと笑った。きっとお世辞や冗談の類だろうとわかってはいたが、それでも嬉しいものは嬉しい。
上向きの気分に合わせてか、帰宅の足取りも軽い。少女は若干スキップになりそうな足を押さえつつ、家への道のりを歩いていく。
「ぁ――ぁ――」
しかしそうしている間にも、手は上へ上へと、ゆっくりと、だが確実に昇り続けている。なめくじが這うよりもずっと遅いが、けれども決して止まっているわけではない。
昼間は足先を這いずり回っていたそれらも、今はもうくるぶしの辺りまで来ている。
「ア――マァ――」
絡み合った手がぼこりと膨らみ、破裂しては膿をさらす。そんな事を繰り返していると、やがて膿は塊となり、うぞうぞと蠢き、そしてとうとう人ならざる何かの顔となった。
「まんまぁ」
生まれ出でた顔が嬉しそうに声を上げ、にたにたと笑った。