第18話
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「たける、さん……」
寺島沙希の弱々しい声。彼女は部屋奥にあるピアノの上に寝かされ、何か薄汚いくもの巣状の膜で張り付けにされている。彼女はなんとか顔を横に向けると、健達の方を見上げるようにした。顔は青白く、生気がない。
その傍にはすらりとした長身の女性が立っており、柔らかい笑みで沙希を見つめていた。袖の無い真っ赤なワンピースを着ており、手足は病的に白く、顔はやつれ、目は真っ赤に血走っている。腰近くまである髪が顔の半分を覆い、風がないにも関わらずゆらゆらと揺れていた。
「さきちゃん、さきちゃん」
愛しい何がしかに語りかけるように、女はゆらゆらと揺れている。足元には赤い血の池ができており、出所は擦り切れた素足からのようだった。皮が破れ、爪ははがれ、まるでおろし金の上を歩いてきたかのよう。
「悪いがそいつを返してもらえないかな。それは君の子じゃない」
女に向かって語りかける。すると女は揺れる体をぴたりと止め、目線だけで健の方を見てきた。開ききった瞳孔と目が合う。
「おまえ、おまえは、お、おまえは、おまえは」
早口でまくし立てつつ、女がぎこちなく首をかしげ、それが直角にまで倒れる。首の間接が外れるごきりという音が部屋に響き、防音加工された壁へと消えていった。
「常世で誰かと会うのは初めてかい? 不思議だよねぇ。まだ呪が成就していないのに、干渉されてるんだから」
挑発的な笑みを浮かべつつ、一歩前へ出る。踏み出した足に赤ん坊が両腕で絡みつき、そいつがにたにたと笑った。気付けばそこらじゅうに異形の赤子がおり、禿げ上がった頭をゆらゆらと揺らしている。
「あ、あ、あのひと、あの、あのひと、あのひと」
女が健に向かって手を伸ばし、見えない何かを掴もうとするかのように動く。すると体が前へ吸い込まれるように強く引かれ、健は慌ててたたらを踏んだ。踏み潰された赤子が絶叫と血糊を残して消えていく。
「俺は、谷岡先生じゃあ、ないぜ。そんな、歳に、くそっ!」
体を後ろに傾け全力で踏ん張っていても、床をずりずりと向こうへ引かれていく。健は悪態と共に体を後ろへひねると、伸ばされていた狐狸丸の手を掴んだ。
「たけるー、さっさと殺っちゃえばぁ?」
涼しい顔で健を引き寄せつつ、狐狸丸が嫌な提案をしてくる。健は「ふざけろ」とそれを拒否すると、少しばかり考え込んだ。
呪の元を消しても、呪いは消えない。
問題はそこだった。すなわち今の状態で女を殺しても、呪いはいずれ成就することになる。沙希に訪れる悲惨な運命は変わらない。かけられた呪いは消えるということがなく、ただあり続けるものだ。
だから健はこういった場合、いつもは呪いが成就した後に行動を起こしていた。負の願いが叶った場合、わかり易く結果が現れる。呪の元を特定するのも、それを消し去るのも、そうであれば実に楽だ。
しかし今回はわざわざ面倒で危険な真似をしてまで、成就前での行動を起こしている。今更諦めるというのはいくら何でも馬鹿馬鹿しい。
「呪は消えず。されど動かぬ訳も無し」
自身へ決心を促すため、ぼそりと呟く。健は女に向かい指を突きつけた。
「お前の子はここにはいない。黄泉を探せ」
健の言葉に女が髪を逆立てる。
「わかるか? 死んでいるんだよ。既に向こうでの食事も済ませてるはずだ。ヘグイ、ヘグイ。ヨモツヘグイだ。黄泉ツ竈食イは還れない」
なおも言うと、女はとうとう激情の叫び声をあげた。空気が振るえ、置かれている楽器の数々が身勝手な共振を起こす。不快な旋律が耳をつき、健は顔を強くしかめた。
「あかちゃん、わたしの、うまれなかった、わたしの」
自らの腹に爪を立て、悲しそうな顔で憎悪の笑みを見せる女。既に顔は人間の持つそれではなく、皮膚のない、血管と筋肉が浮き出た、目玉の代わりに虚ろな窪みだけがある、口の裂けた化け物と化していた。体は巨大化し、膨れ上がり、千切れた赤いワンピースが申し訳ばかりに首から垂れ下がっている。
化け物はひとつ大きく鳴くと、ピアノに縛られた寺島沙希へと顔を向けた。
「いま、うんで、あげる」
そして不気味に尖る爪を持った手を、そろりそろりと彼女の方に伸ばしていく。見た目にそぐわず臆病で、ひどく緩慢な動き。口元には幸せそうな微笑みの歪み。
「ここは常世、ここは隔世。現世の命は長くはもたない。やめておくといい。君は――」
