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 必ずやるって決めたんだ。

 耳障りな喧騒に目を覚ますと、俺はそう決断したことを、すぐに思いだした。酔いつぶれて突っ伏していたカウンターから、上体をあげて辺りを見まわした。

 行きなれた場末のバー〈ワルプルギス〉の店内は薄暗かった。

 そこでの俺の通称は、シェイマス・ルアだ。一部の連中は、俺が生まれながらに「J」が発音できないことを揶揄したのが、通称の由来だと言っている。確かに、それに間違いはない。俺はいまだに「J」が発音できないのだから。けれども、通称が気に入っていないわけでもない。俺がいつもかぶっている、赤いニット帽を目印にすれば、足抜け屋のシェイマス・ルアに、商談を持ちかけることは、それほど難しくなかったからだ。

 足抜け屋と聞くと、逃げ足が速いと思うのかもしれないが、勘違いしないでほしい。いや、逃げ足がはやいことは速いんだ、時には逃げざるを得ないことも起こるからだ。しかし、俺の商売は逃げることじゃない。この町やこの国で、にっちもさっちもいかなくなった奴の、逃亡の手助けをするのが、俺の生業だというわけさ。ただしそれには、幾分かの心付けが必要なことは言うまでもなかろう。

 頭のいい奴なら、シェイマス・ルアが、赤毛のジェイコブって意味であることに、気づくんだろう。ジェイコブっていうのは、旧約聖書に出てくる、預言者アブラハムの一人息子、イサクがもうけた二人の息子のうちの一人、ヤコブのことだ。ヤコブがどんな男かを知りたいなら、プロテスタントの連中でも聞けばいい。俺のように子どものころから教会に足を運んでいた奴なら、ヤコブがどんな男かは、常識みたいなものだし、俺はそんなことを、ご丁寧に教えてやる気はないのだから。もっとも教会に目もくれぬ連中は、ヤコブのことを、ジェームスとか、ジャックとか気儘に呼んでいるから、ヤコブのことなど知らないかもしれい。なにしろ最近の若い奴らは、俺が天使のような子どもだった頃のように、聖書なんて真面目に読みはしないんだから。

 それにしても今夜の〈ワルプルギス〉は(やかま)しい。

 女店主のマッヂが、気前よく誰彼となく、酒をふるまっているせいなのだろう。マッヂは愛嬌のない女ではないし、顔やスタイルだって捨てたもんじゃないのだが、自分の愛称にやたらと拘泥しているのか、無銭(ただ)飲みさせてくれるときは、いつだってマルガリータなんだ。カクテルグラスの縁に塗りつけた塩は、砂を噛んでる気分になるし、グラスから透けて見える、半透明の白いあの色は、寒々しい気分を醸し出すから、俺は好きじゃないんだ。けれども、収穫祭(ハロウィン)が近いことに浮かれている連中は、そんな好き嫌いには無頓着らしい。

 マッヂが無銭酒をばらまくのは、酒言葉の「無言の愛」にあやかった表現だと言う奴もいるが、ひねくれ者の俺には、そういう風には見えなかった。マッヂとは幼馴染で、お互いにまだ毛も生えそろってない頃から、双子の姉弟みたいな間柄をつづけてきたんだ。だけど、一度や二度は押し倒しちまいたい誘惑に、負けそうになったこともある。実際、美味い酒と甘いムードという条件が整った、大学の卒業式の晩には、危うく理性を失いそうになったんだ。けれども、今でもマッヂを抱きたいかって聞かれたら、恐らく首を横に振るんだろう。幼馴染は幼馴染でこそ価値があるからだ。情愛を持ち寄ったがために、駄目になっちまった友達夫婦を、何組も見てきたせいで、きっとそう思うのだろう。

 だけど幸運なことに、いまだ友達夫婦をつづけている奴らがいることも確かだ。

 〈ワルプルギス〉につめかけた雑多な人群れのなかで言うなら、ヴァガリー夫妻がそれだ。魔女の仮装をして、店の真ん中に腰を据え、顔見知りを見つけると、挨拶とばかりに「悪戯か(トリック・)(オア)お菓子か(・トリート)!」と奇声をあげて、はしゃいでいるのが、ヴァガリーの女房ウィムジーだ。

 俺はその「悪戯か、お菓子か!」という声を聞くたびに緊張を覚えて、ヴァガリーの女房のほうを盗み見ていたんだが、その理由は、必ずやると決めたはずなのに、心中深くでは、「やる、やらない」を決めかねていることを、見透かされてるような気がしたからなんだ。

 俺は本当に「やるのか、やらないか」を自分に問いなおしながら、着ているジャケットのポケットに手を入れて、そこにきちんと納まっているリコモンを、震える指先で確かめた。だが、ウィムジーは俺のなかで決意が揺れ動いていることなど、まるで気づかぬ様子で、

「なんだいシェイマス、そんなしけた顔をしてさァ。明日は収穫祭なんだし、今夜のマッヂが見せてる景気のよさは、そうあるもんじゃないんだよ。もうちょっと楽しそうな顔をしなさいよ」と言った。

