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第6話

 ヒロミは立ち上がった。テーブルにしがみ付いて、それでなんとか姿勢を保っている。そこから手を離し、一歩、前へと進む。


「ま、待ってください……! 私の話を聞いていましたか!? 今さら貴方にできる事なんて」


「どけ……」


 ヒロミは腕でツバキを押しのけ、ようとして逆に自身がふらついた。


「こんな身体で行って、何ができるというのですか!? 治療に専念してください!」


「それ、でも」


 ヒロミは前へと進もうとする。が、足が縺れてツバキに凭れ掛かるように倒れた。


「どうして、そこまで……」


 ツバキの声は震えていた。


「貴方がいなくたって、警察が対応してくれるのですよ?」


「それでも、俺がやらなきゃ。これが俺の、生きる理由、だから……償い、だから」


 ツバキは言葉に詰まり、それからポツリと零した。


「復讐、じゃなかったんですか」


「……」


「貴方のやってる事は、言ってる事と真逆です! 自分の為と言いながら、ずっと他人の事しか考えていないではありませんか!」


「……はッ。俺はそんな善人じゃない」


「いいえ! 他者の為に自分を犠牲にして何かを為す。これが善人でなくてなんというのですか! 貴方は一体どこまで……私の、思い描くヒーローなのですか!? ですが現実でそれをしては、死んでしまいます……!」


「俺は、お前が思っているようなヒーローなんかじゃ、ない。最低の男だよ」


 ヒロミはツバキを押しのけ、歩き始めた。部屋を出る間際、ツバキが動いた。背中に衝撃。ヒロミは背後からツバキに抱きつかれていた。

 離せ、とヒロミが言うより早く。ツバキが口を開いた。


「……本当は、違うんです」


「何の話だ」


 突然の話題に、ヒロミは困惑する。


「中学1年生の時。レイプされて怖かった。辛かった。自分が酷く穢らわしい物に思えた。悔しくて、惨めで……私をそんな目に遭わせた奴らが憎くて憎くて。でも、それ自体はすぐにどうでもよくなったのです。それ以上に辛い事が、起きたから」


「……おい」


 ヒロミはツバキを肩越しに見る。制止も聞かず、彼女は語り続ける。


「両親がお金を貰ったんです。それで言ったんです――『相手も悪いと思ってるみたいだし、許してあげなさい』って」


 ツバキは笑っていた。


「昔の私は、すごく馬鹿だったから……何度も吐いて、泣いて、それでも両親の言う通りに忘れる事にしました。少しだけ時間がかかったけど、それでも再び、いつも通り学校に通い始めました。でも、そうしたら……」


 ツバキの笑い声は、まるで壊れた人形のようだった。


「また、レイプされたんです」


 ケタケタ、ケタケタとツバキは笑う。


「相手、誰だったと思いますか? それが笑えますよ、担任の先生です。今まで良い人だった先生がいきなり理解できないものになって、恐怖で逃げる事もできなくって。私は抵抗もできないままに犯されました。それからね、先生は私の手にお金を握らせたんです」


 ツバキが、ふぅと息を吐いた。


「人って怖いですよね。学校を休んでいる間に、いつの間にか噂が広まっていたんです。私が、お金を貰って身体を売ってるって」


 ツバキは「ほんと、どこから漏れたんでしょうね」とどこか他人事のように言った。


「それからね、いろんな人に私は抱かれました。子供ができなかったのや病気にならなかったのは、今思えば奇跡でしかありませんね。でも当時の私はもう訳がわからなくて、ただ両親の言う通り学校に通い続けました。――あの時までは」


 ツバキの声音が変わる。ゾッとするような声だった。


「休日でした。理由も忘れましたけど、私は外を歩いていたんです。その時、私は偶然に担任の先生に出くわしたんです。奥さんと娘さんと一緒にいる所でした。きっと家族でお出かけでもしていたんでしょう。そうしたら、どうなったと思います?」


 ツバキが楽しそうに笑った。


「担任の先生がこっそりと私を二人きりになれる場所へ連れ出したんです。あぁ、また犯されるんだなって私は思って……でも、違いました。先生は土下座して、言ったんです。――『私にできる事ならなんでもするから、妻と娘には内緒にしてくれ』って」


 ツバキはまるでそれが、自身にとって救いであったかのように話す。


「それから先生は持っているお金を私に渡しました。訳がわからなくて黙っていると、お金を降ろしてきてさらに渡しました。それは私が今までに見た事がないようなお金の束でした」


 心底おかしい、とばかりにツバキは笑う。


「それからの学校生活は一変しました。先生は私の成績全てに最優を付けました。ビッチだって、汚いって苛めてくる同級生から庇うようになりました。世界が違って見えました。……そう、私は初めて力を手に入れたんです」


 ツバキはどこか遠くを見ていた。


「私には才能があったんだと思います。こう言ってはなんですが、レイプ魔に目をつけられるくらいには顔が良かったし、地頭も良い方だったので。学校も辞めて、家を出て、それから色んな人に偶然を装って近付きました」


 ツバキは「男の人って皆、変ですよね」と笑う。


「私が困った顔をしていると、警察ではなくて自分の家に連れて行くんです。そうして私は色んな男の人に気に入られて、取り入ったり、あるいは弱みに付け込んだりしていきました。そして気付くと私はいつの間にか、自由に生きられるだけの力を手に入れていました。お金という名の免罪符と、情報という名の力です」


 ツバキの口調はいつしか、疲れの漂うものとなっていた。


「でも、そうなって逆にわからなくなってしまったんです。これから先、どうすればいいのか。欲しかった物が既に自分の手の内にある事に気付いてしまって……でも、空っぽだったんです。心に、何もなかったんです。そんな時でした」


