第1話
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『禍つタケルの怪異事件録』 第1章 寺島沙希の怪
―――1―――
これは、間に合わないな。
東京は下町の商店街を歩いていた大和健は、目の前の男を見てそう思った。
彼が目にしているのは、夕方の時間帯であれば大抵の場所で目にする事ができる、平凡な中年サラリーマンの姿。
いくらかくたびれた茶色のスーツ姿のその男は、特に何がしか人と変わった様子があるようには見えない。特徴のない茶色の手提げかばんを持ち、眼鏡をかけ、黒の革靴をはいている。生気のなさそうな顔は会社帰りの疲れ切った勤め人と考えればおかしなところはなく、それらに注視すべき点があるようには見えなかった。
しかしそれは、普通の人間が視れば、の話だ。
「――――うぅ――ぁ――」
力のない、搾り出すような声。男のものとも女のものともつかない、地獄の底から漏れ出してしまったかのような、断末魔の声だと聞かされればあぁそうかと納得してしまうだろうそんな声は、商店街を歩く無数の人々の誰にも聞こえる事はなかったが、しかし健の耳には明確に届いていた。
「うぅ! あっ、あっがっ!」
今度のは誰にでも聞き取れる、不快な中年男の叫び声。男は苦悶の表情を浮かべると、苦しそうに自らの喉を掻き毟り、そのまま糸が切れたようにばたりと倒れ伏してしまった。
付近にいた買い物客が小さく悲鳴をあげ、周囲は何事かと騒然とする。町の喧騒がざわめきへと変わり、いくらもしないうちに小さな人だかりとなった。
「そんな勝ち誇った顔をされても困るね。僕は医者じゃあないし、もちろん正義の味方でもない。ただの高校生なんだぜ」
人だかりの隙間から倒れたサラリーマンの顔を見つめる健が、特に表情を浮かべるでもなく、淡々とそう呟いた。
「ぉ――ぉ――ぉ――」
再び聞こえる気色の悪い声。その出所は倒れたサラリーマンの口元。
しかしより正確に言うのならば、そして健の視点から表現するのであれば、それは中年男の首とアスファルトとの間に出来た隙間の奥。そこからこちらを覗き込んできている、一対のぎょろりと光る血走った目玉からだった。
「ぉまえ――みて――るな――」
目玉が不恰好に歪み、すぐそばに小さな口が割れるようにして現れる。それは正しい人間の配置からすると直角に曲がっており、厭らしい笑みを浮かべていた。
首の隙間からずるりと這い出したそれらは、薄気味悪い赤黒く変色した肉の上に乗っており、しかし顔と表現するにはどうにも無理がある、首がなく、胴もなく、ただひょろりとした肉の塊に、ただ無造作に取り付けられているような有様だった。
「見てるからなんだって言うんだ。それとも俺の方に来てみるかい? やめといた方が良いと思うぜ。今日のあいつは随分と虫の居所が悪いから」
くるりと踵を返し、中年男の遺体から背を向ける健。背後からは「心臓発作か」だの、「脳溢血じゃないか」だの、倒れた男を心配する声が漏れ聞こえてくる。
もちろんそうだろう。
きっと死因は、心臓マヒだのなんだのといった、そういったものだ。
いつも決まって、そういう形で現れる。
健は心中で哀れな中年男性に黙祷をささげると、後は振り返りもせずに自宅の方へ向けて歩き始めた。
すぐに目と口と肉で出来た化け物が彼の背後から飛び掛ってきたが、しかしそれが健に届く事はなかった。
化け物は、縦一直線に両断されていた。
健の背後には、腰まで届こうかという縮れた長髪を持つ、憤怒の表情を浮かべた大男が、古めかしい直刀を手に立ち尽くしていた。
私立北葛飾高校の校舎は、良く言えば伝統と趣のある、悪く言えばみすぼらしく古臭い、もう都内ではとんとお目にかかる事が出来なくなった、情緒あふれる木造のそれだった。
ただし伝統や文化が大勢の人命より優先されるわけもなく、そういった古めかしさはまことに表面上のみであり、中は法律で定められた耐震設計を満たすべく現代的な造りで揃えられている。知っている者からすれば、これを木造と呼ぶのはためらわれるだろう。
「悪くはなさそうな所だ。見晴らしも良いし」
真新しい学生服に身を包んだ健が、周囲を眺めながらぼんやりと言った。
ここはいわゆる23区の中に位置するが、しかし都心と呼ぶにはいささかためらわれる、そんな下町だった。景観を邪魔する背の高いビルは存在せず、遠目に見えるスカイツリーがせいぜい自己主張をしている程度のものだった。
「穢れの、匂いが、するぞ」
