第10話
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「ねーねー、たける。実際のとこ、沙希ちゃんどんな感じー?」
頭後ろで手を組んだ狐狸丸が、あまり興味がなさそうに言った。
喫茶店での会話の後、沙希を彼女の家まで送っていった健と狐狸丸は、彼女が普段通学に使っているというルートを通り、学校までの道のりを歩いているところだった。
「さぁねぇ。あまり学校に近づかないでいてくれればいいんだが、それは難しいだろう。親に何て説明すりゃいいかわからんだろうしな」
すっかり日が落ちた宵闇の中、月明かりを頼りに広い土手の上を歩く。左手に目をやると街灯やビル明かりを反射する荒川のきらめきが見てとれ、ほんの触れるような風が体をすり抜けていく。
「まぁ、そだよねぇ。一応なんだかんだ理由つけて休めばーって言っといたけど、本人もまさかほっときゃ死ぬかもなんて思ってないだろーし」
「別に死ぬとは限らんぞ。依代にされるだけかもしれんし、気が狂う程度で済むかもしれん」
「同じようなもんじゃないか。体が死ぬか、心が死ぬか。僕はどっちもゴメンだなぁ」
「まぁな。同感だ」
健は呪が完全に出来上がってしまった場合にどうなるのかを、寺島沙希にはあえて教えていなかった。それは今までの経験上、そうすることでろくでもない結果になる場合がほとんどだったからだ。
大の大人でさえ、余命数日から数ヶ月と言われれば、相当なショックを受ける。取り乱す程度なら良いが、時には自暴自棄になったり、耐えられず自ら命を落とす者さえもいる。
それがましてや、ただの女子高生である。とても言えたものではなかった。
「そういえばお前、今回の件に関してはやけに食いつくな。そんなにあの娘が気に入ったのか?」
「ん? 沙希ちゃん? いい娘だよ?」
「それは知ってるが、別に今回に限った事でもないだろ。食いたいのか?」
「いやいや、こりまるはハレの狐だよ? マガツ娘を食べたりはしないよー」
「そうか。最悪マガツヒに魅入られるようだったらお前に食わせる案も考えてたんだが――」
「うぇ!? ほんと!? いいの!?」
「嘘だよ。駄目だ。やっぱ食いたいんじゃねぇか」
「うぐぅぅううう!! 今のはずるっこだぞ!!」
両手に力を込めて屈みこみ、いかにも怒っていますといった様子を全身で表現する狐狸丸。うなり声をあげる口元には犬歯と呼ぶにはいささか大きい牙が見えており、健は少しだけぞくりとした。
「まぁ、せいぜい間に合うよう頑張るさ…………うーん、これはおかしいな」
立ち止まり、後ろを振り返る健。狐狸丸は周囲をきょろきょろと見回すと、「なにが?」と首を傾げた。
「見晴らしが良すぎるんだ。ここを堂々とストーキングなんてできるか?」
土手は広々としており、昇降用の階段やスロープが設けられる程度には高さがあった。街灯は等間隔にきちんと設置されており、東京の町明かりは星を見えづらくするほどに明るい。今こうして夜の時間に歩いていても、かなり遠くの人影ですら視認する事ができた。
「こりまる、出来るよ。匂いでも追えるし、とーくからでも見える」
「お前ならな。つまり、そういう事さ。恐らくストーカーも同じだろう」
「堂々とついてきたとかは?」
「この人通りをか? 目立ってしょうがないぞ」
土手沿いはジョギングやサイクリングのコースとして人気があるらしく、およそ途切れる事なく誰かの目がそこにはあった。
もう少し早い時間ならそういった人々の数も減るかもしれないが、代わりに帰宅する学生の数が増える事となる。無人かそれに近い状態になるのは、かなり限られた時間だけだろう。
「冬服に、帽子と、サングラス。そして挙動不審と。通報されてない方がおかしい。だが警察は何もせずに帰した。つまりそういった報告はなかったという事だ」