「それとも何かい、柄にもなく、今年も(おんな)の穫り入れに失敗したことでも気にしてるのかい、いい加減に年貢を納めて、マッヂのいい(ひと)になっちまいなよ」

 酒の勢いもあったのだろうが、どうやら俺は、図々しく思ったことを口にするウィムジーに、嘲弄にされているらしかった。

「なんならあたいが、あんたの健康と、あんたがマッヂに告白できる男になれるようにって、祈ってやってもいいんだよ。さあグラスを持って」

 俺は仕方なくグラスを掲げた。

「乾杯!」

 そのあとウィムジーは豪快に馬鹿笑いしやがったんだ。

 無性に腹が立った。彼女のふざけた態度にはもちろんのこと、ヴァガリーの女房が無頓着な軽口を叩けるほど、存分に酒をふるまったマッヂにも、無性に腹が立った。いやむしろ、マッヂへの怒りのほうが激しかったかもしれない。心中に異様な緊張を抱えていなかったなら、俺はきっと、いきなれた便所に飛び込んで、その床を洗うデッキブラシを引っ掴んできて、マッヂとウィムジーのことを殴り倒していたことだろう。

 俺はなんとか激情を抑えようとして、カウンター越しに立ち働いている、女給仕のミーナに話しかけた。

「あんたはワイン党だったっけ?」

「いいえ、普段はあんまり飲まないんですけど、今日はなんとなくです」

「みんながあの調子じゃ、安心して飲めないってわかけか? もっとも俺は、あんたが酔っぱらったのを見たことがないんだがね」

 彼女は、はにかみながら赤ワインをひとくち口に含むと、それをテーブルに戻して、布巾を手にしてグラスを磨きだした。ミーナは美人とは言えなかったが、かといって見られない顔というわけでない。言うなれば、人を不愉快にさせない、不思議な雰囲気のある表情をいつも浮かべているんだ。彼女の仕草は、淑やかと言いきれるほど上品ではないが、だからといって、田舎娘がもつ土臭さがあるわけでもない。とにかく、こんな町に留まっているべき器量の女ではないんだ。なぜ、こんなうらぶれたバーで働いているのかと思わせる、結構いい女なんだ。あえて言うなら、どこまでもつづく丘陵の草原で、犬を連れながら山羊や仔牛を追う、牧歌的な清爽(せいそう)さが似合うのだと言えるんだろう。

 だから、ミーナが壁にかかった時計の針が、十二時を刻むのと合わせるように、グラスのワインを飲みほして、

「どうやら時間のようですね」

 と言い、赤いとんがり帽子を頭に乗せたのを見たときには、俺は目を点にして驚いたのだが、彼女がそのあと口ずさんだ、呪文とも詩とも掛け声ともいえない言葉を耳にしたときには、正真正銘の驚きのあまり、椅子から転げ落ちたんだ。


  のこぎり草とヘンルーダ、

  そして赤い帽子にかけて、

  イングランドへ、それ急げ!


 椅子に座りなおした俺は、わが目を疑った。

 ミーナが手にしていたワイングラスを空中に放り投げると、そいつはたちまち白鳥になり、彼女を乗せて浮きあがり、まっしぐらにバーの入口の扉を、飛びぬけていったんだ。さらには、ヴァガリーも、その女房のウィムジーも、ミーナに遅れるなとばかりに、それぞれ鵞鳥(ガチョウ)やら(カモ)に乗って、飛び出してゆく。そうして、それでは私の番ですねという顔をして遂にはマッヂまでが、手にしていたカクテルグラスを、投げあげようとしたから、俺は慌てて、

「ちょっと待て!」

 といって彼女の手からグラスをひったくり、カウンターの上に置いていた赤いニット帽を掴んでから、グラスを宙に放り投げた。不思議なことだが、あとは勝手に進んだ。俺の口から自然に言葉が流れ出したんだ。


  のこぎり草とヘンルーダ、

  そして赤い帽子にかけて、

  イングランドへ、それ急げ!


 すぐにマッヂが俺につづいてくるのがわかった。哀れなことに、彼女が(またが)っていたのは、翼あるものではなく、箒でもなく、あの便所掃除用のデッキブラシだったんだ。愉快な気分だった。ウィムジーと乾杯しながら、マッヂに無性に腹を立てたときに味わった鬱憤がたちまち消し飛んでいった。それでも可笑しさは止まらなくて、俺は(カモメ)のうえで抱腹絶倒した。

 だが夜空の旅は油断ならなかった。濃紺の天上いっぱいに散らばる星々のすべてが、流れ星になったかに見える猛スピードで飛翔していたのだから。

 ミーナを先駆けとした一行は、野を超え、山を越え、湖や湿原を遥かに見おろして、意志のある突風のように突き進み、古びた城が見えてくると、スピードを落とした。そうして城内に潜り込める場所を探すために、高度を下げていった。ミーナはもちろん、ヴァガリーもウィムジーも、そしてマッヂも城にある開いた扉を見出すと、そいつをさっさとくぐり抜けていったが、俺にはそんな器用な芸当が出来るとは思えなかった。案の定、開いた扉を見出すことが出来なかった俺は、凄まじいスピードで樫の木でできた扉に、頭から突っ込んで、木っ端微塵になることを覚悟のうえで急降下したんだが、不思議にも俺と俺を乗せた鴎は、一瞬にして蟻のように小さく縮んで、見事に鍵穴を通り抜けたんだ。

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