第12話
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「ただいまっと……ん? お客さんかね。珍しい」
音楽室でのひと仕事の後に家に帰ると、健は玄関にて見慣れない靴の存在に気付いた。男物の黒のローファー。下駄でない事から、少なくとも父ではなさそうだと判断する。
「桐の匂いがするよ」
健背後から狐狸丸が言った。彼は「なるほど」と頷くと、「神祇院からだな」と納得した。
神職の履く桐材の靴は普段使いには明らかに適さないため、関係者はこういった場合には桐の木屑を靴底に忍ばせているものだった。
「オモイカネから進捗は伝わってるだろうから、それかね」
健は怪異に接触した場合、その経緯をできるだけ神祇院に伝えるようにしている。自分ひとりで抱えて手に負えなくなる事態は極力避けたい。
「さーね。こりまるあの人苦手だから、ウズメちゃんと遊んでくるね」
とててと廊下を小走りに行く狐狸丸。健は「はいよ」と答えると、ひとりで2階へと向かった。
「あらぁ、おかえり健ちゃあん。お邪魔してるわぁ」
リビングへ上がると、サングラスをかけたスーツ姿の男に出迎えられた。神祇院に所属するその男の名は坂巻潤一郎。42の働き盛りで、確か都内にある小さな神社で神主をしていたはずだと健は記憶している。
「坂巻さん、お久しぶりです。学校の件ですか?」
健はソファに座る坂巻の対面へ腰掛けると、そう切り出した。坂巻は「そうなのよ」と頷くと、白髪の混じったオールバックを撫で付けた。
「うちの連中も何人か監視させてるんだけど、今回のは随分早いじゃない? ちょっと心配になっちゃってぇ」
健の記憶通りの喜色悪い声。彼は自身を女性側に立たせる形の同性愛者であり、いわゆるオカマと呼ばれる類の人間だった。高身長、厳つい体格、髪型、サングラス、スーツと、現在の見た目は完全に反社会勢力を想像させるそれだが。
「そうですか。こちらは何となく見当がついてきた所なんで、なんとかなるとは思います。確約はできませんが、恐らく」
健なりに現状をそうまとめ、述べる。それに坂巻が「あらぁ」と自身の頬に両手を重ねた。
「そうなの~? あぁん、早とちりしちゃったかしら。祝詞をたしなめちゃったのよぉ。250枚も書くの大変だったんだから」
「一切成就祓ですね。神祇院は動くつもりなんですか?」
「う~ん、場所が場所じゃない? 下町といっても東京だし、上はそのつもりみたいよぉ。具体的には後り1週間でゴーサイン。健ちゃん、いける?」
「1週間ですか。うーん、どうでしょうね。いくらか納期が縮みすぎな気がしますけど」
あごへ手をやり、それとわかるように不満げな様子を見せる。
健自身としては1週間もあれば大丈夫だろうと考えていたが、別にそれを知らせてやる必要はない。世の役に立つ何かをしているという自負はあったが、しかし慈善事業ではないのだ。
生みの親からの継続的な仕送りはあるものの、やたらと多い家族のせいで家計は常にぎりぎりを走っている。ぽつりぽつりと来る神祇院からの仕事をこなせないと、かなり厳しい事になるだろう。
つまり生活がかかっているのだ。
「う~ん、やっぱりそうよねぇ。元々ひと月だものねぇ。ちょっと上乗せできないか、上と掛け合ってみるわぁ」
坂巻が考え込みつつ言った。健は内心ではもろ手を上げつつも、「お願いしますよ?」と顔は心配そうなそれを維持した。
「まぁ、気持ちが乗る程度だとは思うけどねぇ。ところで健ちゃん、今日はスサノオ様はいらっしゃらないの?」
階段や台所の方を見渡しながら坂巻が尋ねて来る。健はどうだろうかと坂巻と同じようにすると、カウンターキッチンの裏に小さく隠れるスサノオと目が合った。
「……!!…………!!」
無言ではあるが、激しく否定のジェスチャーをしているスサノオ。それなりの年の体格の良い美形が縮こまっている姿が、なんとも哀れみを誘う。健はどうしようかといくらか考えた後、「いないみたいですね」と嘘をつくことにした。
「あぁん。残念だわぁ。それが楽しみにここへ来てるのにぃ。あの神々しいお顔を見てるだけで、もう、潤一郎は堪らなくなっちゃうの」