「うーん、たまたまじゃないのぉ? ツーホーとか、するぅ?」
「俺だったらするな。昼間だったらまだしも、夜近くにサングラスだぞ。怪しいなんてもんじゃない。漫画みたいだ。それに――」
健は右手に見える町並みをざっと見ると、目的のものをいくつか見つけ、順に指差した。
「あれは小学校。あっちは中学校。あれは幼稚園か、もしくは保育園。我々の通う私立北葛飾高校の主要通学路でもあるし、住人の目は敏感なはずだ」
ただ女性に道を聞いただけで通報されるような事がある昨今、もちろんそれは特殊な例ではあるだろうが、人々の防犯意識が高まっている証左でもある。その中を沙希が言うように、怪しい人物が複数回にわたってストーキングを行った、などとはとても思えなかった。
「にゃるほどねぇ。つまり、沙希ちゃんにだけ見えてたってことかぁ」
腕を組み、うんうんとわかったような顔で頷いている狐狸丸。それに「たぶんな」と返事をすると、健はスマホの画面を開き、沙希から聞いた通学コースを確認した。
「土手を降りるのはここか。あの道を通り、学校までは一直線と。ふむふむ」
スマホ上の地図と現実のそれとを照らし合わせ、道を確認する。一昔前まではきっと面倒だったろう道案内のメモも、今はただスマホ上の地図をなぞるだけで出来る。楽なものだ。
「何かあるとすればこの付近一帯かね。いざない、いざない。うまくいくといいんだが」
健は満足感と共にそう呟くと、踵を返し、自宅へと帰る事にした。とりあえずの下見としては、これで十分であろうと。
「健さん、おはようございます」
翌日普段通りに登校すると、自分の席へ向かう健に沙希から声がかけられる。健は片眉を上げて彼女の方をちらりと見ると、「おはよう」と無愛想に返し、そのまま自分の席へとついた。
「ま、待って下さい。えっと、その……」
沙希が健の席までやってきて、なにかそわそわとし始める。寝不足なのか目にはくまが出来ており、若干やつれているようにも見える。
「うーんと、そうっ、天気! いい天気ですね!」
まるでとんでもない名案が閃いたとばかりに、顔を輝かせて発する沙希。健は窓向こうをちらりと確認すると、「曇りが好きとは珍しい」とだけ言った。
「あっ、えっと。曇って、ますね。あはは……」
しょんぼりとうな垂れる少女。周囲には珍しいものを見たといった様子の目が数十も集まり、健は居心地の悪さから身じろぎをした。
「不安なのはわかるが、まだ大丈夫だよ。いよいよまずいとなれば、君にだってすぐにわかる位の変化が起きる。今は普段通りにしてるといいさ」
身を乗り出し、ひそひそと伝える。沙希は細かく何度もうんうんと頷き、「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせはじめた。
「そんなに怖いんなら、学校を休めばよかったろうに。なんで来たんだ?」
「なんでって……うちは共働きです。昼間は家に独りになっちゃうじゃないですか! 耐えられません! 無理です!」
「そ、そうか。わかった。わかったから、大声を出さないでくれ。まだ時間があるから、ちょっと向こうへ行こう」
席を立ち、沙希を連れて廊下へ向かう。背後からは冷やかしの声やら何やらが届き、うんざりとした気持ちで一杯となる。
「君は、あれだな。狐狸丸タイプの人間だな」
「こり、はい?」
「いや、何でもない。こっちの話さ」
健は心の中で沙希を俗に言うポンコツにカテゴライズしつつ、少し歩き、人通りの少ない階段付近の空きスペースへと向かった。
「…………え、ここ、ですか?」
沙希が顔を引きつらせ、冗談ですよねといった様子で尋ねてくる。「そうだが?」と返す健に、「やめましょうよ」と沙希。健は少女が気にしているらしい踊り場の隅へ目をやると、体育座りでゆらゆらと揺れている老人に向かい、あごをしゃくった。
