番外編 尖晶クガイとマツヨイ
尖晶屋敷に戻るとき、クガイは旅行好きの友人から一番でかいスーツケースを二つ借り受け、中に食料品や嗜好品など家族への贈り物をパンパンに詰めて戻ることにしている。戻るのは学期の終わりと長期休暇のみだ。あまり頻繁に実家に出入りしていると、よけいな監査が入りかねない。
尖晶家に生まれた人間は翡翠女王国において人間だとは見なされていない。
もちろん魔術師であっても人間なのだが、肉体から魔眼を分離させることが不可能であるために魔法生物という雑な括りに入れられている。しかも感染性の、である。病原菌か何かだと思われているのだ。
よって尖晶家の人間は、尖晶屋敷の外に出ることが許されていない。就労はおろか、ちょっとした買い物も認められていない。外部との通信も原則不可能で、食料から衣類、日用品に至るまで、女王府に申請して購入してもらわなければならない。費用はすべて税金で賄われるが、《世論を鑑みて》魔法生物保護に関わる予算の規模は縮小し続けている。
久しぶりに訪れた生家は幽霊屋敷の様相を呈していた。
壁を這うツタや枯れた茨はそのまま、照明は暗く、床は軋み、窓や鏡には罅が入り、隙間風と呼ぶのもおこがましい強めの風が堂々と入り込む。
しかし、クガイを迎える父母はにこやかに手ぐすねを引いている。
二人とも、二十歳も過ぎた息子のたまの帰還よりも、生活必需品の付け届けが目当てなのだ。
この家の中で、自由に買い物に出れるのは魔術学院の研究生であるクガイしかいない。
「元気にしておったか、我らが愛しい息子よ」
父親は両手を伸ばし、クガイの首筋を叩いた。
彼はコバルトブルーの魔眼の持ち主だ。閉じこもらざるを得ない生活ですっかり黒髪が白に変わり、ここ数年で体形も緩んだ。母親は尖晶家の遠縁でこちらも魔眼の持ち主。二人が一緒になったことが、この家の不幸の元凶でもある。
「望みはこれだろ? 親父殿」
クガイがどこからともなく葉巻の箱を取り出す。
「おっ、相変わらず。どうやって監査役を黙らせたのか実の息子ながら見当もつかないな」
「この数年でその手のやり方には精通しました。今なら身ひとつでも、シャンパンボトルを誰にも見とがめられずに持ちこんでみせますよ」
母親と妹のマツヨイはスーツケースを開け、巧みに偽装された酒類を、キッチンの床下に隠していく。強い酒はこの屋敷での暮らしに欠かせないが、三年前の法改正でクガイが用立てない限りは手に入らない貴重品になった。
「おかえりなさい、お兄様」
年頃のマツヨイは、髪を切ったらしくショートカットになっていた。すらりとした細い体や黒いタートルネックのセーターとスカートという格好に良く似合う。
色彩は彼女のいちばんの特徴である、初代尖晶家当主と同じ黄色い瞳だけだ。
彼女の歩みを止めたのは、クガイが差し出した紙袋だ。パール地の紙に銀色の箔押しで店名とエンブレムが描かれた、いかにも高級店のもの。
「これはコチョウから君へ」
マツヨイは腕を組み、斜めに兄・クガイを見上げている。
マツヨイの黄色い瞳が、面白そうに歪む。好意のかけらもないのに、笑っている。それも相手を限界まで見下すときの嘲笑だ。
挑戦的、という表情が正しいのだろう。
「ふうん…………」
ほっそりとした指が、クガイが捧げ持った紙袋から布張りの箱を取り出した。
宝石が並んで入っていてもおかしくなさそうな箱だ。
その蓋を開くと、宝石細工のように繊細に輝くチョコレートがぎっしりと敷き詰められている。ひとつ取り上げて、容赦なく口に放り込むと、猫のような瞳を残酷そうに細めた。
「コチョウ様には、こんなものでこのマツヨイの心をお兄様から奪おうだなんて笑っちゃうわ、とお伝えくださいませ」
「言っておくが、これだけで研究生としての俺の給料ひと月分に値する、この世にこんなバカ高い菓子が実在する事実のほうが信じられないくらいの高級品なんだが…………」