女は健の言葉など聞こえてはいないとばかりに、両手で沙希の頭を包み込んだ。目を閉じてただ震えているだけの沙希に首に爪が食い込み、そこから血の筋が流れる。
「――2度目の流産がお望みか?」
瞬間、化け物の体が跳ねた。気付いた時には健の目の前に虚ろな瞳があり、その真っ黒な口が大きく開かれている。焦点を合わせる合間すらなく、黒くぼやけたみっつの丸が。
「――――っっ!?」
しかし化け物は見えない壁にはじかれるようにして、血反吐を吐きながら一歩二歩と後ずさった。手足が焼け、いやな匂いのする煙が昇っている。
部屋の壁には手のひら程度の大きさの紙片が貼り付けられており、それが神々しく発光している。それはわざわざ沙希の忘れ物をとりに来たなどと嘘をついて仕掛けた、アマテラスお手製のお札だった。
「マガツ、マガツ。八十禍津日を恨め。大禍津日を恨め。お前を穢した神を恨め。呪は還る。黄泉の赤子も呪われるぞ」
化け物が咆哮をあげ、腕が焼けるを構わずに突き出してくる。健はそれを左手で受け止めると、爪が手の甲を突き破り、そこからどす黒く変色していく様を見やった。
「原因はいじめか? 若い真面目な先生の事だ。自分の受け持ったクラスでいじめがあったとなれば、さぞかし気を揉んだ事だろう。お前につらく当たったか? それともただふさぎ込んだのか? いやいや、平然としていたかもしれないな」
黒への変色が手を覆い、手首へ、腕へと迫る。強烈な痛みはあるが、健はただただ言葉に意識を集中した。
「けれどそのどれであっても関係がない。お前がそうだと決めたそれが流産の原因さ。逆恨みとはそういうものだ。告発したその娘が憎いか? そりゃあそうだろう。蓋をあけてみれば被害者らしい被害者がいないんだ。余計な事をしやがってと思うのが人間ってやつさ」
既に手に感覚はなく、変色はどこまでも昇ってくる。痛みの先を追えば、それはもう肩のあたりを越えているだろう。
心臓まで到達すれば全てが終わりだ。
恐怖と怒りと哀れみが混濁する思考の中、健はいよいよ大詰めだと大きく息を吸い込んだ。彼は一瞬だけ目を閉じると、化け物の方へずいと身を寄せ、言った。
「あの娘にいじめを告発しろと言ったのは、俺だ」
化け物が叫び、腕を振り上げ、健はかけられた爪に引かれるがままに放り投げられた。不恰好に回転し、どう受身を取って良いかすらわからない。世界はまわり、地面は遠い。
やがて不愉快な浮遊感が訪れ、しかし衝撃は柔らかいものに終わる。健は「ありがとよ」と彼を受け止めた狐狸丸に礼を言うと、「だが離れろ」と彼女を突き飛ばした。
健はふらつく足のまま少しだけ前へ進み、そこで立ち尽くした。そして次に訪れるものを予期し、身構える。嘘をついた責任を取らねばならない。
「――、――――、――!」
化け物の口に紡がれた、呪いの言葉。それはまるで実像をもったように宙を舞い、激しく周囲を荒らし、赤い光を放ちながら踊り狂った。
やがて同じものが寺島沙希の体からも発せられ、それらは融合し、増幅され、力をもった言葉として健へと襲いきた。彼は無抵抗でそれを受け入れると、視える怨嗟の念が自分の心臓を貫くさまを見守った。
「………………」
無言で立ち尽くす健。狐狸丸。そして化け物。
まるで勝ち誇ったように嗤うは異形の者。
「…………んー、何度やっても慣れないな」
強張った体をほぐしつつ、健がぼんやりと言った。彼は首をこきこきと鳴らし、肩をまわすと、意地悪い笑みを浮かべた。化け物は不思議そうにその様子を見ている。
「じゃあ――」
腰元に手をやり、必要なものを握る。条件は全て揃い、もう遠慮をする必要はなくなった。呪いは既に健の元にある。
「――死ね」
ほんの小さな刀を、宙へと放った。
それは地面へ落ちる前に青い光を放つと、大男へと姿を変えた。半裸の男は長く縮れた髪を無造作に垂らし、胸に勾玉の連なりを揃え、手に持つは天叢雲剣。
憤怒の表情を浮かべ、体は力強く、何者をも寄せ付けぬ神々しさを身にまとっている。その荒神たる存在感はその場の全てを圧倒し、それはまさしく神だった。
「断ちて、在らじ」
須佐之男命は手にした剣を無造作に振るった。それは化け物の体を切り裂くと、鉄の壁を貫き、大地を穿ち、世界をたやすく断ち割った。
赤い空に穴が開き、黒い太陽がひび割れた。
大地は揺れ、風が吹きすさび、全ての怪異が怨嗟の悲鳴をあげた。
そして世界は、消え去った。