どこからか聞こえる、野太い声。健は特に不思議に思うでもなくそれを聞くと、「わかってるさ」と小さく返した。
「穢れてようが清らかだろうが、これから2年間お世話になるんだ。せいぜい楽しめるよう努力しないと、そいつは損だろう?」
そう言うと、健は小さいながらも存在するグラウンドを遠目に、ぶらぶらと職員室の方へと歩いていく。今日は転校初日であり、まさか遅刻するわけにもいかなかった。
「マガツ――マガツ――マガツ――マガツヒ」
ぼそぼそと聞こえる、呪文のような声。健はめんどくさそうな顔でそれを聞きつつ、鞄に入れておいた新品の上履きへと履き替え、木の板が敷かれた廊下を歩いて行く。ありがたい事にそこかしこに案内が出ているため、迷うような事はなかった。
「今日から仲間になる大和君だ。皆仲良くするようにな」
ホワイトボードの前で40名程の視線に晒されつつ、担任である谷岡にそう紹介をされる。好奇心に彩られた視線はまるで本当に色彩を帯びたかのように、真っ直ぐに健へと突き刺さってくる。
注目される事に快感を得る人種ではない健は、うんざりとした心情が顔に出ないよう注意すると、極力簡潔にまとめた自己紹介でその場を切り上げ、最後部に用意された自分の席へとさっさと向かう事にした。
「マガツ――マガツ――」
窓際の列を教室の半分も過ぎたあたりで、また声が聞こえてくる。健はつと歩きを緩めると、興味津々といった顔付きでこちらを見上げている女生徒の方を見た。立っている健と、座っている女性。自然とその目は、見下ろす形となる。
「よろしく、お願い、します?」
見られている事に困惑したのだろう、首を傾げ、おずおずと女性が発する。健は数瞬の間女性の方を見ていたが、やがてぶっきらぼうに「よろしく」とだけ返すと、今度こそ自分の席へと向かう事にした。
周囲からは「ひと目ぼれか?」だのなんだのといったはやし立てる声が聞こえ、先ほどの女生徒が真っ赤になりながらそれを否定している。着席した健はかばんを机のフックに預けると、口を開いた。
「美人は嫌いじゃないかな。眺めていて飽きないし。でもまぁそれを抜きにしても、興味はあるよ」
健の爆弾発言に、教室がいよいよ色めき立つ。すぐに教師が静まるよう声を上げていなければ、きっと長い間騒ぎ続けていた事だろう。
「名は体を表すというが、随分と胆の据わったやつだな。先生そういうの嫌いじゃないが、問題だけは起こすなよ。それじゃよろしくな」
担任教師はそう総括し、その後は決まりきった定時連絡やホームルームへと移っていった。健はさして重要ではない担任やら日直やらの声を聞き流しつつ、頬杖をついてつまらなそうにしていたが、しかしその目はじっと女生徒の後頭部を見つめ続けている。
もちろん、ひと目ぼれなどではない。どうやらサキという名前らしい女子生徒は、確かに健自身が先ほどそう称したように、整った顔立ちをしており、ひと目を引くに値する容姿をしている。すらりとした健康そうな肢体は男どもの興味を引くのに十分であり、女性らしい胸部の盛り上がりもそうだろう。所作も女性らしく、それでいてわざとらしくない程度の、傲慢な言い方をすれば、いわゆるわきまえた仕草というのが身についている様子だ。
健も当然ながら若い思春期の男性として、そういった対象に興味がないわけではない。しかし残念ながらと言うべきなのか何なのか、今の彼にはもっと興味が引かれる事があった。
「和気あいあいとしているが、どうなんだろうね」
視線を外し、足元を見る。
そこには地面から生えた、無数の小さな手。
指の数が5本だったり6本だったり、時にはそれ以上だったりするそれは、何かにすがり付くように、健の真新しい上履きへと伸ばされている。
開いた大きさがせいぜい足の親指程のそれらは、赤くぬらぬらとしており、粘着質で、薄汚く、時折他の手に潰され、熟しきった果実のように弾けるのだった。
「マガツ――マガツ――」
声はずっと聞こえている。健は無言でそれに頷くと、足で手の群れを蹴り払い、そして視線を先ほどの女性へとゆっくりと戻していった。
床は鉄で出来ている。
窓は鉄格子。膿でさび付き、血で洗われている。
遠くには黒い太陽が輝き、赤い空には雲ひとつない。
ひび割れた、赤と黒のまだら模様の机と椅子。鞄の隙間から伸ばされる小さな手と、黒い長髪を掻き分けるようにして現れる一対の目。
「さてさて、どうなるものやら」
健は頭の後ろで手を組むと、大きく仰け反り、そして小さく笑った。