「いらないならお父さんがもらっちゃうぞ」
そろそろと横合いから伸びてきた太い指を、マツヨイは払い落して、箱を抱えたまま自室へと逃げていく。
両親が同時に吐いた溜息が、その後を追っていく。
「そう毛嫌いしなくとも……。クガイ、お前と乙女様、そして星条家のコチョウ殿とマツヨイの婚約を取りまとめたのは、何につけてもうだつの上がらないお父様にとって、シンシュ市とチョウジ市を繋ぐコガネ大橋を架けるようなもの。一世一代の大事業だったのよ」
「人の婚約を公共事業に例えるとは、世間離れに拍車がかかってますね、母上殿」
「笑いごとじゃないのよクガイ」
マツヨイの部屋の扉が勢いよく開いて、マツヨイが顔を出す。
ちなみに、尖晶屋敷にプライベートは存在しない。玄関先で話したことは、風呂場でも、トイレにいても、全て聞こえる。
「コチョウと結婚なんか、絶対にいやよ! 相手がコチョウだっていうのも最悪だし、どうして他の女と寝てるってわかりきった男と結婚しなくちゃいけないの!? そんな馬鹿女にはなりたくない!!」
「二度と女王陛下を女って呼ぶんじゃない! うちの壁はお前が思ってるよりずっと薄いぞ!」と父親が怒鳴り返す。
母親は後ろを向いて、青白い額を強く押さえた。
「お金持ちの貴族との結婚なんて、斡旋業者の中抜きが話題になったミルチャ音楽堂復興事業のようなものじゃない。建前ってものがわからない年でもないのにあの子ったら……」
「だから、なんで公共事業なんですか? 相変わらず我が家族は面白いなあ」
「笑いごとじゃないのよ、クガイ。だいたい、貴方のせいでしょ」
「え? 僕の? コチョウの性格が地獄みたいに悪いからじゃなくて?」
両親がいっぺんに頷く。
「貴方のせいよ」と母親が重ねて言う。
「お前のせいだな」と父親。
ああそう、と応じて、クガイはチョコレートを口に放り込んだ。
彼の手には、先ほど蓋が開かれた瞬間にくすねられた高級チョコレートがいくつか乗っていた。三人はそれをつまみながら、反抗期の長女についてそれぞれの思惑を思い浮かべていた。
*
マツヨイの婚約が決まったのはクガイが十二歳、マツヨイがわずか九歳の頃だった。クガイとコチョウ、そしてミズメが未来の女王の《騎士》として正式に決定したのも同じ頃で、その決定のごたごたで、クガイの父親、ヤハズも翡翠宮へと出入りする機会を得てマツヨイの婚約を取り付けることとなった。
とはいえクガイが騎士候補になったのが生まれた直後であることを考えれば、貴族同士の婚約が行われるのに、それほど無分別な時期とは言えない。
それに、クガイにしろマツヨイにしろ、その婚約に感情を差しはさむ余地は無い。いずれにしろ、その両者は尖晶家のとある野望のために企てられたものだ。
その日、ささやかな夕食を摂りながら交わされた会話の全てがその野望についてである。
両親が女王府との対話を重ね、一人息子を魔術学院に放り込んだのは単なる思い付きではない。ひとえに、クガイに《魔眼》の研究をさせるためだ。
尖晶家の《魔眼》から魔術の力を取り除き、市井に出て人並みの生活をする。
それこそが両親のささやかな野望なのだった。
だからこそ切れかけの電球の下で、冷たく乾いたパンをスープで湿らせて胃に流し込む間も、両親がクガイの研究報告に走らせる目は指導教官よりもよほど真剣なのものだ。
コチョウの贈り物のせいですっかり機嫌を損ねたマツヨイは夕飯にも顔を出さず、再び現れたのは九時頃、古式ゆかしい蝋燭の明かりで研究資料を読んでいたクガイの部屋だった。
廊下の軋む音は一切しなかった。
「兄さん、一緒に寝てもいい?」
小さな甘えた声で囁く。
「君は婚約者のいる令嬢だ。家族でも同衾が許される年齢じゃない」