 ツバキの目に少しだけ光が灯る。


「私はこの会社の社長である小春アキカズを見つけました。といっても、今と違って小さな会社の貧乏社長でしたけど。いえ、貧乏どころか倒産間際でした。初対面では、私のオトモダチの一人である銀行の上役に土下座していました」


 懐かしむようにツバキが目を閉じる。


「最初は寝物語の一つとして、銀行員さんにその土下座してた人の話を振ったんですよ。何か弱みでも握れそうな話をこぼしてくれないかなぁと。そうしたら、ちんけなカメラ会社の社長だと。コストパフォーマンスの良い品ではあるが販売ルートやコネもなく、目処もつかぬまま量産し……それで、あっさりあのザマだ、と笑っていました」


 ツバキが笑う。それはどこか挑戦的な笑みだった。


「その瞬間、これだ! と思いました。それは直感や天啓に近いものだったと思います。私は小春アキカズに近付きました。えぇ、とても簡単でしたよ。追い詰められた人間に、優しい言葉や人の温もりは何よりも効きますから。彼はあっさりと私の言いなりになりました。実際、私の言う通りに動けば、あっという間に会社は立ち直ったんですから。まぁ当然ですね、裏で私がオトモダチの皆さんに協力をお願いしていたんですから」


 満足したようなツバキの顔。


「警察関係のオトモダチ、政治関係のオトモダチ、IT関係のオトモダチ、警備関係のオトモダチ。色んな方に協力していただき、私はこの防犯システムを構築していきました。全ては、私みたいな人間をもう出さない為。実際、防犯システムは多くの犯罪者を捕らえ、あるいは犯行を未然に防ぎました。……そこからはもう話しましたね」


 ヒロミは頷いた。そこで、彼女の夢は頓挫したのだ。


「きっと、私は羨ましかったのです。画面越しに見た、貴方に助けられた人達が。そして貴方自身が。私も助けて欲しかった。私にもヒーローが現れて欲しかった。そして何より、警察や権力者の良いなりになっていた私とは違い、自由に人助けをする貴方に憧れました」


 ツバキは息を吐く。


「本当は貴方の能力なんてどうでもよかったのかもしれません。私はただ羨ましくて……だから貴方をヒーローに選んだのかもしれません。あるいは選んだなんていうのは全くの逆で……」


 ツバキはゆっくりとヒロミを解放した。


「スーツには一部パワーアシスト機能があります。今の貴方でも五分には動けるようにしてくれるでしょう」


 ヒロミはツバキにゆっくりと振り返った。


「なんでそんな話を?」


「……なんででしょうね」


 ツバキが苦笑する。


「もう私は貴方を止めません。でも、どうか、お願いします……私に貴方のお手伝いをさせて頂けませんか?」


「……断る。俺は一人だ。お前と組む気はない」


「酷い人ですね」


 ツバキが諦めたように言い、「だが」と続けたヒロミの言葉に顔を上げた。


「スーツは使わせてもらう」


 そう言い、ヒロミは背中を向けた。


「そう、ですか。……そうですか」


 喜色の混じった声。彼女がどんな表情をしていたのかを、ヒロミは知らない。


   *  *  *


「くそッ! どこへ消えた!?」 


「いつの間にっ……ぎゃぁあああああッ!」


 阿鼻驚嘆。絶叫と悲鳴と発砲音とが連鎖する。警察官が必死に応援を求めながら、感染者を拳銃で牽制する。


「なんだって、こんな事に……!」


 避難中だった集団の一人が突然苦しみ出し、倒れた。かと思えば立ち上がり、周囲の人間を襲い始めた。対処が遅れた。倒れた人の家族が、その人物を拘束する事や置いていく事に酷く抵抗したのだ。

 抵抗した人物は母親で、暴れ出したのはまだ中学生の男の子だった。


「お願いします、あの子を撃たないでください! お願いです……!」


「なっ、離せっ! 離れなさい!」


 警察官に母親である女性がしがみつき、邪魔をする。あたりは混乱に塗れていた。しかも感染者は神出鬼没だった。まるで瞬間移動でもしているように、警察官には見えた。

 同僚が一人やられ、もう市民を守れるのは自分しかいない。だが、自分も動けない。制服を着ているのは、こんな時に市民を守るという覚悟の証だった、はずなのに……。


「――なっ」


 真横だった。すぐそこに感染者がいた。咄嗟に彼は、女性を突き飛ばした。まだ小柄な、にも関わらずとんでもない握力が込められた腕が警察官の首を締め上げる。地面に押し付けられる。拳銃が地面を転がった。


「がっ、か……は、ぁ……」


 必死に藻掻く。しかし、だんだんと意識が遠ざかっていく。ミシミシと首元で音が聞こえた。すぅっと意識が浮かび上がるような感覚。脳の奥がふわふわとする。ブクブクと口の端から泡が溢れ、唾液が頬を伝い落ちていく。


 やがて力が抜け、ダラリと腕が落ち――る、直前。バチバチという音が鳴った。弾かれたように感染者が地面を転がる。


「がほっ……ごほっ……! げほっ……!」


 四つん這いになって噎せる。勢いよく息を吸い込み過ぎた反動だった。すぐ側に影が立っていた。チカチカする視界の中、警察官はその存在を見上げていた。


「なん、だ……あんた、は」


「俺か? 俺は――ただのヒーローさ」


 黒を基調としたどこかメカチックな全身タイツ。頭部をグルリと一周するような赤いライン。そして腕には壊れた時計。

 そこに立っていたのは、一人のヒーローだった――。


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