体をくねくねと、オーバーにぶりっ子をする坂巻。健は「あはは」と苦笑いをすると、無言でスサノオに「貸しだぞ?」という視線を送った。頷いている事から、きっと伝わったのだろう。
「しょうがないわ。今日は帰るわね。あぁそうそう、健ちゃん」
坂巻は手をひらひらとさせつつ鞄を手に立ち上がると、テーブルに手をつき、健の方へずいと顔を寄せてきた。
「250枚ってトコで気付いたと思うけど、神祇院は結界を張るつもりよ。対象を助けたいのなら、急ぎなさいね」
にやりと笑う坂巻。それに「わかってますよ」と健。
顔に笑顔を浮かべて余裕を見せたつもりだが、しかしうまく出来てるかどうかはわからなかった。
「おはよう……ございます……」
翌日の朝。いつも通りの時間に教室へ到着すると、げっそりとした表情の沙希にぼそぼそと挨拶をされた。窓と窓を挟む柱にもたれかかるように頭を預けており、目はとろんとしていた。そのあまりのやつれ具合に「大丈夫か?」と尋ねると、弱々しい笑みが返された。
「昨日、あんまり寝れなくて。何かが上に乗ってるような気がして、体が重いんです」
腕を逆の肩へまわし、凝った体をほすぐようにしている。健は「ふむ」と気のない返事をすると、沙希の手の向こうに見える異形の赤子を見やった。
ぶくぶくと太った赤ん坊は醜く、正視に堪え難い程だった。目と口はあるが鼻がなく、耳もただの穴が開いているだけといった様相。盛り上がった血管がそこらじゅうに蔦のように這い、むき出しの白い肉の体を脈動させている。
赤子は健と目が合うとにたぁと楽しそうに笑い、その年頃にはあまりに不釣合いな牙を口元に覗かせた。
「ハラエ、ハラエ。見えちゃいけないものが見えてるわけだからな。緊張やストレスから体が強張ってるんだろう」
大したことはないさと、そう嘘をつく健。沙希は「そうなんでしょうか」と発したが、健の言葉を信じている風ではなさそうだった。というよりも、だるくてどうでも良いといった感じだ。
「まぁ、もう少しの辛抱さ。あと数日もすれば良くなる…………あぁ、そうだ」
健は思い出したように鞄をごそごそとあさると、小さめの紙袋を取り出し、それを彼女の机の上に置いた。
「ごちそうさま。うまかったよ」
紙袋の中身は畳まれた巾着と弁当箱。沙希は中を覗き込むと「わざわざ洗わなくても」と力なく笑った。
「そういうものなのか? こういうのはもらったことがないから、勝手がどうもね」
これは本当だった。誰かと仲良くしたいという欲求が他人よりもいくらか薄めな健は、例えば恋人や親友といった、そういった深い関係というものの経験がなかった。
もちろん必要であれば誰かに接近し、その心を開くべく努力する事はあるが、それは一方的なものだった。結末が常に良いものであるならばともかく、現実はそうでない事も多い。
仲良くなれば、別れもまた辛い。
「とにかく、気力でも何でも構わないからもう少し踏ん張るといい。きっとその価値はあるよ」
健はそう言うと、「それじゃあ」と彼女の席を離れようとした。すると服の裾が掴まれ、沙希から「待って」と声がかけられる。
「これ、今日の分です。お昼はちゃんと食べないと、駄目ですよ」
沙希が鞄から巾着に包まれた弁当を取り出し、渡してくる。健はぽかんとした顔でそれを見ていたが、やがて少し怒ったような顔で受け取った。
「今回は有難くもらうが、もう作らんでいい。ちゃんと報酬は別の所から出るから心配するな。君は自分の事だけを考えてろ」
健は突き放すようにそう言うと、弁当を手に自分の席へと向かった。周囲が何やらざわついているようだったが、それはあまり気にならなかった。
「あの憔悴した状態でよくもまぁ。馬鹿な女だ」
椅子につくと窓向こうを眺め、むすっとした顔のまま口の中で呟く。
昨日食べたそれを思い返すに、弁当の中身はそれなりに気合の入ったものだと思われた。そうであるなら、あの状態で作るのはさぞかし手間だったことだろう。そしてそれを考えると、なんだか無性に腹が立って来る。
何に対しての感情なのか、誰に対しての感情なのか。それすらもわからないが、とにかく頭にくる。
健は弁当を鞄の中に放り込むと、小さく舌打ちをした。
窓向こうを眺める視線の先にはぼんやりと、懐かしい少女の姿が浮かんでいた。