正論が通じる相手ではなかった。マツヨイは軽快に部屋に侵入し、蝋燭の火を吹き消し、ベッドに潜り込んだ。
「出て行きなさい。ほら、二人分の体重を支えられるほど頑丈な床だとは思えないし……」
「大丈夫よ。兄さんが出ていくまでは、ずっとふたりで眠っていたでしょう。それともここで大声を上げられてもいいの? 大好きよお兄様」
クガイはいつも通り渋面を作り、ワカナエ新市庁舎造成を巡る贈収賄事件で徹底的に証拠を押さえられ、マスコミの前で醜態を晒しながら全面降伏するはめになった市長側弁護団のように、諸手を上げて脅迫と侵入と愛情の告白を許すことになった。
「兄さん、好きよ」
マツヨイは無邪気にクガイの体の上にのしかかる。
いや、どう足掻いたって軋む廊下を無音で歩ける人間が、それほど無邪気かという問題はある。
しかも彼女はネグリジェ一枚で下着だってつけていないのだ。
「私、お父様とお母さまとは違う意見なの。いつも言ってるでしょ」
クガイの腕の中で、マツヨイはくすくすと笑い声を上げている。
薄い毛布の下に魔女の黄色い瞳が輝いている。
クガイは諦めて、マツヨイの細くて軽い体を抱いて、埃まみれの天井を見上げる。隙間風と一緒に入り込んだ夜は、灰色の混じった青い色をしていた。
確かに、幼い頃からクガイはマツヨイと一緒にいた。
それは兄妹愛のなせるわざというより、貧乏のなせるわざだ。少なくともクガイにとっては。
「わたし、お兄様と結婚したい」
「おいおい、なんて馬鹿なことを……。ずっとこの屋敷にいるつもりか?」
目的のために、有力な結婚相手は必須だった。
星条家は知っての通り名門かつ金持ちで、尖晶家の娘を妻としても十分な暮らしができる。尖晶屋敷以外に魔法生物の居住地として登録された邸宅を与え、ゆくゆくはマツヨイが自由に暮らせるよう法改正にも取り組むと言っている。
クガイに続いて、マツヨイも外に出られるのだ。
「尖晶屋敷から一生、出られなくてもいいよ。だって、お兄様がいてくれるでしょう?」
「君は一生の長さを本当に知ってるのか」
「知っている。お兄様の命の長さと同じよ」
マツヨイは他の世界を知らない。屋敷の外を知らず、屋敷の外にいる男のことも知らなかった。知っているのはクガイだけだ。
そしてそれで十分だと思っている。
でもクガイは違う。
こうして、ただただ滅びていくだけの尖晶屋敷で、かたわらに妹の重みを抱いて眠るとき、彼はもしかしたらここは難破船の船室で、自分は沈んでいくのを待っているだけなのではないかと、そんなことを思うのだ。
どれだけ魔眼の力が貴重でも、運命までは変えられない。
マツヨイをはじめとする家族といるとき、クガイはひどく無力な気持ちになった。
そういうあらかじめ定められた人生というものの強力な引力を感じるとき――母親が精神安定剤を酒で流し込むのを見るようなとき、クガイが考えるのはマツヨイとは正反対のことなのだ。
彼が考えるのは光のことだ。
深海に沈んだ船底から、奇跡のように差し込む光のことだ。
暗がりが深ければ深いほど、過去の光は強くなる。
十二歳の美しい春、星条コチョウは屋敷を訪ねてきた。婚約者として推薦されたマツヨイに会うためだ。天使のように愛らしく、この世の苦しみを何一つ理解せずに育った少年だった。白に限りなく近い銀色の髪の輝きを忘れることはない。
その光には、自分は絶対に逆らえないだろう。
どれほど邪悪でも、嫌とは言えない。
ここは希望のない閉ざされた狭苦しい船室で、一筋の希望に縋りつかなければ息をすることもおぼつかないのだから。
「お兄様、好きよ」
マツヨイが囁く。夜は際限なく更けていく。
永遠とも思われる時間が、自らの鼓動とともに横たわっている。
そして無限に夢を見る。
夢は、いつかクガイから何もかもを奪い去るだろう。