「あれは大丈夫だ。別に君に危害を加えたりはしない。というか、今まで君はああいったのと一緒に生活をしてきたわけで、今更何だというんだ。これ前にも言わなかったか?」
「見えるのと、見えないのとでは、大違いです!」
「そうかもしれんが、いちいちびくびくとしていたら身がもたんだろう」
「そ、それはそうですけど……」
ちらちらと老人を見つつ、口ごもる沙希。健は老人と沙希との間に割って入ると、何やら文句を言っているらしい老人を無視して、「今日は部活は?」と当たり障りのない質問をした。
「はい。あります。やっぱり、休んだ方が良いんでしょうか?」
「出来ればね。しかしまぁ、今日は構わないよ。こっちも野暮用があって遅くまで学校にいるつもりだ。部活終わりくらいなら、まぁ、大丈夫だろう」
「本当ですか? ありがとうございます。今日は講師の先生が来る日なので」
「へぇ。外から呼ぶとは、随分と本格的だね」
「はい。私は苗字でお呼びしてますけど、皆からはミッチー先生って呼ばれてて、凄くいい人なんですよ。新婚だって仰ってました。綺麗な指輪をしてて――」
「あぁいや、別に興味はないよ。それより、何か言いたいことがあったんじゃないのか。不安だったというだけか?」
1時間目の授業、もっと言えば朝のホームルームが始まるまで、もういくらもない。健が話を切り上げるべくそう聞くと、少女は少しだけ目を閉じ、何か決心したかのように見開いた。
「これ、どうぞ。作ってきました」
学生鞄から差し出された、弁当箱入りの巾着。健が何のこっちゃと首を傾げると、「先生が言ってました」と沙希。
「お昼、ちゃんと食べてないって。私、その、本当はお金とかがいいのかもしれませんけど、あまりないので……」
沙希は恥ずかしそうにというよりは、申し訳なさそうにうつむいた。次いで彼女は手にした巾着をぐいと突き出すと、そのまま黙ってしまった。
健にも、恐らくこれが相談料とでも言えばいいのか、それとも護衛料とでも言えばいいのか。いずれにせよそういったものに相当する何かなのだろうということは理解できた。きっと少女なりに懸命に考え、何か出来る事はないかと考えた結果だったのだろう。
健からすれば命を弁当であがなうというのはどうかとは思うが、しかし少女に命の危険がある事を教えないでいるのもまた、彼である。正直に言えば確かに現金が最も喜ばしいだろうが、それを女子高生に期待するのはいくら何でも酷だ。
「こういうケースは、なんというか。初めてだな」
ほんの数瞬迷った後、健はそんな事を言いながら巾着を受け取った。ずしりとした重さは何からくるものだろうか。
そしてほんの刹那、フラッシュバックする懐かしい記憶。
『お弁当、作ったんだよ』
ほんの小さな、まだ小学校の低学年かそこらの、無邪気な顔の女の子。両手でプラスチックのケースを大事そうにかかえ、差し出してくる。中には泥で出来たご飯や、おかずなのだろう塊。それを受け取る健の手もまだ小さく――
「…………まぁ、できるだけの事はするつもりさ。そろそろ教室へ戻ろう」
健は意識を現実に戻すと、少し強い口調でそう言い、返事も待たずに踵を返した。
彼は今でも呪の元を断つ事が最優先であり、少女の命は二の次だと考えている。大勢の命が危機であるのなら、ひとりの命などどうだと言うのだ。どちらかを選べと言われれば、間違いなく前者を選ぶ。そこに疑念の余地はない。
健は今までそうやってやってきたし、これからだってそうするつもりだった。
しかしそんな考えが、今は少しだけ後ろめたく感じた。
「えにし、えにしか。くそ、調子が狂うな」
誰にも聞こえないよう口の中でそうぼやくと、健は持ってきていた自分の弁当をどうするべきかを悩む方に、思考を切り替えることにした。




